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 校長室の前に立ち、軽く深呼吸する。柄にもなく、緊張しているのか。あるいは、自覚がないだけで、僕は意外と緊張しいなのかもしれない。ノックをしようとしたとき、中から男女の話し声が聞こえた。盗み聞きしようかとも考えたが、それをするには人が多すぎる。諦めて廊下の往復作業に入る。


 やがて、校長室のドアが開き、女子生徒が出てきた。

 ――佐伯だった。


 ドアを乱暴に閉めた彼女は歩き出そうとして、廊下をさまよう不審者を発見した。口笛を吹きながら歩く僕を、しばらくの間、無言で睨みつける。


 言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに。

 そこにいられると邪魔なんだ。どいてくれよ、と僕もはっきり言えばいいのに。


 佐伯が歩き出した。こちらに向かってくる。逃げ出すのもおかしいと思い、僕も平然ぶって歩く。やましいことなんて何もないよ、といった面をする。

 すれ違いざまに肩がぶつかった。むろん、僕は当てようとはしていない。佐伯がわざとぶつけてきたのだ。高校生にしては大人な僕は、何事もなかったかのように通り過ぎようとした。しかし、相手は高校生にしては子供だった。


「おい、待てよ」佐伯が突っかかってきた。「肩、ぶつかったんだけど?」


『あん? てめえがぶつけてきたんだろ?』と言い返してもよかったが、僕は大人である。負け犬の遠吠えを受けとめてやる優しさがあった。


「あら、そう? ごめんね」


 ヘリウムくらいの軽い謝罪をし、再び通り過ぎようとした――が、佐伯に肩を掴まれ、むりやり引き留められる。うっとうしかったので、その手を払い落とした。


「何かな? 謝罪はしたけど」

「あんた、校長になんか用でもあんの?」

「まあね」


 ここで終わらせると、どういった用事なのか質問されそうな気配を感じたので、こちらから攻めてみる。


「佐伯さんこそ、校長先生となんのお話をしていたのかな?」

「退学処分食らいそうだから、それを取り消してもらいに」

「ふうん。それで釣果はどうだったのかな?」

「それをあんたに話す必要ある?」

「ないけど、別に教えてくれたっていいじゃないか」

「土下座したら、話してやってもかまわないけど?」


 佐伯は腕を組んだ。目力がすごい。これは化粧の力なのか。それとも、性格の悪さが具現化したものなのか。


「じゃあ、いいや」


 僕は会話を切り上げようとした。軽薄に手を振る。


「じゃあね――」

「待てよ」


 佐伯は精一杯ドスを利かせた声を出した。再度、肩を掴んでくる。


「まだ話は終わってないんだけど?」

「僕としては終わったつもりだったんだけど」


 肩を鷲掴みにする不届き者の手首を掴んで軽く捻り上げる。佐伯は小さく悲鳴をあげ、それを恥じてか直後に顔をうつむけた。


「釣果があったのだとしたら、君がどうやって校長を脅したのかは大体想像がつく」


 彼女が握っているネタも、おそらくは僕と同じモノだ。

 そして、僕には写真という物証があるが、彼女にはおそらくそれがない。よって、効力はこちらのほうが格段に上で、校長としては僕の言うことを聞かざるをえない。だから、釣果があろうがなかろうが僕には関係のないことだ。


「これは僕からのアドバイスなんだけど、無理にこの学校に居座るよりも退学したほうがいいと思うよ。君のプライドが退学を受け入れないのかもしれないけど、居座ったところでいばらの道だからね」

「余計なお世話よ」


 佐伯は舌打ちすると、昇降口へと大股で歩き去った。

 痛んだ茶髪を揺らすその背中に、罵倒の一つでも浴びせてやろうか――そこまでやると、僕のほうが悪人に見えるのでやめておいた。


 改めて校長室の前に立ち、今度はしっかりとノックをする。返事がないので、勝手にドアを押し開けて、勝手に校長室内に侵入した。


「こんちゃーす」


 わたあめくらい軽い挨拶をすると、なにやら作業をしていた校長が顔を上げた。突然の来訪者に困惑気味の表情で、


「あー、君は……誰だったかな?」

「一年一組の学前です。以後、お見知りおきを」


 執務机の前には、立派な応接セットが据えられていたので、革張りと思しきソファーに僕はふてぶてしく腰を下ろした。あまりのふてぶてしさに、『怒り』よりも先に『呆れ』の感情が訪れたようで、


