第36話 自由な詩人
「あっはっは! ボクにそんな力があるわけないじゃないか」
エールを飲みながら陽気に笑うアルバートさん。
酔客たちの熱気のせいもあるんだろう。彼は少し上気した頬で、ケラケラと笑っている。
ランプの灯りに照らされて、まるで少年のように無邪気だ。
私も熱気で乾いた喉を、少しぬるくなった果実水で潤しながら聞いてみる。
「そうだったんですね。私から音楽が聴こえるって言ってたから、てっきり……」
そう言ってヴィヴァーチェさんの方を見ると、彼もエールを飲みながら、うんうんと頷いている。
「確かにそんな事を言ったけど、ボクは君から音楽が聴こえた気がするだけだよ。本当に楽器の音が聞こえるキミとは大違いさ」
エールを片手にウインクしてくる。少し気障ったらしい仕草だけど、アルバートさんには妙に似合っているんだよね。
アルバートさんの気障ったらしい仕草を、嫌そうな顔で見ているアレクだけど、もう警戒するのはやめたみたい。
さっきから機嫌良さげにお酒を飲んでいるし、ジョッキを傾けるその肩は、いつもより少しだけ力が抜けているように見えた。
私たちは、喧騒が少し落ち着いた酒場の中にいる。
さっきまでアルバートさんが歌っていた場所から少し離れたテーブルに座り直していた。
酒場の空気は、まだ歌の余韻と人々の熱気で暑いくらいだ。あちこちのテーブルから、笑い声やジョッキが触れ合う音が聞こえてくる。
「いやあ、素晴らしい夜だね」
アルバートさんが、満足そうにエールのジョッキを傾けた。彼の心の音——リュートが、軽やかに響いている。
「良い観客たちに恵まれたのもそうだけど、なにより素晴らしい出会いができた!」
「アルバートさんの歌は凄かったですよ! 惹きこまれたというか、圧倒されました。本当にお上手なんですね」
私が素直な感想を言うと、彼は誇らしげに笑った。
「ありがとう。でも、芸術や音楽は分かち合うものだからね。聴いてくれる人がいてこその歌さ」
「いい稼ぎにもなりましたしね! あれだけお金が集まれば、しばらくは安泰ですよ」
ヴィヴァーチェさんが、嬉しそうに頷いている。
「ああ、みんな喜んでくれて嬉しいよ。これぞ吟遊詩人冥利に尽きるってもんさ」
アルバートさんが、のんびりとした口調で答えた。
彼は上機嫌でエールを傾けている。彼の心から聴こえてくるリュートの音色も、羽が生えたように軽快な音だ。
4人で楽しく会話していると、突然、酒場の片隅から怒声が鳴り響いた。
「何だとてめえ!」
「上等だ、表出ろ!」
椅子が倒れる音がして、周囲の会話がぴたりと止まった。空気が一瞬で張り詰める。
驚いて振り返ると、体格の良い男性二人が睨み合っているのが見えた。
酔っ払っているのか、顔が真っ赤だ。周りの客たちが慌てて距離を取っている。
「あらら……」ヴィヴァーチェさんが、困ったように呟いた。
アレクが「ちっ……面倒な」と眉根を寄せながら腰を浮かしかけた——その瞬間だった。
「おや? こんな良い夜に喧嘩はいけないな」
アルバートさんが、すっと立ち上がって喧嘩をしている二人に向かって歩き出した。
「え……?」
私は、思わず声を上げた。いきなりの事で、声を掛けることも出来ずに見送ってしまう。
ヴィヴァーチェさんも目を丸くしている。
「おい、何をする気だ!」
アレクが慌てて止める。でも、アルバートさんは振り返らずに歩いていってしまう。
周囲の客たちも、何事が始まるのかと注目しているけれど、そんな視線を意に介さずに進んでいく。
微笑みを浮かべたまま男性たちの前に立つと、おもむろにリュートを構えて――歌い始めた。
その朗々とした歌声は、まるで透き通った水が流れるように、酒場の喧騒を洗い流していく。
♪ ――憎しみの炎よ いざ我を高みへと誘いて
猛き心の調べは 魂までも焼き尽くし――
「な、なんだこいつ!?」
喧嘩をしていた二人が、呆気にとられて動きを止めた。ちょっと身を引いて、得体のしれない者を見る目をしている。
アルバートさんは、そんな様子もお構いなしにリュートを奏でて歌い続ける。
酒場中の視線が彼に集まって、聴こえてくるのは彼の歌とリュートの音色だけになった。
アルバートさんの歌を聴いていると、ふと、別の音が聴こえた気がした。
これは――喧嘩していた男性たちの音?
私は聴こうとしていないのに……勝手に音が流れ込んできたの?
驚いていると、男性たちの心の音が変わっていくのがわかった。
ざわざわと波立っていた音が、少しずつ静かに落ち着いていく。まるで、荒れた湖面が凪いでいくみたいに。
アルバートさんの歌が、本当に人の心を癒している――!?
