第二話 隠居生活の実態は
クシャナはコンロの火を消すと、寸胴鍋に蓋をした。
万一の転倒にそなえて蓋のロックも施すと、屋台の灯りを消す。
──音もなく、闇が落ちる。
ほどなくすると夜目が利く。今夜は雲が多く星明りは乏しいが、森の奥までの道ならクシャナは目を閉じてでも歩ける。
屋台の梁に手を伸ばすと、客からは見えない場所に隠し備えている得物を取り出す。
それは、一振りの刀だった。
紺藍の鞘にわずかな反りを帯びた太刀は、地味な意匠ながらこの十年で彼の手に馴染んだ市販品だ。
それを手持ちに、クシャナは歩き出す。
黒く昏い、森の中へ。
微かな風が流れ、葉擦れの音がたつ。まるで森がクシャナを呑み込むかのように。
しかし彼の足取りは、夜の散歩にでも赴くかのように淡泊なものだった。
草葉と土の匂いに「それ」が混じり出す。
生命としての警戒心を呼び起こす不吉な匂い──瘴気だ。
それを辿るようにクシャナは森を歩いていた。三十分ほど闇を潜るように進み、ついに行き当たる。
唐突に木々が途切れ、深さ五メートルほどの穴が巨大な釜のように広がる窪地。
その中心にある存在に、クシャナは目を険しくする。
「……こいつか」
黒く煙る瘴気、霞んだ視界の奥でその根源が息づいている。
全長も全高も十メートルは優に超える巨体。鋼色の鱗に柱を思わせる頑丈な四肢と鋭い爪、不気味にうねる太く長い尻尾──魔物と呼ぶにふさわしい禍々しさだ。
黒ずんだ瘴気はその顎から呼吸のたびに周囲へと発散されている。周辺には紫に変色した動物の骨が散らばっていた。
瘴気で辺りの空気を濁し、靄に迷い込んだ生物を餌とする四肢の魔物──幼魔獣。
これだけの巨体にも拘らず、まだ「幼形」という扱いなのが、この魔物の恐ろしいところだ。
この幼形が進化すると魔獣となる。
進化の条件には解明されていない点が多い。しかし魔獣は剣聖の〈真髄〉でなければ斬り斃せないのに対し、進化前の幼魔獣ならば銃剣や爆撃でダメージを与えれば斃すことが可能だ。
クシャナは注意深く眼前の幼魔獣を見据えた。
「ずいぶん喰ったんだな。いつ魔獣になってもおかしくないか……」
捕食量に比例し巨大化する幼魔獣の手強さは、身体から噴出する瘴気の濃度が目印になる。黒い闇に等しい濃霧ともなれば、魔獣か、進化前の幼魔獣である可能性が高まる。
この幼魔獣の瘴気はかなり強い黒で煙っている。魔獣への進化も危ぶまれた。一刻も早く討伐しなければ。
これがクシャナの、東の森のほとりで屋台を営むようになった事情だ。
この地域に現界する幼魔獣を討伐するため。
この森は東の辺境・デクストラで幼魔獣の現界率が高い地域だった。剣聖を剥奪されこの地に流れ着いたクシャナは、瘴気の気配を匂いのように嗅ぎ取れる鼻とそれなりの剣技を活かして森で幼魔獣の気配を探り、黙々と討伐を繰り返す日々を送るようになっていた。
やがてデクストラはこの十年で「魔物が出ない辺鄙な土地」となった。
人と森の境目で、人知れず幼魔獣を斬る──クシャナという守り人によって。
「しかしなぁ。こんなになるまで放置してたつもりなかったんだが」
窪地の中心にそびえる幼魔獣を見下ろしながら、クシャナは苦々しく呟いた。
今晩屋台にいた時点で森から濃厚な瘴気を嗅ぎ取り「まずいな」と口走っていたのだが。
「いきなり瘴気が濃くなったよな。何喰ったんだこいつ──」
柄に手をやり鯉口を切ろうとした矢先、クシャナは幼魔獣の足元にあるまだ新しい血飛沫を残した骸に気付く。
──人だった。
頭から胴体は完全に喰い尽くされ、周囲にはぼろきれのような手足や、鎧や武器の断片と思しき鋼の断片が散らばっている。
もしや人を喰ったことで、魔獣手前までの急速な進化が促されたのか──
考えを巡らせつつ、クシャナは刀を抜いた。
鞘を土に突き立てると、自分は抜き身の太刀を手に窪地へと降り立つ。
あれこれ考える前に、まずはこいつを斃さなければ。
太刀を構える。
刃越しに見据えると、幼魔獣が反応した。
首がもたげられ、爬虫類のような眼がきろりとクシャナを見、
────咆哮が轟く。
窪地の土を震わす音の暴虐に耳が聾される。
衝撃波のように押し寄せる突風に髪や衣服を揺らしながらも、身構えるクシャナと刀身は微動だにしない。
