第38話 二つの月の下で
空が青から橙色へと染まり始めた頃、西陽に照らされて伸びる影を引き摺りながら、街道から少し外れた道を進んでいた。
今日は町には辿り着けなかった。
王都まではまだ距離がある。無理に急いで体力を消耗するより、野営を挟んだ方がいいというアレクの判断だ。
荷馬車が止まると、木軸が軋んで低く鳴った。
ヴィヴァーチェさんは御者台から降りると、慣れた様子で荷台を開けて、今夜に必要な物だけを降ろしている。
アルバートさんは鼻歌混じりに、テントの部材を肩に担いでいた。
私は、アレクと一緒に馬のほうへ向かう。
黒毛のアルルはアレクの愛馬だ。
彼はアルルの鼻先を撫でながら声をかけ、荷馬車を引いていた栗毛のノクトの手綱を解いている。
二頭を近くの木に繋いで、首元を撫でながら飼葉と水を与える仕草は静かで、口元がいつもより少しだけ緩んでいた。
アレクとは何度か野営をしたから、手伝い方はわかる。
まだ慣れていないから少し手間取るけれど、簡単な作業なら手伝えるようになってきた。
干し草を用意して、ブラシを丁寧にかけてあげる。
アルルは首を伸ばして、満足そうに小さく鼻を鳴らしている。ノクトは甘えるように鼻先を腕に擦りつけてきた。
この子たちの心の音までは聴こえない。けれど、二頭とも穏やかで、安心しているのが伝わってくる。
アルルが「ふるる」と鼻を震わせて、すぐ隣で彼が笑った気配がした。
つられて顔を向けた瞬間――目の前に、彼の横顔。
……近かった。思っていたより、ずっと。
馬を見つめる横顔は、普段よりもずっと穏やかで――その優しげな瞳に、胸の奥が小さく揺れる。
何でもないふりでブラシを動かすけれど、同じ場所を何度も撫でていることに気づいて、そっと手元に視線を落とす。
――その瞬間。
ノクトが、ぐい、と大きく頭を押しつけてきた。
「あ……!」
バランスが崩れて、足元が浮く。
転ぶ、と思って思わず目をつむった瞬間。
背後から腕が伸びてきて、ふわりと抱き寄せられた。
背中に感じる確かな温もり。
力強いけれど、包み込むような優しい腕に支えられていた。
「大丈夫か?」
低くて芯のある声が、鼓膜を震わせた。
顔を上げると、驚くほど近くにアレクの顔があった。視線がぶつかって、頭の中が一瞬、真っ白になる。
ち、近い……!
息がかかる距離で、彼の瞳が揺れているのが見えた。
バクバクと早鐘を打つ心臓が、やけにうるさい。
「だ……だいじょう、ぶです……」
声が、思ったより高くなった。
自分でも分かるほど、顔が熱い。
アレクも、はっとしたように目を逸らした。
抱き寄せていた腕が、ほんの一瞬だけ強張ってから、ゆっくり離れる。
「あ……その……」
言葉を探すみたいに口が動くけど、言葉が出てこない。
彼の耳が僅かに赤くなっているのを見て、心臓の音が、また大きくなった。
「ノクトが……」
「……ああ」
短い返事。手で口元を隠して目を逸らしている。
二人の間に、夜風が流れ込んだ気がした。
少し離れたところから、ヴィヴァーチェさんの声が飛んでくる。
「いやぁ、青春ですねぇ……」
視線を向けると、ヴィヴァーチェさんがニヤニヤと笑ってこっちを見ている。
その隣で、一緒になって笑っているアルバートさん。
「うんうん。あの初々しさは、歌にしたくなるなぁ!」
「おお、いいですね! じゃあ、さっそく――」
「やめろ、馬鹿!」
冷やかして面白がっている二人に、顔を赤くしながら止めにかかるアレク。
恥ずかしさでうずくまる私を、アルルとノクトが慰めるように頭を寄せてくれていた。
「いや~、ちょっと揶揄い過ぎましたね、すいません、アリアさん」
焚き火を囲んで夕食をとりながら、ヴィヴァーチェさんが頭を搔いている。
でも、本心はそう思ってないじゃないか。彼から聴こえるトランペットの跳ねる音は、悪戯心を隠せていない。
「全然悪いと思ってないじゃないですか、もう」
頬を膨らませて文句を言ってみても、愉しそうにするばかりだ。
悪意は無いけれど、明らかに面白がっている。
アレクはへそを曲げてしまって、そっぽを向きながら無言のまま。
時折、私と目が合うと、彼のチェロから高い音が聴こえてくる……これは、照れている音だ。
平静でいようとしても、ついついアレクの音を深く聴こうとしてしまう。
――いけない。あまり心を覗こうとしたら、駄目だ。
深呼吸をして、火照る頬を冷ますように顔を上げると、夜空には白銀と青に輝く月が。