「君、勝手に座るのはどうかと――」

「校長先生、つい先ほどまで佐伯とお話しされていましたよね?」僕は言った。「一体、どのような話をされていたのです?」

「……君には、関係ないだろう」


 ハリボテの威厳をまとわせ、校長は言った。

 校長のご尊顔を拝見する機会はそうはないのだが、僕の記憶の中の校長と比べると、十歳くらい老けて見えた。この数週間の間に、多くの労苦が降り積もり、老け込んでしまったのだろう。同情を禁じえない、涙が止まらない。


「関係、なくはないんです」


 ローテーブルの上に、写真を一枚置いた。

 瞬間、校長の顔から威厳が消失した。慌てて立ち上がった拍子に、机の上の書物と椅子が倒れ、けたたましい音を響かせる。しかし、それらに意識が及んでいないのか、落ち窪んだ瞳は写真のみを見つめている。


「佐伯とのお話も、これのことでしょう?」

「君、これをどこで……」

「どこで手に入れた? いえ、違いますよ。手に入れたのではなく、僕が撮ったのです」


 あまりの衝撃に視界が歪んでいるのか、酔っぱらいのようによろめいた校長は、対面のソファーにくずおれた。

 ちなみに、この写真の撮影者は僕ではなく鶴巻なのだが、そんなのいちいち説明したりはしない。名前を出せば、彼に迷惑をかけるかもしれないし。


「ねえ、校長先生。キャバクラに通うのは、風俗に通うのも別にかまわないと思いますけど、教職にある者がパパ活はまずいでしょう。しかも、自身の学校の生徒となんて」


 校長は皺だらけの顔を、両手で覆い隠した。

 泣き声は聞こえなかった。六五歳のベテランが一六歳の若造の前でみっともなく泣くのは、さすがにプライドが許さなかったのだろう。震え声の深呼吸が、手と手の間から漏れ聞こえる。二、三分はそうしていただろうか。やがて、両手を膝がしらに置くと、犯人の自白が始まった。


「うちの生徒だとは知らなかったんだ、最初は――」

「あなたのパパ活話に興味はありません」

「妻にはパパ活はバレなかったが、キャバ嬢との不倫を疑われ離婚届を押しつけられ、娘からは愛想をつかされ――」

「そんなことは、どうでもいいんですよ」


 一刀両断、話を断ち切る。


「今は佐伯の話です。あなた、佐伯に脅されたんでしょう?」

「……ああ」


 少し間があって、校長は頷いた。


「『パパ活のことをばらされたくなかったら、私の退学処分を取り下げろ』と、そう言われたんだ」

「じゃあ、僕はこう言います――『パパ活のことをばらされたくなかったら、佐伯里奈を退学処分にしろ』と」


 校長は頭を抱えた。

 苦悩に身をよじる校長の姿は、絵画にして後世に残したいくらいに美しい。


「ねえ、こっちには物証があるんですよ?」


 ローテーブルの上に置かれた写真を、つんつんと突いてアピール。


「佐伯にはない」多分ね。「どちらの言うことを聞くべきか、明白かと思われますが?」


 校長は腹部をさすった。胃がきりきりと痛むのだろう。

 校長って大変な役職なんだな、と僕は思った。時には、生徒に脅迫されるのだから。


「佐伯里奈を退学処分にすれば、これは抹消してくれるんだろうね?」

「プラス、里中美優と坂本果歩、それと伊藤拓夢教諭もお願いしますね」

「……わかった」


 用は済んだ。ソファーの座り心地はいいが、校長室の居心地はあまりよくない。そろそろ掃除も終わっただろうし、教室に戻ろうじゃないか。どっこいしょ、と小さく呟きながら立ち上がった僕に、まだ話は終わっていないと校長が声をかける。


