閑話 ジェイドの名を継ぐ者たち
蔵書室はふたたび静寂が戻った。
美しい人だった。
初めて会った気がしなかった。
もっと、ずっと前から知っているような……そんな気さえする。
「エルザ……」
その名を口にすると、なぜかまた頭が痛んだ。
大事なことを忘れているような、強い焦燥感すら胸に広がっている。
俺は頭を振ると、『海洋上の天候把握』という題名の本を元あった書架に戻した。あの女性に言われたように「大切に」――。
この本を、あの女性は知っているようだった。
この本は、曾祖父上のものだ。ならきっと七十年前に……。
俺は蔵書室の大量の本を眺めながら、彼女と曾祖父上はどのような関係だったのかと思いをはせた。
「皆、今日は食事の前に少しだけ話がある」
晩餐時、国王であるジェイド三世が重々しく口を開いた。
俺は食堂の長テーブルの席についていた。まだ料理は運ばれてきておらず、空の食器が目の前に並べられている。
対面にいる母上は、上座にいる夫を怪訝な顔で見守っていた。ジェイド三世とは俺の父上である。故曾祖父上がジェイド一世、故祖父上がジェイド二世、存命中の父上がジェイド三世を名乗っていた。俺もいずれ国王となったあかつきには、ジェイド四世と名乗るだろう。
ジェイド三世は、俺と母上と三人だけになるように人払いを済ませると、静かに語りだした。
「昼間【沼の魔女】と呼ばれる異形の者がこの城に連れてこられ、脱走した。その件はふたりとも知っておるな」
「ええ、存じておりますわ」
「俺も、捜索中の兵士たちと会いましたので」
嘘は言っていない。
俺はしれっと初めて聞く体で国王の話に耳をかたむけていた。
「【沼の魔女】はそれまで、国に危険を及ぼすモノか否かの取り調べを受けていた。その最中、彼の者とジェイド一世との関わりが露見しそうになった。魔女は……その発覚を恐れて逃げ出したのかもしれぬ」
「曾祖父上との関わり? それはいったい……」
俺は何も知らない。だが「やはり」といった確信も得ていた。やはりあの女性と曾祖父上とは並々ならぬ関係にあったのだ。
母上は俺の内心を知ってか知らずか、くぎを刺すように言った。
「お前もジェイドの名を継ぐ身ならば、この機会に身内の罪を知っておくとよいでしょう」
「罪……?」
「我が祖国、フロンスから嫁いできたお前の曾祖母上と曾祖父上との婚姻がなされたとき、裏であることが……行われていたのです」
曾祖母上のみならず、祖母上も母上も、このネビュラス国の隣、フロンス国から嫁いできた姫君や高位貴族の令嬢だった。
代々――隣国の血が強くなっていく。
そうした意図的な縁組は、この国がフロンスからの実質的な支配を受けつづけていることに他ならなかった。
だが、「罪」……。
そうした裏になんらかの犠牲があったのだろうか。
「およそ七十年前、ジェイド一世が隣国の姫君と結婚をした。ネビュラスは軍事的にフロンスに勝てる見込みがなかったゆえ、その婚姻によって戦争を回避し、従属に近い形で和平が結ばれた。それは、絶対的に正しい選択だった。しかし――」
続いて語られた内容に、俺は驚愕せざるをえなかった。
「ジェイド一世にはすでに婚約者がいた……? それは本当ですか、父上」
「ああ。その元々の婚約を破棄して、隣国の姫君との政略結婚が成された。それを知る者は両国の王族と一部の貴族だけだ。そしてその、元婚約者が……」
「まさか」
「ああ、そのまさかだ」
いわく、それが【沼の魔女】だったのだと。
憲兵たちの取り調べによると、【沼の魔女】は七十年前に実家近くの沼で命を絶ち、その七十年後に流星群によってよみがえり、カエル顔の魔女になった――と話していたそうだ。その発端は、婚約破棄されたことによるとみてまず間違いないだろう。
「自ら命を……」
俺はエルザの心境を思い、胸を痛めた。
「むごいことだな。その魔女の産まれた西の農村は、かつて男爵家が治める地であり、【沼の魔女】はその男爵家の令嬢だったそうだ。当時でもこの国には子が少なく、その男爵家にしか年頃の令嬢はいなかった。身分不相応だが……王太子の婚約相手となっていたのはそのためだった。文献によると、婚約破棄直前まで仲睦まじくしていたそうだ」
「名は……? 名は何という方だったのですか」
「その男爵令嬢のか?」
「はい」
「たしか、エルザと。【沼の魔女】も同じ名を名乗っていたそうだ。学者はそれらすべての証言を正しいと判断した。その件については現在、箝口令を敷いている」
何も言えなかった。
あの魔女は、エルザは……そんな扱いを受けていたのか。なんと謝罪したらいいだろう。俺ではなく、当時の王族たちが下した決定だが、そんな扱いを受けてまでも、あの娘はあの蔵書室へと足を運んだのだ。
かつての、ジェイド一世を偲んで。
なつかしい、と言っていたのはそういうことだった。
「……」
俺は、あの美しい人を思った。
亜麻色の髪に若草色の瞳、濃緑色のドレスの胸に碧色のブローチ。最初、頭と顔を白い布で隠していたが、その顔を見た瞬間、俺はすっかり心をうばわれてしまった。
彼女の悲しみは計り知れない。
もう一度会えたらと思っていたが……俺にその資格はあるのだろうか。
「ジェイド、気に病むことはありません。その【沼の魔女】は人に危害を加えることはない、そう言っていたそうです。王家を恨んではいないでしょう」
母上の言葉に、俺は頭を強く殴られたようになった。




