第42話 光の繭
――怪物。
そうとしか言いようのないモノだった。
光を呑み込むような真っ黒な身体。
その表面は汚泥のようにどろりと蠢きながら、地面に滴り落ちていく。
丸い胴体から節くれだった手足が4本伸びていて、顔のような物が上に乗っかっている。
その顔はぼやけていて、輪郭ははっきりしない。
けれど、恨みに満ちた感情だけは、はっきりと感じられた。
真っ黒な顔の怪物には鼻も口も無いけれど、目だけは爛々と見開かれていた。
涙を流しながらこちらを凝視する赤い瞳。
そのおぞましい姿に悲鳴が喉元までせり上がってくるけど、なんとか飲み込んだ。
――直感で分かった。
恐怖に飲み込まれたら、この怪物が私に取り憑くだろう事を。
アレクと繋いだ手に力が入る。
その温もりを確かめるように――
怪物を見据えながら心を落ち着けようとしていると、怪物の顔の下半分に亀裂が入った。
それはゆっくりと開いて、まるで口のように動いたかと思うと――
「――――ナ――ネ」
「!?」
怪物が喋った!?
でも、何か言葉を発しているけれど、うまく聞き取れない。
身を乗り出して耳を傾けようとした時、酷い悪臭が鼻に突いた。
「――! うっ!」
腐ったような臭いに思わず鼻を塞ぐけれど、腐臭のような音が鼻の奥にこびり付いて、取れそうも無い。
そうか、この酷い臭いも絶望の音なんだ……
心が腐りかけた音なんて……
どれだけの絶望を感じたら、こんな音になるんだろう……
それに、また襲ってくる絶望の音は、さっきより重く、昏く、激しくなっている。
彼らから引き剝がしたら、絶望の色が濃くなるなんて……
アレクとの二重奏のおかげでなんとか耐えられているけれど、あまり長くは保たなさそう……
「うっ……」
すぐ隣から小さい呻き声が聞こえてきた。
驚いてアレクを見ると、眉間にシワを寄せて苦し気にしている。
「ア、アレクさん、大丈夫ですか!?」
「……ああ。突然、胸が苦しくなってな……だが平気だ」
アレクは口の端を持ち上げて見せるけど、その顔にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。
慌てて背後を見ると、ヴィヴァーチェさんが胸を押さえて蹲っていた。反対に振り返ると、アルバートさんも「耳鳴りが……」と耳を押さえて、苦しそうに顔を歪めていた。
――もしかして、あの怪物のせい……!?
「ヴィヴァーチェさん! アルバートさん! 大丈夫ですか!?」
二人とも「大丈夫」と応えてくれたけど、アレクと同じで顔色が悪い。
……まさか、心の音が他の人にも影響するなんて……
視線を怪物に戻すけれど、その場から動く気配はない。
低い唸り声をあげながら私を睨んでいる。
――どうしよう……どうしたらいいの!?
思いもよらない事態に頭が混乱する。でも、何とかしないと……
そうだ! あの怪物は、間違いなく彼らから剝がした絶望の音だ。
なら、もう一度アレクと一緒に音をぶつければ……
「――アレクさん。今、私の目には、彼らの絶望の音が見えています」
「……そうなのか。あいつ等の絶望――か」
未だ怜悧な目で彼らを見ている。
「そうです。その絶望を消し飛ばしたいんです。ですからもう一度、私を支えてもらえますか?」
彼の目を見ながらお願いをすると、口角を少し上げて応えてくれた。
「さっきも言っただろう。俺は、お前の騎士だ。いつだって支えてやる」
お互い力強く視線を交わした後、怪物に向き直った。
繋いだ手をぎゅっと握る。この温もりが、私に勇気をくれる――!
一度は黒く濁った光が、また金色の輝きを取り戻していく。その光はさっきよりも強く、でも温かな輝き。
空から降り注ぐ金色の粒子が怪物の周りに集まると、円を描きながら怪物を包み込んでいく。まるで、金色の繭のよう。
「グゥォォ……!!」
光を嫌がった怪物の咆哮。
馬たちが怯え、焚き火が激しく揺れる。
その声になにか嫌な予感がして身構えた時、怪物が動き出した。
手足を広げたと思ったら、その胴体が小刻みに震え出す。
何をするつもりかと警戒していたら、突然身体が膨れ上がって真っ黒な泥濘が溢れ出した。
――――!? マズい!
いきなりの事に、身体が固まって動かない――
濁流のような勢いで金色の繭を潜り抜けて、こちらに猛烈な勢いで流れてきた絶望の泥濘を、ただ見ているしか出来ない。
身体が絶望の音に包まれるその直前――アレクのチェロが力強い音を奏でて、絶望の音とぶつかり合った。
耳をつんざくような甲高い不協和音が夜の森に響く。
かろうじて絶望の音から守ってくれたけれど、全てを防げている訳じゃなかった。
音の盾を超えて私を蝕んでくる腐った不協和音――
聴こえてきたそれに歯を食いしばって耐えていると、その音はさっきまでの絶望とは違う音なのに気づいた。
腐った不協和音の中に――心が張り裂けるような悲しみが混じっている。
これは、この人達の悲しみ?
