第49話 リタルダント・ストーン
「よく来たな、アレク」
よく通る声が中庭に響いた。
声と一緒に届いたコントラバスの低く重厚な響きが、私の心の音を震わせた。
「お久しぶりです、リタルダント団長」
「団長はもう辞めたと言っているだろう。リタルダントでいい」
アレクが見せる、いつもと違う顔。
笑いながら「では、昔のように師匠と呼ばせてもらいますね」と応える瞳は、少年のように輝いていた。
応えるリタルダントさんも目元を細めている。
その笑顔には、包み込むような温かさがあった。
「元気そうだな。息災だったか?」
「はい、お陰様で。師匠こそお変わりありませんか」
アレクのチェロが、いつもより高い音を奏でている――ふふっ、リタルダントさんの前だと、少し心の音が子供っぽくなるんだね。
「ああ、変わりない。ところで――」
リタルダントさんが、私たちに視線を向けた。
「この者たちが、お前の仲間なのだな」
「はい、紹介します」
アレクがひとりずつ紹介してくれる。
「こちらは、ヴィヴァーチェ・リコ。東方商業都市国家から来た商人です」
アレクの紹介に、ヴィヴァーチェさんが少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「初めまして。かの有名なリタルダント卿にお会い出来て光栄です」
「はは、私はもうただの隠居の身だ。よろしく頼む」
鷹揚に笑って差し出された手を、ヴィヴァーチェさんがトランペットの音を弾ませながら握り返す。
「彼は、アルバート・ドゥガッタ。南方海洋王国群出身の吟遊詩人です」
「初めまして、ボクも貴方の噂を聞いたことがありますよ。今度ぜひ武勇伝を聞かせて欲しいなぁ」
そう言って、スッと手を差し出すアルバートさん。
「私の話でよければ、いつでも。しかし……ドゥガッタか……」
アルバートさんの手を握り返すリタルダントさんが何かを呟いた時、アルバートさんが「さあ、次はアリアの番だね!」と、いつになく大きな声が響いた。
アルバートさんの心の音が、一瞬だけ跳ねたような気がしたけれど――彼は私の背中を押して前に立たせた。
「師匠。こちらが手紙でお伝えしていたアリア・カンタービレです」
アレクに紹介されて、深く頭を下げる。
「初めまして、アリア・カンタービレです。アレクさんには、いつもお世話になっています」
姿勢を正してリタルダントさんを見る。
背丈はアレクより少し高いくらいなのに、もの凄く大きく見える。
でも、この人から受ける印象は威圧感ではなくて、圧倒的な安心感。
――必ず、守ってくれる。
そんな気持ちにさせてくれるような佇まいだった。
私を見下ろす、深い灰色の瞳。
聴こえてくるコントラバスの音は自然体で、とても思慮深い感じがする。
けれど、リタルダントさんが何を考えてるのか――――全く底が見えない。
「あの……師匠?」
互いに無言のまま視線を交わす私たちに、アレクの困惑した声が届く。その瞬間――
包み込むようだったコントラバスの音が、ふっと消えた。
――いや、違う。
音が消えたんじゃない――まるで、嵐の前の静けさ。
限界まで引き絞った弦のように、研ぎ澄まされた深く重い音が、私を射抜いている――!
思わず息を呑んで竦みそうになるけれど、不思議と恐怖は感じなかった。
下を向きそうだった顔を上げて、しっかりとリタルダントさんの瞳を見返す。
息を詰めたまま見つめ合っていると――ふっと、リタルダントさんの目が柔らかく緩んだ。
「…………なるほど。どうやら、アレクの言っていることに、間違いは無いらしい」
ニコリと柔らかい笑顔を浮かべるリタルダントさん。
射抜かれるような圧が消えて、また重厚なコントラバスの響きが戻ってきた。
「不躾な真似をしてすまんな、アリア嬢。少し言い訳させて貰うと、今のタイミングが一番間違いなかったのだ」
何かを試されていたみたい。
アレクからの手紙に、何か書いてあったんだろうか?
