第19話 セシリアの苦悩
「精一杯、頑張ります」
そう返して、部屋の中に一歩踏み込んだ。
ここからは、アレクとエドワードさんには外で待機してもらう。
年頃の女性同士の話。男性陣には聞かれたくない話題になるかもしれないから、二人きりにさせてもらうことにした。
アトリエに入った私の目に映る世界は、想像したものとは違って明るく輝いていた。
大きな窓から陽の光が降り注いでいる。
明るい室内にはイーゼルが並んで、描きかけの絵が置かれたまま。
壁には美しい絵画が、いくつも飾られているのが見えた。
風景画、静物画、肖像画――。どれも繊細な美しさと温かさが感じられる。
「わあ……」
思わず感嘆の声を上げた。
春の湖畔を描いた風景画は、生き生きとした青葉と、静謐な湖の透き通るような青のコントラストが美しい。
肖像画に描かれた美しい女性が柔らかく微笑む姿は、母親のような無償の愛を感じさせる。
その他の幾つもの絵画も、作者の心の美しさや柔らかな感情を写しているようだった。
絵の具の独特な匂いの中、部屋の奥でセシリア様が、キャンバスに向かっている姿が見えた。
長い髪を結い上げて、白いエプロン姿で筆を動かしている。
一心不乱に描いている彼女の心から、高らかに謳い上げるようなコルネットの音が聴こえてくる。
絵を描く喜びが、心の音に現れているんだろう。
聴いているこちらまで幸せになりそうな音色だ。
邪魔をしては申し訳ないと思い、声を掛けずに静かに待つ。
わずかな衣擦れの音と、キャンバスを走る筆の音だけが聞こえる、静謐な空間。
真剣な表情でキャンバスに向かうセシリア様の横顔は、祈りを捧げるような神秘的な光景にすら感じられた。
やがて、小さく息を吐いた彼女が背筋を伸ばし、筆を置いてこちらに向き直った。
「いらっしゃい、アリア。待たせてごめんなさいね」
セシリア様はそう言うと、小さく笑ってみせた。
「いえ、真剣に絵を描かれているセシリア様は、とてもきれいで見惚れてしまいました。それに、純粋に絵を描かうのが楽しいと、心の音も教えてくれましたし」
「ふふ、ありがとう。それにしても、心の音ね……」
セシリア様が目をきらきらと輝かせた。
「ねえ、私の音は?どんな音色なのかしら?」
まるで子供のような無邪気な笑顔。
その表情に、私も思わず笑ってしまう。
隠すような事でも無いので、素直に答えることにする。
「セシリア様の音は――コルネットの音色です」
「コルネット?トランペットに似た金管楽器だったかしら?」
口元に人差し指をそっとあてて、少し遠くを見るような仕草をする。
頭の中でコルネットの形を思い描いているのだろう。
「そうですね。トランペットより柔らかい響きで、私は好きです」
「そうなのね。自分の音を好きといわれると、なんだか不思議な気持ちね」
そうやって楽しそうに笑う。
「ちなみに、お父様はどんな楽器の音色なのかしら?」
楽しそうに聴いてくるセシリア様は、昨日あんなに怒っていた事など忘れたかのように、辺境伯様の事を知りたがる。
「辺境伯様はとても温かいヴィオラの音色ですね。あの温かく柔らかい音色は、聴いていて心が安らぎます」
「お父様らしいわ。ヴィオラの音色なんて、とっても素敵じゃない」
自分の父親の事を聞いて喜ぶセシリア様。やはり、彼女自身も決して父親を嫌っている訳ではないと知り、嬉しくなる。
「ねえねえ、他の人たちの心の音も聴いているのよね?どんな楽器なの?」
「そうですね。エドワードさんは、ホルンとティンパニの2つの楽器が聴こえてきますし、こちらでお世話してしただいているメイドさん達は、フルートやシロフォンにアコーディオンと、皆さんそれぞれ違う音色でした」
私の、人の心の音が聴こえる能力が、こんなに楽しい話題になるとは思ってなかった。
私が答える度に「へえ!」とか「えぇ!?意外だわ!」なんてリアクションで返してくれるセシリア様とのおしゃべりが、楽しくて仕方がない。
メロディア村には同じ年頃の女の子が居ないんだよね。
時々やってくる他の村の女の子達とお喋りするのがとても楽しくて、次はいつ来てくれるだろうかと待ち侘びていたものだ。
セシリア様も平民である私に尊大な態度を取ったりするでもなく、自然体でお話をされている。
しばらくそんな感じでお喋りをしていたけれど、ふと、セシリア様の後ろに飾ってある女性の肖像画が目に入った。
若い女性を描いたその絵は、ひときわ目を引く美しさ。
セシリア様の肖像画かな?でも、少し違うような……。
「ああ……それは、お母様の肖像画なの……」
私の視線を追ったセシリア様が、寂し気な表情で教えてくれた。
彼女のコルネットが、深い悲しみの音を紡ぎ出す。
先程までの楽しかった雰囲気が、嘘のように静まり返る室内。
静寂の中で紡がれる音色は、何かを喪った悲しみに、心が沈んでいくようだった。
「お母様は……」
セシリア様の声が震える。
「5年前の流行り病で……」
その瞬間、胸が締め付けられる。
「私も……」
声が、出ない。
