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少しずつ

はいつも、ゆっくりと始まり、ゆっくりと終わっていく。 午前二時から五時までの時間は、誰かの夢と現実の境界線のようだった。 黒田誠にとって、それは“生き延びるための時間”だった。 だが、あの人――国武聖と出会ってからは、少しだけ色が変わり始めていた。

 その夜も、店は静かだった。 客はまばらで、厨房の時計の針の音がやけに大きく響く。 誠は手持ち無沙汰に、稽古中の芝居の台詞を小声でつぶやいていた。 「……俺は、もう逃げない。たとえ明日がなくても、ここで、生きる」 俳優志望の自分を奮い立たせるように、繰り返す。

 「それ、誰の脚本?」 振り向くと、聖がレジの奥からこちらを見ていた。 「え、あ、ああ、三川幸助って人の舞台です。セリフ覚えるの大変で」 「へえ、いいね。俳優さんなんだ」 「まだ“夢追い中”ですけどね」

 聖は、ふっと笑った。 その笑顔は、夜の蛍光灯の光よりも柔らかかった。 ただの職場の同僚――その距離のはずなのに、 誠は、その一瞬に胸の奥が小さく灯るのを感じた。

 「私もね、昔ちょっとだけ芝居かじってたんだ」 「え、ほんとですか?」 「学生のとき。文化祭でね。セリフ飛ばして大泣きした」 「そんなふうに見えないです」 「見せないようにしてるだけ」

 聖は笑いながら、テーブルを拭き続けた。 その横顔には、どこか影があった。 でも、誠にはそれが――夜に咲く花のように見えた。

 それから、少しずつ二人は話すようになった。 店の混まない時間に、テレビのニュースを見ながら他愛もない会話をした。 「黒田くん、俳優って、食べていけるの?」 「今は無理です。オーディションも全然通らなくて」 「でもやめないんだね」 「……やめたら、自分が消えそうで」 聖はその言葉に、ほんの少しだけ目を伏せた。

 「そういう人、好きだよ。まっすぐで」 「え?」 「夢追ってる人って、不器用だけど、嘘がなくていい」 「……ありがとうございます」 誠は照れくさく笑いながら、湯気の向こうで視線を逸らした。 湯気の中に、彼女の笑顔がぼやけて見えた。

 深夜三時。 街の音は完全に止み、店の外では風がわずかにビルの隙間を抜けていた。 誠はふと、思った。 ――この人は、どうしてこんな時間に働いているんだろう。 けれど、聞く勇気はなかった。 聞いた瞬間に、壊れてしまう気がしたからだ。

 「黒田くん」 呼ばれて顔を上げると、聖がカウンター越しに小さく手を振っていた。 「まかない、できたよ。食べな」 「ありがとうございます」 「牛皿大盛り。あなたの定番でしょ?」 「はい。味噌汁、うまいっす」 「それ、私が作ったやつ」 「え、ほんとですか?」 「たまにはね」

 誠は笑った。 聖も笑った。 その笑い声は、夜の中で小さく響き、そして消えていった。

 家庭の話をすることはなかった。 誠も、聞こうとはしなかった。 ただ、彼女が夜を真っ直ぐに生きる姿を見ているだけで、 心のどこかが救われていくのを感じていた。

 深夜の街。 コンビニの光と、街灯の影の中をタクシーがゆっくりと走り抜ける。 その音を聞きながら、誠は思った。 ――少しずつでいい。 この夜が、終わらなければいい。

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