『泥に孵る』
2026/02/09 全編、加筆修正しました
――そこは、名前すら「通貨」にすぎない場所。
清潔で無機質な「上層アッパー」の真下に広がる、吹き溜まりの街「棄域(Layer-Zero)」。 黒い雨が降り注ぐこの街では、人間は二種類に分けられる。 搾取され、消費されるだけの「肉ミート」。 そして、己の名を掲げ、刃を振るう「牙ファング」。
これは、親からも名前を呼ばれず「肉」として生きてきた少年・皓が、一人の男との出会いによって己の「牙」を見出し、血塗られた闇を駆け上がっていく、魂の変遷の記録である。
『棄域きいき―― Layer-Zero』
近代未来の真下や隙間に存在する、棄域きいきあるいはLayer-Zeroと称される多層構造の街がある。
24時間ネオンが消えることない清潔で無機質な管理社会、上層アッパーから隔絶された、上層の廃棄物や排水が流れ込む吹き溜まり、棄域。
路地裏は迷路のように入り組み、廃ビルを巣のようにして暮らす住人たち。ここでは戸籍も法律も何の意味も持たず、力と名前だけが通貨となる。
この街には、明確な階級意識が存在する。それが肉と牙である。
肉とは、名を呼ばれることもなく、意思をないがしろにされ、ただ消費され、搾取されるだけの存在。牙とは、自分の名前を持ち、自らの意思で刃を振るう者。
この二層を分ける掟がある。名前を奪われたものは、肉に堕ちる。
棄域の空は、常に淀んでいた。上層の工場排気を含んだ雲から降り注ぐ雨は、粘り気のある黒い雨。この雨が降る夜は、視界が悪くなり、殺しや闘争に最適な「狩りの時間」となる。冬ともなれば、上層の塵が凍った、無機質な灰色の雪が降ることとなる。
経済はといえば、正規の店などなく、ゴミ捨て場から拾ったものや盗品、情報と命が取引される。
棄域の一画。薄汚れたトタンの屋根からは、絶えず腐った雨が滴り、足元の泥を抉って居た。狭い路地の突き当たり、湿った段ボールの臭い。そこを塒としているのは、鉄という男だ。
かつては地回りの下っ端として鳴らしていた為、骨格だけはやたらと太く、しかし、長年の不摂生と酒で、筋肉は落ち、ぶよぶよとした贅肉が重力に従って垂れ下がっている。目尻が切れ上がった濁った瞳。常に脂ぎっており、無精髭には食べカスや酒の匂いが染みついている。過去の喧嘩で右の耳たぶが欠けているのが特徴だ。
そんな男が濁った目を向けた先、酷く痩せた少年がいる。鉄の息子だ。だが、鉄が少年を息子だと思ったことは一度もなかった。食費がかかる「不良債権」か、あるいは小銭を稼いでくる「道具」としてしか認識していない。組織の幹部などの前では這いつくばり、その屈辱を持ち帰り、少年を痛めつけることで自尊心を保っている。
少年の名は、皓といったが、その名を呼んで貰えることは皆無で、「肉」「ガキ」と呼ばれるのが常。個としての尊厳を奪うことで、精神的な首輪を掛けていた。
更に、「お前は独りじゃ生きていけない」「外に出ればもっと酷い目に遭う」という言葉の毒を毎日吐きかけ、皓の自立心を削いでいた。そしてまた、 皓が空腹に耐えかねて自分に縋ってくる瞬間を、歪んだ愉悦として楽しんでいる。
鉄は空になった安酒の瓶を弄びながら、濁った眼を向ける。
「……おい、肉。飯だ。その辺の屋台の裏、漁ってこい」
酒焼けした声で命じた。“肉”。男が自分を呼ぶその響きに、奥歯が軋む音がした。十歳の体躯は未だ細く、生傷絶えない膝は寒さに震えている。だが、三白眼の奥に宿した光までは、まだ殺されては居ないし、気紛れに振るわれる暴力に耐える為に鍛えられた筋肉は、野生動物のようにしなやかで、無駄な脂肪が一切ない。だが、あちこちが青痣や瘡蓋で覆われていた。
「……俺は、肉じゃねぇ」
呪詛を込めたような掠れた声で言い返せば、直後、飛んできた瓶がこめかみを掠め、熱い血が頬を伝う。その痛みすら、空腹を紛らわせるためのスパイスに過ぎない。避けたところで、苛立った鉄から更なる暴力を受けることが身に染みているから、敢えて受ける癖がついていた。
ただ、打撃の瞬間、筋肉を弛緩させ、重心をずらすことで、衝撃を散らす術を本能で覚えた。そして、殴られている間、意識を切り離し、「鉄という肉塊の挙動」を客観的に観察する。鉄の呼吸の乱れ、筋肉の弛緩、酒による反応の遅れをすべて記憶する。俺にとって暴力の時間は、敵を解剖するための「観察時間」に変質していった。
こめかみのひりつく疼きを切っ掛けに、黒い雨の降る闇の中へと、音もなく身を滑り込ませた。
