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「こ、怖かったぁ……」


 脱力した座間さんはへなへなとその場にへたり込んだ。腰が抜けた状態に近いのだろう。最後の追い打ちは彼女にしては強気の発言だった。佐伯という毒蛇に睨まれても、弱腰にならなかったのは、大変よかったと思います。


「お疲れ様」


 僕は優しく声をかけ、手を差し伸べる。座間さんの手は冷えていた。


「飲み物、なんか飲む?」

「いえ、さっきココアいただいたので。それに、あんまり飲むとお腹たぷたぷになるので」

「ふうん、そう……」


 僕は小銭を入れて、缶コーヒーを買った。プルタブを開けると、座間さんに差し出す。


「少し、飲む?」

「……じゃあ、一口だけ、いただきます」


 ぐびっ、と一口飲むと僕に返す。

 全然、減ってないな。一口の量は体重に比例するのか?


 座間さんから返却された缶コーヒーを飲もうとしたところ、正面から威圧的な視線を感じた。じっと座間さんが見つめているのだ、この僕を――というより、手元の缶コーヒーを。何かを期待しているように、見つめている。はて……?

 ぐびぐび、と勢いよく飲んだ。缶コーヒーって量少ないな。


「あの……もう一口だけ、いただけませんか?」

「どうぞ」


 座間さんは受け取った缶コーヒーを、ダイヤモンドの塊であるかのように見つめている。いや、ただのスチール缶だぜ、それ。顔を赤らめ、ぐびっと飲み、さらに顔を赤らめ返却。はて。最後の一口を飲んで、ごみ箱に捨てた。


 公園を歩く。全裸になって走り回れるくらいに人気がない。

 服脱いじゃおうかな、と画策していると、犬を散歩させている人に出くわした。油断も隙もあったもんじゃない。現代社会は露出狂には生きづらいよ、と知人が言っていたのを僕は思い出した。


「あのっ……」

「佐伯のことなら、大丈夫だと思うよ」

「いえ、そのことじゃなくて――佐伯さんのことはもういいです、終わったことなので」


 座間さんの瞳の奥が、一瞬だけ昏く澱んだ。

 三人に対する落とし前はつけた。彼女らとの決着はついたが、いじめそのものに対する決着はまだついていない。


 僕は口をつぐんだ。佐伯について話したところで、せっかくのすっきりとした気分が、再び滅入るだけである。

 それに、佐伯がもらったという手紙について、座間さんに触れられたくなかった。彼女の様子を見た限りでは、それに対して疑念を抱いているようには見えない。いや、逆か――手紙の存在に、その実在に疑念を抱いているのか? 佐伯が、自分が行ったいじめの責任を、少しでも転嫁するための嘘だと、そう疑っているのだろうか? 


 それは間違っている。

 佐伯に手紙を送りつけ、いじめを焚きつけた人物は確かに存在し、そしてそれは座間さんに下着写真付きの脅迫状を送り付けた人物と、同一人物である。

 以前、座間さん宅を訪れた際。


『六月、だったかな。ある朝、学校にきたら、下駄箱にこれが入っていたんです』


 そのときのシチュエーションを、座間さんは事細かに説明してくれた。

 座間さんは、下着写真付きの脅迫状を送り付けてきた人物が佐伯だと信じて疑わなかったが、その話を聞いたとき僕は妙だなと思った。


 あの佐伯が、こんな回りくどい真似をするだろうか? 盗撮なんかしなくとも、もっと過激な写真を撮れるだろうし、手紙なんて書かずとも、座間さんを直接脅せばいいだけの話だし。手間暇かけて脅迫状をつくるメリットはどこにもない。