「あの……何かご迷惑をお掛けしましたか……?」
少し不安になって聞いてみると、少し慌てたようにかぶりを振るリタルダントさん。
「いやいや、アリア嬢になんの落ち度もない。ただ、アレクから特別な力があると聞いていたものでな……少しばかり試させてもらったという訳だ」
「試す――?」
目尻の皺を深くしてこちらを見るその瞳が、とても優しげで――
「アリア嬢が『特別な力』に飲まれていないかを見させてもらった――だが、杞憂だったようだな」
そう言って、私の頭にその大きな手が優しく置かれた。
「その瞳には嘘も慢心も無い。貴女は――ただ真っ直ぐに己を持って立っている」
彼のコントラバスが地面から空へと舞うように広がり、私を包み込むように響き渡った。
その音は、父の音色に似ていて――――とても安心する。
目を細めてその音色に耳を傾けていると、リタルダントさんが「おっと、すまない」と、私の頭から手を放した。
「レディに対する振る舞いではなかったな、失礼した……。さあ、立ち話もなんだ、大したもてなしも出来んが、ゆっくりしていってくれ」
まだ残る手の温もりに少しだけ頬を緩めながら、先を行くリタルダントさんの大きな背中を追った――
案内された家の中は、質素な印象を受けた。
余計なものが無くて、シンプルな内装で統一されている。
居間へと向かう道すがら、近衛騎士団を辞めた時に男爵家の爵位を息子に譲り、今は悠々自適に暮らしていると教えてくれた。
家の管理も最低限で済ませていて、現役を退いた老夫婦にお願いしているのだそう。
「今日は誰もいない日でね。剣はともかく、紅茶の腕は人並みだから……味は期待しないでくれ」
そうおどけて言いながら、手ずからお茶を振舞ってくれた。
「ありがとうございます…………いい香り」
華やぐような甘い香りが鼻をくすぐる。
温かい紅茶を口に含むと、緊張が少しほぐれた気がした。
しばらく自己紹介を兼ねて歓談をしていたが、頃合いを見てリタルダントさんが居住まいを正した。
それだけで、場の雰囲気が一瞬で変わる。
「――さて、アレクがただ旧交を温めるためだけに、儂を訪ねてきたわけではあるまい。手紙にあった、アリア嬢の件だな――?」
一同を見回した後、鋭い目でアレクに問いかける。
「はい、そうです。手紙でお伝えした通り、彼女には特別な力――――おそらく『調律師』の力が宿っているかと……」
アレクの言葉を受けて、アゴに手を当てながら考え込むリタルダントさん。
思慮深げなコントラバスの中に、困惑の響きが混じっている。
「……アリア嬢が何かしらの力を持っているのは信じられる。先程、儂の威圧にも動じていなかったからな」
「威圧……ですか?」
リタルダントさんの言葉に、先程の限界まで引き絞った弦の音色が思い出される。
「そうだ。普通、アリア嬢のような女性が、儂の圧を受けて平然としている方がおかしい。傷だらけの儂の顔で睨まれたら、恐ろしいと震えるか、蒼褪めるか、泣き出すか……少なくとも真正面から見返す者などいないだろうさ」
ふう、と軽いため息をつきながら説明してくれるけれど、私にはいまいちピンとこない。
「リタルダントさんから怒りや悪意の『音』は聴こえてきませんでしたし……圧力というより、観察されている緊張はありましたけど――」
私の呟きを拾ったリタルダントさんが、目を丸くする。
「ずっと、リタルダントさんから優しくて温かな音が聴こえてましたから、恐ろしいなんて思いませんでしたよ」
そう言った次の瞬間、リタルダントさんが豪快に笑い出した。
「――ははっ、これは参ったな! 見透かされていたのは儂の方だったか」
参った参ったと膝を叩きながら笑っているけれど、私には何がおかしいのかさっぱりで……
「あ、あの……私、何か変なことをいいました……?」
「いやいや、アリア嬢は何も悪くない。悪いのは粗忽なこの儂のほうだ――なぁ、アレク」
話を振られたアレクは、「まぁ、そうですね」と、肩を竦めながら少し呆れ顔で私を見ている。
「『鬼のリタルダント』に睨まれたら、屈強な騎士も青褪めて震えるっていうのに……お前ときたら何だ? ただ緊張しただけだって?」
やれやれとでも言いたげに首を横に振るアレク。
ヴィヴァーチェさんとアルバートさんも、どこか納得したように頷いている。
「アリア嬢は、儂の『音』を聴いたと言ったな? それは、どんな音なのかな?」
笑いを収めたリタルダントさんが、私に聞いてくる。