「写真のデータは?」


 ズボンの右ポケットに入っていたスマートフォンを、煽るようにひらひらと振ってみせ、「トラスト・ミー」と僕がおどけて答えると、校長は露骨にむっとした。


「信じられるか」

「生徒を信じるのが、教師の役目ですよ」


 格言風の台詞を、僕は格好つけて言った。それに感じ入ったわけじゃないと思うが、校長は若かりし頃の純粋な自分を思い出したような面をして、


「君のこと、信じても……いいんだね?」

「もちろんですとも」


 僕は大仰に頷いてみせた。

 当初の予定では、最終的には校長にも退場してもらうはずだったのだが、さすがにそれはかわいそうだ(奥さんと娘さんが)と思い、考えを改めた僕なのだった。

 写真のデータを完全に抹消するか否かは、今後の僕の気分次第であるわけで。校長にはぜひとも頑張っていただきたいものだ。


「最後に一つ、聞いてもいいかな?」

「なんでしょう?」


 僕は振り返った。

 校長の真剣な表情に気圧され、さすがの僕も軽はずみな軽口を口にすることはできなかった。


「どうして、そこまで――私を脅してまで、彼女らを退学にしようとする? 何か恨みでもあるのかい?」


 虚を突かれたような思いだった。

 そうか。校長は僕と座間さんの関係性を知らないのか――いや、しかし、僕たちが親しくしていることを知らなくとも、僕の『お願い』から座間夏波と結びつけることはできるはずだ。秦野から、いじめの話は聞いているわけだし。

 そこに思い至らないということは、すなわち座間さんのことなど遥か彼方――記憶の片隅にすら残っていないのだ。

 ――それが、残念でならない。


「秦野から聞いていませんか?」


 僕は尋ねた。校長の反応は芳しくない。

 秦野ほど印象に残る生徒は、そうはいないはずなんだけどな。


「六月だったかな、秦野開成という男子生徒がここに来たはずです」

「どうだったかな……」


 校長は宙を見た。そこに何が見えているのだろうか。


「校長室には生徒が頻繁に訪ねてくるものでね……正直なところ、よく覚えていない」


 校長室に生徒が頻繁に訪れるとは考えにくいが、言葉尻は捕らえないでおいてやろう。


「秦野はあなたに直訴したはずです――座間夏波という女子生徒が受けているいじめについて」

「ああ……なるほど」


 校長は得心がいったのか、うんうんと頷いた。


「その座間さんとやらをいじめていたのが、佐伯、里中、坂本の三名だったんだね」


 とぼけているとかじゃなくて、マジで覚えてないっぽいな。

 いじめは学校において、よくある出来事なのかもしれない。でも、よくあってはならない不祥事だ。生徒の訴えをまともに聞かず、すぐに忘却の彼方へ追いやるのは、教師の風上にも置けない。


「あのとき、あなたが率先して動いていればこんなことにはならなかったんだ」


 と、僕は言った。


「不祥事によって詩頓高校の評判が下がらずに済んだし、校内に謎のビラがばらまかれずに済んだし、奥さんに不倫を疑われずに済んだし、そして何より僕に脅迫されずに済んだ」

「……もしや、全部君の仕業か?」


 その質問には、黙秘権を行使する。どうして、どいつもこいつも僕を疑うのだ?


「同情はしません。自業自得です」

「そうだな」校長は深くため息をついた。「自業自得、身から出た錆だ」


 一応、反省はしているようだ。

 しかし、だからといって、こんなので溜飲が下がるわけがない。


「座間夏波さんという子は、君の恋人なのかい?」

「どうして、そんな質問をするのです?」


 というか、さっきのが最後の質問だっただろうが。

 僕がガンを飛ばすと、校長は焦ったのか、「いや、これはただの興味だよ。大した意味はない」と取り繕った。


「いじめに遭っている恋人のために、わざわざこんなことをしたのかな、と思ってね」

「違いますよ。座間さんは僕の恋人じゃない――友達ですよ」


 友達ねえ、と意味ありげに校長は呟く。それから、思春期のクソガキみたいな顔をして、


「なるほど、つまりは狙ってる女か」

「……校長。六五の立場あるジジイが言っていい台詞じゃないですよ、それ」


 僕はドアの取っ手に手をかけた。


「僕からも最後に一つ」


 くるりと振り向いて、人差し指を立てた。


「実際に、キャバ嬢と不倫してるんですか?」

「ノーコメント」


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