「私も……同じです……」
セシリア様が、ハッと顔を上げた。
「あなたも……?」
「はい。5年前に母を……」
二人の間に沈黙が落ちる。
でも、それは辛い沈黙じゃなかった。
お互いの痛みを分かち合うような、沈黙。
セシリア様の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「私達、どちらも母親を亡くしているのね……」
2人の気持ちが共鳴する。
お互いの音が一瞬、重なり合った。
同じ悲しみ、同じ喪失感が深い共感を生み出し、心が一つになったような錯覚を感じる。
同じ事をセシリア様も感じているのだろう。彼女の瞳が驚きと困惑で揺れていた。
「不思議ね……」
セシリア様が、涙をぬぐいながら微笑んだ。
「あなたとは会ったばかりなのに、まるで昔から知っている友人みたい」
「私も同じことを考えてました」
本当に不思議だった。
お姫様のセシリア様と、平民の私。
住む世界は全く違うのに――今、この瞬間。
私たちは母を喪った悲しみを抱える、ただの娘だった。
愛する母を喪う。
その痛みを知る私達。
「何か不思議な気持ち……。貴女と心を理解し合えたような……」
「私も同じです。セシリア様の悲しみも苦しみも、私の中に流れ込んでくるようです……」
私の言葉を聞いて、彼女は頷きながら立ち上がり、母親の肖像画の前に立った。
「私のお母様はね、芸術を愛した人だった。私に絵を教えてくれて、私をたくさん愛してくれた」
セシリア様の表情が優しくなる。母親との思い出を振り返っているのだろう。
「お母様はよく言っていたわ。『芸術は心を豊かにしてくれるのよ』ってね」
そっと、壊れ物に触れるように、静かに肖像画の枠に触れる。
「でも、お母様は芸術だけではなく、貴族の義務もしっかりと果たしていたの。社交も、領地経営の手伝いも完璧にこなしていたわ」
セシリア様が深いため息を吐き出す。
「私には……できないの。お母様のように、芸術も貴族の義務も両方をこなすなんて……とても出来ない……」
「セシリア様……」
彼女の心から、芸術への希望の音が消えていく。
苦悩するような音を奏で始める
自分への失望や、父親への申し訳なさで消え入りそうな音色。
「お父様は、お母様をとても愛していた」
懐かしむようにポツリとつぶやく。
「お母様が亡くなってから、お父様は変わってしまったの。私に厳しく教育を押し付けるようになって、笑顔を向けてくれることも少なくなった……」
俯いて、自分を守るように両手で体を抱きしめながら、彼女は話し続ける。
「きっとお父様は、お母様のように出来ない私に失望していると思う。なんで出来ないんだと……出来損ないのくせに反発ばかりする私を、見限ってるかもしれない」
相談する相手も居なくて、一人で抱え込んでいたのだろう。深く共感し合った私に、抱え込んでいた物を吐き出したいのかもしれない。
両手で顔を覆い、涙を流しながら、懺悔のように心の内を吐き出していく。
「お父様に嫌われるのが怖い。でも、芸術を諦めることも出来ない……だって、この絵は私がお母様から受け継いだ、大切なものだから……!」
彼女の心の音は、出鱈目に鳴り響く。突然強く吹いたと思えば、陰気で暗い音色に変わってしまう。
心に溜め込んでいたものを、一度全部吐き出したらいい。
そう思って、彼女の心の音に、そっと自分のハープの音色を重ねる。
音色も音程もバラバラと飛んでいく音に、一つづつ丁寧に音を重ねていく。
やがて2つの音が混じり合って、ハーモニーを奏でていく。
少し頭は痛むけど……これくらいなら、まだまだ大丈夫そうだ。
セシリア様のコルネットが、元の柔らかい音色を取り戻していき、彼女の表情も落ち着いてきたように見える。
「今のは……貴女がやったの?この不思議な感覚は……」
セシリア様は自分の両手を見ながら、驚きの表情でつぶやいた。
「そうです。私は、心の音を聴くだけでなく、相手の音に自分の音を合わせて、心を落ち着かせたりする事が出来るんです」
「そんな事が……!なんて素敵なチカラなんでしょう。貴女の優しい心が、私の中に流れ込んできたわ」
涙で赤くなった目を擦りながら、私に笑いかけてくれるセシリア様。
気持ちを吐き出したおかげか、部屋に来た時よりも表情もスッキリしたように見える。
「セシリア様。お父様は貴女を愛しておられます。何よりも大切に想っていらっしゃいますよ」
「そうなのかしら……。貴女がそう言うなら本当なんでしょうけど、自信を持てないの」
心の膿を吐き出しても、父親に対するわだかまりが無くなったわけではない。
信じたいという心と、傷つきたくないという心がせめぎあっていた。
「ちゃんと伝わっていないんです。セシリア様も、辺境伯様も、お互いの想いが空回りしているんですよ」
そう言うと、私はセシリア様の白い手をそっと掬い取った。
「セシリア様。私が、お父様の心の音を聴かせて差しあげます」
にっこり笑ってそう言うと、セシリア様は驚いたように青い瞳を見開いた。




