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ココロ・ノート〜心の音が聴こえる世界で、少女は伝説の調律師になる~  作者: 名雲
第2章「王都への旅」

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第38話 二つの月の下で

 空が青から橙色へと染まり始めた頃、西陽に照らされて伸びる影を引き摺りながら、街道から少し外れた道を進んでいた。


 今日は町には辿り着けなかった。


 王都まではまだ距離がある。無理に急いで体力を消耗するより、野営を挟んだ方がいいというアレクの判断だ。


 荷馬車が止まると、木軸が軋んで低く鳴った。

 ヴィヴァーチェさんは御者台から降りると、慣れた様子で荷台を開けて、今夜に必要な物だけを降ろしている。

 アルバートさんは鼻歌混じりに、テントの部材を肩に担いでいた。


 私は、アレクと一緒に馬のほうへ向かう。


 黒毛のアルルはアレクの愛馬だ。

 彼はアルルの鼻先を撫でながら声をかけ、荷馬車を引いていた栗毛のノクトの手綱を解いている。


 二頭を近くの木に繋いで、首元を撫でながら飼葉と水を与える仕草は静かで、口元がいつもより少しだけ緩んでいた。


 アレクとは何度か野営をしたから、手伝い方はわかる。

 まだ慣れていないから少し手間取るけれど、簡単な作業なら手伝えるようになってきた。


 干し草を用意して、ブラシを丁寧にかけてあげる。

 アルルは首を伸ばして、満足そうに小さく鼻を鳴らしている。ノクトは甘えるように鼻先を腕に擦りつけてきた。

 この子たちの心の音までは聴こえない。けれど、二頭とも穏やかで、安心しているのが伝わってくる。


 アルルが「ふるる」と鼻を震わせて、すぐ隣で彼が笑った気配がした。


 つられて顔を向けた瞬間――目の前に、彼の横顔。

 ……近かった。思っていたより、ずっと。


 馬を見つめる横顔は、普段よりもずっと穏やかで――その優しげな瞳に、胸の奥が小さく揺れる。


 何でもないふりでブラシを動かすけれど、同じ場所を何度も撫でていることに気づいて、そっと手元に視線を落とす。

 ――その瞬間。


 ノクトが、ぐい、と大きく頭を押しつけてきた。



「あ……!」


 バランスが崩れて、足元が浮く。

 転ぶ、と思って思わず目をつむった瞬間。


 背後から腕が伸びてきて、ふわりと抱き寄せられた。


 背中に感じる確かな温もり。

 力強いけれど、包み込むような優しい腕に支えられていた。



「大丈夫か?」


 低くて芯のある声が、鼓膜を震わせた。

 顔を上げると、驚くほど近くにアレクの顔があった。視線がぶつかって、頭の中が一瞬、真っ白になる。


 ち、近い……!


 息がかかる距離で、彼の瞳が揺れているのが見えた。

 バクバクと早鐘を打つ心臓が、やけにうるさい。



「だ……だいじょう、ぶです……」


 声が、思ったより高くなった。

 自分でも分かるほど、顔が熱い。


 アレクも、はっとしたように目を逸らした。

 抱き寄せていた腕が、ほんの一瞬だけ強張ってから、ゆっくり離れる。



「あ……その……」


 言葉を探すみたいに口が動くけど、言葉が出てこない。

 彼の耳が僅かに赤くなっているのを見て、心臓の音が、また大きくなった。



「ノクトが……」


「……ああ」


 短い返事。手で口元を隠して目を逸らしている。

 二人の間に、夜風が流れ込んだ気がした。


 少し離れたところから、ヴィヴァーチェさんの声が飛んでくる。



「いやぁ、青春ですねぇ……」


 視線を向けると、ヴィヴァーチェさんがニヤニヤと笑ってこっちを見ている。

 その隣で、一緒になって笑っているアルバートさん。


 