『棄域』の底、上層の排水が流れ込む路地裏には、常に腐った雨の匂いがしていた。黒い雨粒が汚れたアスファルトを叩きつけ、小さな水溜まりが無限に広がって行く。十歳の俺は、餌を求めて掛けだした先の、廃ビルと廃ビルの隙間に、身を潜めて居た。飢えと寒さで震える体躯。掌には、ゴミ捨て場で拾った、錆びた果物ナイフが握られている。刃こぼれが酷く、最早その役割を果たせない、ただの鉄塊だ。――それを、俺はぼんやりと、まるで自分の未来を測るかのように眺めていた。
その時、雨音を切り裂くようにして、もう一つの影が俺の前に現れた。深く被られたパーカーのフードの奥、その顔は陶器のような滑らかさを宿し、雨に濡れては居なかった。
だが、その瞳だけが、俺と同じ三白眼の奥で、しかし決定的に異なる「凪いだ虚無」を湛えて居る。少年は、俺の手にある錆びたナイフを一瞥し、そして俺へと、何の感情も読めない声で問いかけてきた。
「……それ、刃じゃない。ただの鉄屑だ」
凪、それが、後になって知る彼の名だった。十五歳前後だろうか、その体躯は俺よりも遥かに大きく、しかし、その存在感は、鉄のように暴力的ではない。ただ、空気そのものが、彼を中心に冷え込んでいくような、そんな静謐な圧だった。
俺は、反射的にナイフを構えた。錆びた刃が、震える手の中で微かに音を立てる。だが、凪は警戒する俺の動きなど、まるで眼中にないかのように、無造作に俺の手からナイフを抜き取った。
俺は抵抗する間もなかった。その動きはあまりに滑らかで、あまりに無駄がなかった。――凪は、懐から取り出した小さな砥石を、雨水で濡れた地面に置いた。そして、あの錆びた刃を、まるで愛おしい玩具でも扱うかのように、ゆっくりと研ぎ始めた
「……お前は、この街で生きるなら、牙を持たなければならない。けれど、その牙を、自分の魂まで削るために使うな」
シュッ、シュッ、と。研ぎ澄まされる刃の音が、降り続く雨音の中で、異様に鮮明に響く。それは、俺が今まで聞いたどんな音よりも、冷たく、そして、真実を語っているように聞こえた。凪の指の腹は硬く、しかし、その動きは迷いなく、淀みなく、ただひたすらに、刃の先へと「命」を吹き込んでいくようだった。
研ぎ終えられたナイフは、元の錆びた鉄塊とはまるで別物だった。黒い雨水を撥ね返し、鈍く、しかし確かな光を放っている。凪は、それを再び俺へと差し出した。その瞳が、初めて、俺の三白眼と真正面からぶつかる。
「……お前は、名前を『肉』だと言われたか。本当の名を、何という?」
心臓が、痛いほど跳ねた。何故、この男がそれを知っている。俺は、暫く何も言えずにただナイフを見つめていたが、懐に大事に仕舞っていた薄汚れたハンカチを引っ張り出し、その隅に刺繍された文字を、男に見えるように示した。
記憶も定かでない頃から、肌身離さず身に帯びている、元は白いガーゼのハンカチだ。
「こう」
凪は、静かな一瞥を投げ、明確に告げた。
「お前は、皓というのか。白く光り輝くさま、潔白で清らかなさまを意味する。……『肉』じゃない。皓はその牙で、お前自身の名を護れ」
「皓」耳慣れない響き。だが、鉄が呼ぶ「肉」とは違う、確かな「自分」を指し示す言葉だ。
凪の静謐であれど強靱な強さが、自身の心の内に宿るかのような錯覚を覚えた。
掌に握られたナイフは、もはや単なる道具ではない。それは、俺が『皓』であるための、初めての「牙」だった。俺は、濡れた地面に視線を落とし、小さく、けれど確かに、その名前を反芻する。――皓。……俺は、皓だ。
凪と別れ、なんとか残飯を手に入れた。自分の分は、先に喰った。錆を落とされた「牙」を懐に隠して戻った安アパート。そこには、期待を裏切らない絶望が待っていた。
扉を開けた瞬間、安酒の腐った臭いと共に、重苦しい肉塊が迫る。鉄だ。
「……遅ぇんだよ、この『肉』がァ!」
大振りの拳が、容赦なく俺の側頭部を捉えた。衝撃が脳を揺らし、視界が火花を散らす。
俺はいつものように、あえて避けなかった。下手に身を捩れば、男の苛立ちはさらに膨れ上がり、逃げ場のない路地裏まで追い回される。俺は地面に這いつくばりながら、肺の中の空気を逃がし、衝撃を泥へと逃がした。
「おい、返事もしねぇのか? ああ!? お前は人間じゃねぇ、俺が食い繋ぐための『肉』なんだよ。分かってんのか!」
鉄の脂ぎった靴底が、俺の指を、そして懐にあるナイフの膨らみを踏みつける。神経の通う指先への加圧は、耐えきれるものでもなく、呻き声を漏らしていた。反射で向けるのは、怒りとも憎悪とも悲哀ともつかぬ眼差し。