その目は徹底した冷静に貫かれ、獲物である巨大な幼魔獣を捉えていた。
地鳴りとともに幼魔獣が迫る。
巨体とは思えない俊敏さだ。
凄まじいスピードにより突風が巻き起こる。
怒濤の迫力とともに幼魔獣が振りかぶった右前脚を、クシャナの太刀が弾き上げた。
刃と爪がぶつかり火花を生む。苛烈な閃きで森の闇が一瞬弾ける。
次いで迫った左前脚も、爪に注がれた攻撃の流れに刃先を添わせ、力を僅かにずらすことでその凶暴を無為にした。
猛攻を一刀でいなす。精緻なクシャナの刀捌きに、巨大な魔物が操られているかのようだ。
幼魔獣は攻撃を刃に弾かれ続けて業を煮やし、強引に顎を突き出す。剥いた牙がクシャナに迫る。
だが顎は空振りする。その場で垂直飛びしたクシャナの身は、高々と空を舞っていた。
頭上を取るや宙で身体を旋転させ、回転による加速付きで落下。
コクーンの頭蓋へと刀の切っ先を突き落とす。
引きつった絶叫が窪地を震わせた。
激痛から逃れるように激しく首を振る幼魔獣から飛んだクシャナが、余裕を持って着地する。
刃が一突き、頭蓋を貫通していた。だが幼魔獣は頭頂部から黒い瘴気を血煙のように噴き散らしつつ、四肢で地面を踏みしめたままだ。
幼魔獣と、その進化体である魔獣はたとえ頭を潰し、心臓を斬ったとしても斃すことは叶わない。
魔物どもを斃す唯一の方法、それは首を斬り断つこと──並外れて分厚い生死の境は、まさにこの世界の生命体とは一線を画す存在の証だった。
黒煙を噴いて怒り狂う幼魔獣が、燃えるような怒号とともに迫る。
振りかぶった右前脚を、クシャナが一刀で弾く。すると、その巨体が目の前で大きく旋回した。
胴体が横薙ぎし、ごう、と風が轟くと。
間髪置かず幼魔獣の尻尾が迫った。
長大な尻尾が目の前を浚い、触れるものとその周辺を呑み込んでは叩き散らしていく。クシャナの間合いでは跳躍や退避で逃れきれない。
あえて動かず。
硬く図太い幼魔獣の尻尾を迎え撃つべく。
クシャナはその場で刃を疾らせた。
爪の猛攻をいなした刀裁きから一転、迫る尻尾の鱗の隙間に刃を潜らせ、皮膚を裂いて肉を斬る。刃の切れ味を最大限に引き出すべく太刀を翻すと──
次には。
斬断された幼魔獣の尻尾が闇夜に弾け飛んでいた。
骨と肉の赤い斑を赫赫と晒した尻尾の断面が、クシャナの前で黒い血煙を撒き散らした。
油断なく、冷静に、対峙するものの動きを一瞬で見極める。
それが十年近くこの辺境で幼魔獣を斃し続けてきたクシャナの流儀だ。
巨体の一部を斬断するも、その動きは徹底して単調で淡泊だった。
──鱗の硬度はさほど高くない。首回りの鱗も刃で斬り込めそうだった。
背後で斬断した尻尾が地面に落ちる重たい音。
バランスの要である尻尾を失った幼魔獣の身体も、尻餅をつくようにずどんと倒れる。
「!」
クシャナは目を瞠る。先の尻尾の薙ぎ払いで開けた視界に、人の気配があった。
土まみれでぼろぼろの冒険者。頭から喰われてバラバラになっていた者とは別の──
「生きてんのか……!」
おそらく犠牲者の仲間だろう。生き埋めになったことで幼魔獣の捕食から一時的に逃れていたが、今しがたの尻尾の一掃によって土から掻き出されたか。
土と血に塗れた顔が微かに歪む。──まだ生きている。
クシャナは地を蹴り半死半生の冒険者へと駆け寄った。
血の匂いとクシャナの動きに幼魔獣も瞬時に反応する。地を轟かせて突進してきた。
クシャナは立ち止まった。この先にいる重傷者を守るには、ダメージ覚悟で幼魔獣の攻撃を受け止める必要がある。刀を正眼に構えた。
直撃による武器破壊だけで済めば御の字だ。五体満足とはいくまい──
渋い想定が脳裏に過った、次の瞬間。
「どぉりゃああああああああっ!」
鋭く小さい、弾丸のような一撃が真横から飛び込んで来た。
銃剣を頭上に振り上げ、弓のようにしならせた体躯を思いっきり振り下ろす。
刀身が幼魔獣の首に打ち付けられ、と同時に銃声が吼えた。
ドン──、と肚を震わせる衝撃音。
幼魔獣の頸筋で真っ赤な爆発が花を咲かせ、巨体がぐらりと真横に倒れる。
数瞬遅れて、爆発の衝撃で宙を舞っていた銃剣の主が地面に着地する。
「──師匠! 加勢するよ!」
「ナタリー⁉」
銃剣を手に勇ましい声を上げる少女の名前を、クシャナは驚愕混じりに叫ぶ。