焚き火の色と月の色が混ざり合って、林の木々の葉が紅く淡く輝いている。
いつの間にか、周囲の音が耳に戻っていた。
林の奥で小さく鳴く夜鳥の声と、風に揺れた葉が触れ合うかすかな音。
「さあ、どうぞ」
ヴィヴァーチェさんがよそってくれたお椀を、お礼を言って受け取る。
温かいスープの香りが、少し冷えた夜の空気に混ざって鼻腔をくすぐる。
一口含むと、優しい塩気が広がって、胃の中がぽかぽかと温かくなってきた。
気づけば、さっきまでの落ち着かなさが薄れていた。
焚き火を眺めながら続く、明日の道や天気の、他愛のない話。
ヴィヴァーチェさんとアレクが明日の行程を相談していると、アルバートさんがおもむろにリュートをつま弾きだす。
♪――今宵、青く輝く2つの月よ。
女神に赦しを乞いて
いつの日にか二人が出会うことを――♪
ゆったりとしたテンポで紡がれる歌が、私の心を包み込んでくれる。
アレクとヴィヴァーチェさんから心の音が溢れてきて、リュートの音色と混じり合う。
心地よい音の流れに身を委ねて、夜空を見上げる。
ふと気づくと、アレクも夜空を見上げていた。
私の視線に気づいたのか、アレクがわずかに目を細める。
焚き火の揺れる光が映って、いつもより柔らかく見える瞳。
言葉はないのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
気づけば、どちらからともなく小さく笑っていた。
歌が終わり、弦の響きが夜空に溶けていく――
焚き火が、ぱち、と小さく弾けた。
――――その時。
アルルの耳が、ぴくりと林の奥へと向いた。
ノクトも首をもたげて、低く鼻を鳴らす。
アレクが手を止めて、鋭い目を林に向けた。
「――静かに」
その声は硬くて、さっきまでの穏やかさは消えていた。
目は闇の向こうを射抜くように細められ、背中から肩へ――ゆっくりと緊張が這い上がっていく。
月光が剣の柄を鈍く照らす。迷いのない動きで、その手が柄にかかる。
地を踏みしめる足元で、じり、と砂が鳴った。
息が止まるような空気の中、焚き火の音だけがやけに大きく聞こえた。
林の奥を見据えたままのアレクが、低く言い切る。
「ヴィヴァーチェ、アルバート。アリアを荷馬車へ」
察した二人が、すぐに立ち上がって私の前へ出る。
何も言わずに、視線は林の奥から逸らさないまま、背中で私を庇うように立つ。
「アリアさん。ゆっくり荷馬車へ……」
低く囁く声に頷いて、ゆっくり後ろへ下がる。
昏く見通せない林の奥、炎で赫く揺らめく木々の葉が、得体の知れない怪物のように見えてくる。
突然の事態に、震える手を握りしめるしか出来なかった。
もう一歩、後ろへ下がろうとした、その時。
焚き火の光が背中に回り込み、影が長く揺れる。
――がさ。と、林の奥で枝葉の擦れる音。
ぴくりと肩が跳ねて、思わず足が止まる。
震える足を、なんとか動かそうとするけれど、力が抜けないように踏ん張るので精一杯だ。
アレクが、さらに一歩前へ出る。
焚き火と私たちの間に立つ背中が、わずかに低く沈んで、前のめりになる。
闇の奥で、何かが動く。
最初に見えたのは――足だった。
「――ひっ!?」
押し寄せる恐怖に、小さく悲鳴が漏れてしまった。
焚き火の赤に照らされた、泥のこびりついた靴先と、月光を弾いた、鈍い光。
闇を裂いて、もう一つ、また一つと影が増えていく。
枝を押し分ける音とともに、男たちが姿を現した。
三人、四、五……六人。
月に照らされた痩せ細った男たち。
焚き火の炎に浮かんだ顔はやつれていて、目の下に影がある。
震える手で刃を突き出しながら、血走った目でこちらを睨んでいる。
――盗賊。
胸の奥が、音を失ったように冷たくなる。
男達の持つボロボロの剣が、月明かりで鈍く光を纏っている。
凶器を向けられる恐怖と混乱で、体が固まって動けない……怖い……怖いっ!
「い、命が惜しかったら……」
体格の大きい男が、短剣を突き出しながら一歩前に出る。
「金と食料をよこせ!」
その体も痩せていて、膝が少し震えているように見えた。
アレクは応えない。
剣に手をかけて、鋭い瞳で静かに男達を見据えている。
「聞こえなかったか!」
痺れを切らした男が、もう一度叫ぶ。
それを合図に、背後の五人が獲物を構えながらゆっくりと前に出てくる。
アレクが短く息を吸い込んで、短い言葉を投げつけた。
「――断る」
次の瞬間、盗賊たちが動いた。