私が驚いている間に歌が終わってしまった。
リュートの弦が震える余韻を残して、酒場はしんと静まり返っている。まるで、誰もが息をするのを忘れてしまったかのように。
そんな静寂の中、アルバートさんはにっこりと笑って、喧嘩していた男性の肩を叩いた。
「こんな素敵な夜に喧嘩をするなんて……駄目じゃないか。キミたちにも、ボクのこの胸の高まりを分けてあげよう」
そう言うと、また軽やかにリュートを弾き始めた。今度は陽気で弾けるような旋律だ。
「さあ、飲もうじゃないか! なに、心配はいらない。ボクが奢ってあげるよ!」
「え……本当か?」
男性二人の顔が、ぱあっと明るくなった。さっきまでの怒りは、どこかに消えてしまったみたいだ。
「おお、そいつはありがてぇ!」
「飲み直しといくか!」
喧嘩していたはずの二人は、いつの間にか笑い合って、お互いに肩まで組んでいる。
私は、ぽかんと口を開けたヴィヴァーチェさんと顔を見合わせた。私も同じような表情をしているだろう。
視界の端に、頭が痛いと言わんばかりに、深いため息をついているアレクの姿が映った。
アルバートさんは満足そうに頷くと、酒場のマスターに向かって歩いていく。
歩きながらリュートを奏で、朗々とした声で語りだした。
「やはり音楽は素晴らしい。人と人がわかり合えるこの喜びを――さあ、みんなで分かち合おうじゃないか!」
そう言って——投げ銭の入った袋を、どさりとカウンターに置いた。周囲に硬貨が擦れる硬い音が響く。
ヴィヴァーチェさんが、その音を聞いて顔を引きつらせたのがわかった。
そして、アルバートさんはくるりと優雅に振り返ると、両手を広げながらとんでもないことを言い出した。
「これで、みんな好きに騒げばいい! さあ、楽しく飲もうじゃないか!」
少しの静寂の後、また歓声が爆発した。
あちこちのテーブルで乾杯が始まり、踊りだす人も出る始末。
だけど、このお祭り騒ぎに待ったを掛ける人物が、慌ててアルバートさんに駆け寄って行った。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ヴィヴァーチェさんが、アルバートさんに縋りつくように止めに掛かっている。
「アルバートさん、駄目ですよそれは!」
「なぜ? なんで止めるんだい?」
アルバートさんが、不思議そうに首を傾げた。本気で不思議そうな顔をしている。
「みんな喜んでるじゃないか。喜びとは分かち合うものだよ」
確かに、酒場中が沸いている。歌いだす人、踊りだす人、見渡すと笑顔で溢れていた。
けれど、ヴィヴァーチェさんの顔は青ざめて、必死に彼を止めようとしていた。
私が呆気にとられていると、彼のリュートの音色に乗って、心の音も一緒に私の中に飛び込んできた。
思わずその音に耳を澄ませてみると、そのリュートの音色が純粋な喜びに満ちているのがわかる。
まるで、雲ひとつない青空のように澄み切っていて、少しの曇りもない。
人間らしい打算も、計算も、何もない。ただ、人が喜ぶことが嬉しい——そんな透き通った音だった。
ああ……この人、本当に悪気がないんだ。純粋に、今を楽しんでいる。
私は、思わず苦笑してしまった。
「……信じられん」
隣にいるアレクが盛大なため息をついて、頭に手を当てている。
酒場の中はいろんな音が渦巻いて、耳を塞ぎたくなるくらいに騒々しくなっていたけれど、その中で私はふと気づいた。
――この人たちの心の音が、アルバートさんのリュートに合わせて協和音を奏でていることに。
軽快な音色を奏でるリュートに合わせて、皆の心の音が弾んでいた。
ばらばらだった音が、ひとつの旋律に溶け合っていく。
まるで「調律」したみたい……
この、みんなの心がひとつの音になっていく感じがとても似ている。
改めて、音楽の不思議な力には驚かされた。
視線を戻すと、ヴィヴァーチさんが必死に説得していた。
「あのですね、お金というのは大切なもので……」
「うん、うん」
「せっかく稼いだのに、全部使ってしまったら……」
「でも、みんな幸せそうだよ?」
「そういう問題じゃなくて!」
ヴィヴァーチェさんの声が、だんだん大きくなっている。
「僕だって、50ソルの借金を抱えてるんですよ! お金の大切さ、わかってください!」
「50ソルだって? それは大変だね」
アルバートさんが、心配そうに眉を寄せた。
「じゃあ、今度ボクが稼いだら、君に分けてあげるよ」
「だから、そういうことを言ってるんじゃ――!」
ヴィヴァーチェさんが頭を抱えながら、必死な説得を続けているけど、全然伝わってる感じがしない……。
「あっはっは! みんな喜んでくれて楽しいねぇ!」
「だから! 話を聞いて――!」
ヴィヴァーチェさんの叫び声も虚しく、アルバートさんの楽しそうな笑い声だけが酒場の中で響いていた――




