第3話 隠された真実1
ヨハンさんが息子を連れに家へと戻っていく。
私は井戸の縁に腰を下ろして、空を見上げた。
初夏の抜けるような青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
こんなにも平和な景色なのに、人の心は複雑で――。
「アリア」
ぼんやりと考え事をしていた私に、村長のオットーさんが話しかけてきた。
「よっこらしょ」と言いながら、隣に座る。
「お前さん、なにやら雰囲気が変わったな」
穏やかに微笑む村長。
白い髭を蓄えた70過ぎの長老だけど、その瞳はとても優しい。
「あの大人しかった子が、あんな大きな男たちに向かっていくなんて……怖かったろうに」
「あはは……あのままじゃ喧嘩になっちゃうと思って……必死でした」
「ワシもあと30若ければ、あんな小僧共はゲンコツで黙らせてやったんだがのぅ」
オットーさんは、こぶしを握りながらおどけてみせる。
ええ……?小柄な村長にはちょっと無理じゃないかな……?
そんな事を心の中で思っていると、ふと遠くを見るような顔をして聞いてきた。
「……お前さん。ヨハンが何かを隠していると、どうしてわかった?」
それはあまり聞いて欲しくなかったな……。心の音が聴こえるなんて言っても、信じてもらえるとは思えない。
なんて言えばいいんだろう?どう答えるのが正解なんだろう?上手い言い訳が思いつかない。
「なんとなく……ですね」
苦笑いしながら曖昧に答えるのが精一杯だった。
しかし、オットーさんは優しく微笑んだ。
「そうか。お前の母親も、そういうところがあった」
「お母さんが……?」
「あぁ。カンタータは人の気持ちがよくわかる人だった。誰かが悲しんでいると、すぐに気づいて声をかけていた……」
オットーさんが、懐かしむように遠くを見つめる。
「お前さんは、母親によく似たんだな」
彼の心から、穏やかなヴィオラの音が聴こえてきた。
母への懐かしい記憶と、私への優しさ。
母も……私と同じだったのかな。
知らなかった母の一面。それを知れて、なんだか嬉しい。
その後も、オットーさんと何気ない会話をしていると、ヨハンさんが息子を連れて戻ってきた。
エミール。10歳になったばかりの少年で、茶色の髪を短く刈り込み、そばかすのある顔を俯かせている。
彼の心から、震えるフルートの音が聴こえてくる。
恐怖、罪悪感、そして――深い悲しみ。
「エミール」
グスタフさんが腕を組んで、エミールを見下ろす。厳しい声。
少年が、びくりと体を震わせた。
「俺の斧を、どこへやった?」
フルートの音色が、ますます高く、細くなっていく。
俯いたまま何も言わない息子の肩に、ヨハンさんが手を置いた。
「エミール。ちゃんと話すんだ」
でも、少年はますます俯いて黙ったまま。
……そりゃそうだよね。こんな風に追い込まれちゃったら、話したくても話せないよ。
よし、ここは私の出番だ。
私は立ち上がって、エミールの前で膝をついた。
目線を彼と同じ高さにして、出来るだけ柔らかく笑いかけた。
「エミール。怖がらなくていいんだよ?」
いつもと変わらない声のトーンを心がけて語りかけてみる。
少年が、ちらりと私を見た。怯えた瞳を真っ直ぐに見つめる。
「私たちは、あなたを責めたいわけじゃないの。ただ、本当のことを話して欲しいだけなんだ」
ぎゅっと握りしめられた、まだ小さな手を取って、そっと手を重ねる。
大丈夫。怖くないよ――そう伝えるように。
まだ少し頭が重い。
でも――この子の心を、ちゃんと聴いてあげたい。
エミールの心の音を、深く、深く聴く。
恐怖で震えるフルートの奥に――優しい旋律が隠れている。
これは……誰かへの愛情。
守りたい――そんな想いが聴こえる。
「……エミールは、誰かを守ろうとしてたのかな?」
私がそう告げると、エミールの目が大きく見開かれた。
「……どうして……?」
「わかるよ。あなたの心が、そう言っているから」
やっぱり――!