「リタルダントさんの『心の音』は、とても深くて重みのあるコントラバスですね――――こんなことを言って、失礼かもしれないですけど……少し、私の父に似て、安心する音です」
そう微笑みながら伝えると、リタルダントさんの音が突然華やいだように響き渡った。
「――これは、光栄な言葉をありがとう。アリア嬢のようなお嬢さんにそう言ってもらえるとは、嬉しい限りだよ」
そう言って、くしゃりと笑う笑顔がとても温かく感じる。
「しかし、他人の心の音を聴けるというのは、確かに『調律師』の伝承と合致するな。アレクの手紙にも他人の心を調律して、お互いに心を通わせることで誤解を解いて、問題を解決していたと――」
「そうですね。つい先日も、食い詰めた農民に襲われましたが、彼女が絶望に沈んだ心を救ってみせてましたよ」
アレクがタリルさん達の件を話題に出す。
一瞬、リタルダントさんの音が引き絞られたけれど、すぐにふっと緩んで元通りになった。
「……襲われた件は聞かない方がよさそうだな。しかし、沈んだ心を救うとは――――中央聖教会が下手な動きをしなければ良いが……」
最後の呟きは小さくて聞き取れなかったけれど、私のチカラのことは受け止めてくれているみたいだ。
アレクが「少し話が逸れましたね」と言って、居住まいを正した。
「それで、アリアのこのチカラが『調律師』ではないかと、ホスタ殿――ピアニッシモ辺境伯に言われましてね。王都で、『調律師』の研究をしている学者の噂を聞いたことがあると教えてもらい、遥々王都までやってきた訳です」
「なるほど……『調律師』の研究をしている学者……か」
少し顔を俯かせてアゴに手を当てながら、何かを考えている様子のリタルダントさん。
「その昔『調律師』は、人の心を癒す者たちだったという。心の不協和音を、協和音へと変える力を持っていた――」
リタルダントさんが語り出した。
それは、ピアニッシモ辺境伯様が教えてくれた『調律師』の内容で――
「だが、五百年前の『大静寂』と呼ばれる出来事で、幾人もいた『調律師』は世界から姿を消した」
リタルダントさんの声が、重く響く。
「何が起きたのかは誰も知らない。記録もほとんど残っていないからだ……ある日を境に、調律師が一人も歴史からいなくなってしまった」
部屋が静まり返る。
外から聞こえる風の音だけが、静寂の中で鼓膜を震わせた。
「でも……」
私は、自分の手を見つめる。
昔いたという『調律師』の人々。
どうしていなくなったのか……わからないことだらけだけど――
「私は、ここにいます」
その『調律師』と似たチカラを持つ私がここにいる。
リタルダントさんが「そうだな」と、優しく微笑んだ。
「アリア嬢は調律師の末裔かもしれんな。どこかで『調律師』の血が受け継がれていた可能性もある」
「もっと詳しく知りたいです」
私は、前のめりになりながら、リタルダントさんに想いを伝える。
「もし知っていたら教えてもらいたいんです。私のこのチカラ……まだ自分でもよくわかっていなくて――」
私自身が感じている不安。
それが頭をもたげて、俯きながら胸に手を当てる。
「今までは何とか上手くいってました。でも、これから先も上手くいくとは限らなくて――怖いんです。だから、何か取り返しのつかないことになる前に、自分のチカラのことを知りたいんです」
俯いた顔をあげて、リタルダントさんの目を正面から見る。
私の目を見返しながら、フッと軽く息を吐き出したリタルダントさんが言葉を紡ぐ。
「――――儂の知り合いに『調律師』の研究をしている者がいる」
――え? リタルダントさんのお知り合いが、その学者さん――?
「本当ですか!?」
ヴィヴァーチェさんとアルバートさんが同時に声を上げた。
私は、突然の事に言葉が継げないでいたけれど、リタルダントさんはしっかりと頷いて続ける。
「儂の古くからの知り合いの落胤で、儂からしたら姪御のような存在でな――」
そう話すリタルダントさんの目が、我が子を見る親の目のように柔らかい光を見せている。
「クレシェンダ・ブライト。『調律師』を研究している学者で、まだ年若い女性だ」
――女性の学者さん。
意外な学者の正体に驚いていると、リタルダントさんのコントラバスが少し困ったような、呆れたような音を立てた。
「ただ、この娘は変わり者でな……会いにいくならば、心して行く方がいい」
「えっ……?」
思いがけず掴んだ学者さんの情報。
だけど、一筋縄では行かなそうな予感が、私のハープを震わせた――――