「うんうん。あの初々しさは、歌にしたくなるなぁ!」


「おお、いいですね! じゃあ、さっそく――」


「やめろ、馬鹿!」


 冷やかして面白がっている二人に、顔を赤くしながら止めにかかるアレク。


 恥ずかしさでうずくまる私を、アルルとノクトが慰めるように頭を寄せてくれていた。





「いや~、ちょっと揶揄い過ぎましたね、すいません、アリアさん」


 焚き火を囲んで夕食をとりながら、ヴィヴァーチェさんが頭を搔いている。

 でも、本心はそう思ってないじゃないか。彼から聴こえるトランペットの跳ねる音は、悪戯心を隠せていない。



「全然悪いと思ってないじゃないですか、もう」


 頬を膨らませて文句を言ってみても、愉しそうにするばかりだ。

 悪意は無いけれど、明らかに面白がっている。


 アレクはへそを曲げてしまって、そっぽを向きながら無言のまま。

 時折、私と目が合うと、彼のチェロから高い音が聴こえてくる……これは、照れている音だ。


 平静でいようとしても、ついついアレクの音を深く聴こうとしてしまう。

 ――いけない。あまり心を覗こうとしたら、駄目だ。


 深呼吸をして、火照る頬を冷ますように顔を上げると、夜空には白銀と青に輝く月が。

 焚き火の色と月の色が混ざり合って、林の木々の葉が紅く淡く輝いている。


 いつの間にか、周囲の音が耳に戻っていた。

 林の奥で小さく鳴く夜鳥の声と、風に揺れた葉が触れ合うかすかな音。



「さあ、どうぞ」


 ヴィヴァーチェさんがよそってくれたお椀を、お礼を言って受け取る。

 温かいスープの香りが、少し冷えた夜の空気に混ざって鼻腔をくすぐる。

 一口含むと、優しい塩気が広がって、胃の中がぽかぽかと温かくなってきた。


 気づけば、さっきまでの落ち着かなさが薄れていた。

 焚き火を眺めながら続く、明日の道や天気の、他愛のない話。


 ヴィヴァーチェさんとアレクが明日の行程を相談していると、アルバートさんがおもむろにリュートをつま弾きだす。


 ♪――今宵、青く輝く2つの月よ。

 女神に赦しを乞いて

 いつの日にか二人が出会うことを――♪


 ゆったりとしたテンポで紡がれる歌が、私の心を包み込んでくれる。

 アレクとヴィヴァーチェさんから心の音が溢れてきて、リュートの音色と混じり合う。


 心地よい音の流れに身を委ねて、夜空を見上げる。

 ふと気づくと、アレクも夜空を見上げていた。


 私の視線に気づいたのか、アレクがわずかに目を細める。

 焚き火の揺れる光が映って、いつもより柔らかく見える瞳。

 言葉はないのに、胸の奥がじんわり温かくなる。

 気づけば、どちらからともなく小さく笑っていた。


 歌が終わり、弦の響きが夜空に溶けていく――


 焚き火が、ぱち、と小さく弾けた。





 ――――その時。


 アルルの耳が、ぴくりと林の奥へと向いた。

 ノクトも首をもたげて、低く鼻を鳴らす。


 アレクが手を止めて、鋭い目を林に向けた。



「――静かに」


 その声は硬くて、さっきまでの穏やかさは消えていた。


 目は闇の向こうを射抜くように細められ、背中から肩へ――ゆっくりと緊張が這い上がっていく。

 月光が剣の柄を鈍く照らす。迷いのない動きで、その手が柄にかかる。

 地を踏みしめる足元で、じり、と砂が鳴った。


 息が止まるような空気の中、焚き火の音だけがやけに大きく聞こえた。

 林の奥を見据えたままのアレクが、低く言い切る。



「ヴィヴァーチェ、アルバート。アリアを荷馬車へ」


 察した二人が、すぐに立ち上がって私の前へ出る。

 何も言わずに、視線は林の奥から逸らさないまま、背中で私を庇うように立つ。



「アリアさん。ゆっくり荷馬車へ……」


 低く囁く声に頷いて、ゆっくり後ろへ下がる。


 昏く見通せない林の奥、炎で赫く揺らめく木々の葉が、得体の知れない怪物のように見えてくる。

 突然の事態に、震える手を握りしめるしか出来なかった。


 もう一歩、後ろへ下がろうとした、その時。

 焚き火の光が背中に回り込み、影が長く揺れる。


 ――がさ。と、林の奥で枝葉の擦れる音。


 ぴくりと肩が跳ねて、思わず足が止まる。

 震える足を、なんとか動かそうとするけれど、力が抜けないように踏ん張るので精一杯だ。


 アレクが、さらに一歩前へ出る。

 焚き火と私たちの間に立つ背中が、わずかに低く沈んで、前のめりになる。


 闇の奥で、何かが動く。

 最初に見えたのは――足だった。



「――ひっ!?」


 押し寄せる恐怖に、小さく悲鳴が漏れてしまった。


 焚き火の赤に照らされた、泥のこびりついた靴先と、月光を弾いた、鈍い光。

 闇を裂いて、もう一つ、また一つと影が増えていく。


 枝を押し分ける音とともに、男たちが姿を現した。

 三人、四、五……六人。


 月に照らされた痩せ細った男たち。

 焚き火の炎に浮かんだ顔はやつれていて、目の下に影がある。

 震える手で刃を突き出しながら、血走った目でこちらを睨んでいる。


 ――盗賊。


 胸の奥が、音を失ったように冷たくなる。


 男達の持つボロボロの剣が、月明かりで鈍く光を纏っている。

 凶器を向けられる恐怖と混乱で、体が固まって動けない……怖い……怖いっ!



「い、命が惜しかったら……」


 体格の大きい男が、短剣を突き出しながら一歩前に出る。



「金と食料をよこせ!」


 その体も痩せていて、膝が少し震えているように見えた。


 アレクは応えない。

 剣に手をかけて、鋭い瞳で静かに男達を見据えている。



「聞こえなかったか!」


 痺れを切らした男が、もう一度叫ぶ。

 それを合図に、背後の五人が獲物を構えながらゆっくりと前に出てくる。


 アレクが短く息を吸い込んで、短い言葉を投げつけた。



「――断る」


 次の瞬間、盗賊たちが動いた。



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