――いや、それだけじゃない、もっと沢山の人たちの悲しみだ……
割れそうに痛む頭を押さえながら、その悲しみに触れてみる――
<<タスケテ……>>
まるで、ガラスを割ったような音。でも、確かに人の言葉だった……
でも、今ので分かった。
これは……この不協和音は、彼らの村人たち全員の絶望だ。
この音を纏った彼らは、ずっと苛まれていたのかもしれない。
――いや、もしかしたら彼らが必死に抑えてくれていたのかも……この、酷く苦しい絶望を。
痛みで霞む目を怪物へと向けると、対峙する怪物はその場から動いていなかった。
低い唸り声をあげながら、赤い眼でこっちを見ている。
怪物の赤い瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。
<<――クルシイ……>>
――また、ガラスの声が聴こえた。
ハッとして怪物の顔を見ると、流れる涙が増えている……?
その揺れる瞳が、救いを求めているように見えた。その赤の奥に、揺れる感情が視えた気がした――
「そうか……あなたも、助けて欲しかったんだね――」
――やっと、理解した。
絶望の音は、私を苦しめたかったんじゃない。
ただ、助けて欲しくて――苦しみから救い出して欲しくて、子供のように縋り付いていただけなんだ……
なら、私がする事は倒す事じゃない。
この怪物を――いや、この悲しい子を受け止めて、調律する事だ!
―――さあ!
頑張れ、私!
ありったけの想いを込めて、ハープを弾き鳴らす。
アレクのチェロと混ざり合い、躍動する二重奏。
天に届くような高く澄んだ音が響き渡ると、金色の光がさらに強く輝き出した。
降り注ぐ光が揺らぎ、重なり、まるで光のカーテンのような幕を作り出す。
――これで、あの子を包んであげよう。
ゆっくりと、光のカーテンを動かす。
絶望の子の周りに並べて、驚かせないように光の布で体を包んでやる。
体に触れたそばから光が黒く染まりボロボロと崩れていくが、構わずに何枚も光のヴェールで包み続ける。
絶望の子はほとんど抵抗せずに、されるがままだ。
心なしか、光で包まれるたびに赤い目から溢れる涙が減っている気がする。
――どれくらい時間が経っただろう?
あの子から流れてくる絶望の音は少しずつ減っているけれど、頭の痛みは酷くなるばかりだ……
チカラを使い過ぎたかな……?
足が震えて力が入らない……
でももう少しだけ……もう少しで、あの子を救えるかもしれない――!
だけど、身体は言うことを聞かなくて、膝が崩れて倒れそうになる――が、アレクに抱き寄せられた。
「しっかりしろ、まだ――戦っているんだろう?」
頭の上から掛けられる言葉。
心配するんじゃなくて、私を前に進ませてくれる――そんな言葉。
「はい。どうか……そのまま支えていて下さいね!」
体の奥から、力が湧き上がってくる。
――まだ! まだ行ける!
ハープの旋律を、もう一段階上げる。
何度でもやってやる。
あの子を救ってあげられるなら……!
やがて、光のカーテンも黒く染まる事も無くなってきた。
絶望の子は光る繭に包まれたように淡い輝きの中にいる。
もうあの赤い眼からは、涙は流れていなかった。
――もう、苦しまなくていいんだよ。
そう心を込めて、最後の光のカーテンで労わるように包み込んだ。
絶望の子が光の中に飲まれたその時――
――――世界が光に包まれた。
空からだけじゃなくて、地面からも淡い光が立ち上ってくる。
閉じた目に映る世界は輝く光に覆われて、まるで神様の世界にいるような気持ちにさせられる。
――そう、世界は辛いことばかりじゃ無いよ。こんな綺麗な景色だって、確かにあるんだから――
光の繭に手を伸ばして、優しく、労わるように撫でていく。
「もう、休んでいいんだよ――」
溢れた言葉は光に溶けて、繭の中に吸い込まれていく――
<<――アリ……トウ>>
澄んだガラスの声が、鼓膜を優しく震わせた。
あの子の、感謝の言葉。
もう、絶望の音は聴こえなかった。
――辛かったね。でも、もう大丈夫だよね?
光る繭に問いかけると、小さく震えて応えてくれる。
もう一度撫でようと手を伸ばすと、繭が端から消えていくのに気付いた。
小さな金色の粒が、空へ登っていく。
空を見上げて行方を追うけれど、どこまでも登っていく光の先を見ることは叶わなかった。
――ふっと、夜風が頬を撫でる。
鼻を突くような腐臭も、肌を刺すような悪意も消えた夜の森は、何事も無かったように静まり返っている。
焚き火のパチパチという音だけが、静かに森に響いていた。
張り詰めていた糸が切れて、膝の力が抜けてしまう。
崩れ落ちそうになった私を、アレクの力強い腕が受け止めた。
「……よくやったな」
頭上から降ってきたアレクの低い声。
「はい……頑張りました」
朦朧とした意識の中で、私は微笑んで頷いた――