 そこで、僕はある一つの可能性に思い至った。

 脅迫状を書いたのは、三人とはまったくの別口――第三者なのではないか、と。

 それから、三人に対する復讐計画と並行して、その第三者の正体について考えた。


 いくつかの状況証拠(?)から、黒幕と思しき人物が――容疑者が一人浮上した。

 その人物に対し、僕はちょっとしたトラップをしかけた。引っかかるかどうかは五分五分といったところか。引っかかれば、証拠が手に入るはずだ。


 まあ、最悪、証拠などなくとも、自白させればいいだけの話だ(こうやって、冤罪は生まれるんだな)。警察でも探偵でもない僕は、犯人の指摘に確たる証拠を必要としないのである。


 座間さんは、密かに自分をいじめている謎の存在にまるで気づいていないようだ――がしかし、そのことをわざわざ教えてあげるつもりはない。

 世の中には知らなくていいことが――知らないほうがいいことが、確かに存在するのだ。


 いじめに黒幕が存在することを、座間さんが知る必要はない。


「あのですね」と、座間さんは言った。「実は私、学前くんに言いたいことがあって……」

「なにかな? ……あ、もしかして、さっきの間接キスのこと?」

「な、なななな……なんですかっ、間接キスって? 私、そんなの知りませんっ!」


 知らない? さては、気づいてないのか? 


「いや、ほら、缶コーヒー――」

「そ、空っ! 空ですっ! 空、見上げてください!」


 座間さんが天に向かって右手を突き上げる。わが生涯に一片の悔いなし、とか言いそう。

 言われるがまま、どんよりとした曇り空を見上げる。


「ん、なになに……」何が見えるというんだい。「UFOとか隕石とか?」


 しかし、残念ながら、それらしき物体は観測できなかった。くそっ、見逃したかっ! 

 僕がさめざめと悔し涙を流していると、座間さんが一世一代の告白をするかのように、声を振り絞って言った。


「月が綺麗ですね!」


 ……は? 月???

 UFOでもUMAでも隕石でも流星群でもなく――月? 何かの隠語か? 


「……曇ってて月、見えないけど」

「えっ、あっ、うっ、ううっ……」


 座間さんはうろたえた。

 というか、びっくりするくらい露骨にキョドりはじめた。


「あ、あれ? 夏、なつなつ夏……」

「夏? 気が早いなあ。まだ春にもなってないじゃないか。夏はまだ当分先だよ」


 ううっ、と座間さんは全身をフルに使って落胆した。

 なんなんだ、一体?


 ◇


 電車に乗る。会話が途切れたタイミングで、『月が綺麗ですね』という台詞の意味について考えてみる。やはり、あれは何かの隠語なのか。あるいは、清らかな精神を有している者のみに見える――つまり、僕のような薄汚れた人間には見えない――綺麗な月が存在するのか。


 月が綺麗ですね。


 声に出さず、呟いてみる。その台詞に聞き覚えがあるような、そうでもないような――こういうときにこそ、文明の利器スマートフォンの出番である。

 検索してみると、夏目漱石が出てきた。そう、数々の名作を生みだしたあの文豪である。ということは、『月が綺麗ですね』というのは、漱石の作品に出てくる名台詞なのだろうか。


 そんな台詞あったかな……。というか、夏目漱石の作品、『こゝろ』『坊っちゃん』『吾輩は猫である』くらいしか読んだことなかったな。

 なになに、『月が綺麗ですね』は、夏目漱石による『I love you』の意訳だって? まあ、真偽不明かつ諸説あり、なんだけどね。英語が苦手な僕でも、『I love you』の翻訳くらいはできる――『私はあなたを愛しています』。


 いや、あの場面で『私はあなたを愛しています』はおかしいよな。ということは、座間さんによる『月が綺麗ですね』には、何か他の隠された意味があるのでは? いや、やっぱり、彼女には綺麗な月が確かに見えたのでは? 見えたか、月?


「ねえ、座間さん。さっきの『月が綺麗ですね』って、あれどういう意味?」


 くすり、と正面に座る会社員の女性が、僕たちを見て甘酸っぱい顔で微笑んだ。

 座間さんは赤面した。


「わ、忘れてください!」



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