「……っ、ぐ……」
「何だ、その眼は。何を持ってやがる」
鉄が俺の襟首を掴み上げ、壁に叩きつける。衝撃で懐から飛び出したのは、あの研ぎ澄まされたナイフだった。
「……あァ? 何だこのナマクラは。ガキが色気付きやがって」
鉄はその汚れた手で、凪が命を吹き込んだ銀の刃を無造作に掴み、嘲笑いながら床の汚泥へと投げ捨てた。
「お前には、牙なんて似合わねぇ。お前は一生、俺に怯えて、俺に縋って、名前も持たずに腐っていく『肉』なんだよ。……ほら、言ってみろ。お前は、何だ?」
喉元を太い指で締め上げられ、視界が赤く染まっていく。
「……俺、は……」
「聞こえねぇな!」
嗜虐に満ちた嘲る声には、憎悪と苛立ちしか覚えないが、酸欠の脳が悲鳴を上げている。
「……肉、だ……」
絞り出すように、告げるしかなかった。
その言葉を吐かされた瞬間、胸の奥で大切に反芻していた『皓』という響きが、泥を塗られて汚されていく感覚がした。 鉄は満足げに笑い、俺の腹部を蹴り上げると、そのまま収穫の残飯を拾い上げ、安酒の瓶を煽りながら奥へと消えていった。
暗い床の上、泥に塗れたナイフ。 俺はそれを震える手で拾い上げ、血の混じった唾を吐き捨てる。
肉。肉。肉。 耳の奥で鉄の声が呪詛のように反響する。 だが、掌に残るナイフの冷たさだけが、微かな、けれど確かな現実として俺の指先を刺していた。
数日後、飯を求めて路地裏を彷徨う夜。 薄汚れたゴミ捨て場の影に、見覚えのある静謐なシルエットを見つけた瞬間、飢えも痛みも忘れて引き寄せられるように近寄っていった。
年上の少年。 雨を避けるようにして座り込むその姿は、初めて会ったあの夜と寸分違わず、空気そのものを切り離したような絶対的な静寂を纏っていた。 手にしたナイフを、丁寧に、愛おしむようにして石で研いでいる。
シュッ、シュッ、と規則正しく刻まれる音。それは、この街のあらゆる汚濁と狂騒の中で、唯一、理性を保った音のように、皓の耳の奥に響いた。
汚れ一つないように見える灰色のパーカー。深く被られたフードの影に沈む、整った顔立ち。 その顔が此方を向けば、皓と同じ三白眼が、しかし決定的に異なる「凪いだ海」の虚無を湛えていた。怒りも悲しみも、感情の揺らぎは一切ない。すべてを見透かし、受け流すような眼差しに射貫かれて、皓は思わず足を止めた。
「……いい眼だ。けれど、そのままじゃ直ぐに潰されるよ」
彼の声は、降り続く雨音に溶けてしまいそうなほど静かだったが、皓の凍えた胸の奥に、確かな熱を灯した。 彼は、研ぎ澄まされた刃を月光に透かす。その双眸は、鉄のように卑しく暴力的でもなく、路地裏の連中のように獣じみた渇望に塗れているわけでもない。今の皓が知る誰よりも深く、虚無に近い静穏を湛えていた。
凪は無造作に、その刃を皓へと差し出した。 それは、初めて皓に「牙」をくれた時の、あの冷たさと同じだった。
「皓、といったか。……もう一つ持っておけ。それは、奪うための道具じゃない。お前が、お前で居続けるための、牙だ」
受け取った柄の冷たさが、掌の熱に馴染んでいく。 それは、鉄に踏みにじられ、一度は失いかけた「皓」という名前を、再び鮮明に呼び覚ます楔だった。 十歳の皓が初めて手にした、自分を守るための、たった一つの言葉であり、そして道具。
二本目の牙が掌に握られた瞬間、皓の瞳の奥に、潰えかけていた光が再び宿る。 凪は、そんな皓の姿を一瞥した。 その冷えた三白眼の奥に、かつての自分自身を見るような、ほんの少しばかりの優しさと、そして深い傷のような光が、一瞬だけ、確かに宿っているように見えた。
俺が二本目のナイフを握り締め、掌の熱でその冷たさを溶かした時。 凪は立ち上がり、背を向けて闇へと歩き出そうとする。 その背中に向かって、思わず声を絞り出す。
「……待ってくれ。あんたは、誰だ」
足を止めた少年は、振り返ることもなく、ただ黒い雨に打たれる街の向こうを見つめていた。
「……凪だ。この街の澱みが一瞬だけ止まる、あの静寂と同じ名だよ」
凪。 その響きは、鉄が呼ぶ罵倒とも、棄域の住人が吐き捨てる怒号とも違う。 耳に心地よく、同時に背筋が凍るほど鋭い。 彼は一度だけ、肩越しに皓の三白眼を射貫き、淡く、消えそうな声で付け加えた。
「皓。……死にたくなければ、その牙を研ぐことを忘れるな」
そのまま、彼は音もなく闇の中に溶け込んでいった。 雨は降り続き、俺の掌には二本の牙と、新しく刻まれた一人の男の名前だけが残っていた。