言い当てられたことに内心で安堵するけど、表には出さないように気をつけて微笑む。
エミールはまた俯いてしまった。
でも、小さな手が私の手をぎゅっと握り返している。
――これは、自分で言い出そうとしてくれているな。
なかなか話そうとしない息子を注意しようとするヨハンさんに、待っていてとアイコンタクトを送る。
ヨハンさんは何か言いたそうだったけど、黙って一歩下がってくれた。
エミールはしばらく黙っている。もじもじしている姿が可愛い……このまま頭を撫でてあげたいけど、それをやったら、また話せなくなっちゃうよね。
我慢して、待つ。
やがてエミールが、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「…………森で、ケガした子犬を見つけたんだ」
「子犬?」
「…………うん。足をケガして、動けなくなってた。かわいそうで……助けたくて」
エミールの声が震える。震えながらも一生懸命に話してくれている。
「でも、ウチは貧乏だから、犬なんて飼えない。父ちゃんに言っても、絶対にダメだって言われる……だから」
「……だから、森に小屋を作ろうとしたの?」
私がそう尋ねると、エミールはこくりと頷いた。
「小屋を作って、安心して寝させてやりたかったんだ。でも、ウチの斧は古くて……グスタフおじさんの工房に、立派な斧があったから……」
少年の目から、涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい……盗むつもりじゃなかったんだ……すぐに返すつもりだった……でも、小屋がなかなか作れなくて……」
グスタフさんは、呆然とエミールを見ていた。
村長も、村人たちも同じようにエミールを見ている。
私も、泣いているエミールの背中を撫でて落ち着かせた方がいいかな?と迷っている間に、それは起こった。
――グスタフさんの心の音が、変わった。
激しい太鼓の音が、静まっていく。
代わりに、温かなヴィオラの音が響き始めた。
その変化は、激しい嵐が去った後の晴れ間から、光のカーテンが降り注いでいるのを見たような、沈んだ空気が一変するような、そんな感覚。
人の心の変化は、こんなにも豊かで、激しくて、ドラマチックなんだ……。
「…………子犬を、助けたかったのか」
グスタフさんが、エミールを見ながら静かに尋ねた。エミールは震えながらも、しっかりと頷いた。
「その子犬は、何処にいる?」
「森の……大きな樫の木の根元に……隠してある」
グスタフさんは、深く息を吐いた。一歩、二歩と大きな体がエミールへと近づいてくる。
もともと厳つい顔なのもあるけど、その迫力は私でも怖い!エミールなんて体が小刻みにプルプルと震えちゃってる!
グスタフさんがエミールのすぐ前で立ち止まって、エミールを見下ろす。少しの沈黙の後、右手をスッと上げる。
その仕草に、エミールはぎゅっと目をつぶって体を固くしてしまう。だけど———。
グスタフさんは、エミールの頭に大きな手を置いた。
「案内しろ。一緒に見に行こう」
「え……?」
エミールが驚いて顔を上げた。げんこつが来ると思って身構えていたのに、優しく頭に手を置かれて驚いたんだね。
「子犬が怪我をしているんだろう?放っておけないだろう」
グスタフさんの怖い顔に、優しい笑みが浮かんだ。
「それに、俺の斧も取りに行かねぇとな」
森の中を私たちは歩いていく。
エミールを先頭に、グスタフさん、ヨハンさん、私と村長、そして数人の村人たち。
響骨山脈から吹き降ろす風が、森の木々を揺らしている。
葉が擦れ合う音。鳥たちのさえずり――森は、命の音楽で満ちていた。
やがて大きな樫の木に辿り着くと、エミールは根元の茂みを掻き分けた。
そこには、粗末な小屋があった。枝や葉を組み合わせただけの、子供が作ったとわかる小屋。一生懸命作ったんだろうね。
そして――――その中に、小さな子犬がいた。
茶色い毛並みのまだ幼い犬。右の前足に木の枝で添え木をしている。
エミールが、懸命に手当てをしたのだろう。
子犬は、私たちを見て身を竦めて怯えた表情を見せたけど、エミールが近づくと嬉しそうに尻尾を振っている。
「よしよし……怖くないよ」
エミールが、優しく子犬の頭を撫でる。その光景を見て、グスタフさんは目を細めた。
「…………いい子じゃないか」
グスタフさんが子犬に手を伸ばす。
子犬は最初怯えたけど、グスタフさんの大きな手が優しくなでると、安心したように甘えた。
「この子の足の怪我は、もう少しで治りそうだな」
グスタフさんが子犬の足の様子を確認して言った。
「エミール。お前、よく手当したじゃねぇか」
グスタフさんの言葉に、エミールは驚いて顔を上げた。
「……おじさん、怒らないの?」
「怒ってるさ」
グスタフさんがエミールの頭をぽかりと叩いた。
「人の者を勝手に持ち出すなんざ、そりゃ悪いことだ。だがなぁ……」
彼は、子犬を優しく抱き上げた。
「命を助けようとした。その心は立派だ」
エミールの目から、また涙が溢れた――でも、今度は嬉しい涙。
もう、私の出番は終わりだね。良かった……エミール。
「ありがとう……おじさん……」
ヨハンさんが息子の肩を抱いた。
「グスタフ……すまなかった。俺も、もっと早く息子と話をするべきだったよ」
「いいってことよ。お前も、父親として息子を守ろうとしただけだろう」
二人はしっかりと握手を交わした。
その瞬間、二人の心の音が――調和した。
重厚なチェロと、穏やかなピアノが、美しいデュエットを奏でている。
晴れやかな夏空に吹く風のような、春の訪れを告げる暖かな陽射しのような……。
なんて心地よい旋律だろう……。
二人の不協和音が協和音に変わって、ハーモニーを生み出す……。
これが――心の音が、調和するということなのかな。
こんなにも美しい音楽を聴けるなんて、なんて素敵なことなんだろう――。
この心地よい旋律に身を任せながら、私はそう思った。




