第五話「選別の診療室 魔狼戦の前日譚」
俺は医者だ。
表向きは、闘士たちの健康診断を任されている。だが──医者という立場は、実に便利だ。闘技場に補充が入るたび、選別前の素体に真っ先に接触できる。
すなわち、"被検体"の中から、使える素材を嗅ぎ分けられるということだ。
今日も朝早くから、コロッセオの医療棟にやってきた。新しく搬入された奴隷たちの健康診断──表向きはそうだが、実際は俺の研究に適した被検体の選別作業だ。
医療棟は地上三階建ての白い建物で、コロッセオの付属施設としては最も清潔に保たれている。一階が一般診療室、二階が手術室、三階が俺の専用研究室兼執務室。地下には特別手術室があり、そこが今日の目的地だった。
朝の六時、まだ薄暗い廊下を歩きながら、俺は今日搬入される「商品」のリストを確認していた。総勢十八名。年齢は十代後半から四十代前半まで様々だ。
犯罪者が半数、借金の担保が三分の一、戦争捕虜が残りという構成。典型的な奴隷闘士の供給源だった。
執務室に到着すると、助手のエリシアが既に準備を整えて待っていた。
「おはようございます、ゼイド様」
エリシアは美しい女性だった。シルヴァン族特有の銀髪を後ろで結い、白衣の下には引き締まった身体を隠している。表向きは俺の医療助手だが、実際は精神共鳴装置プロジェクトの共同研究者でもあった。
彼女の過去は複雑だった。幼い頃に一族が迫害を受け、家族と離ればなれになった。その後、様々な困難を経て俺の元に辿り着いた。医学知識もあり、何より俺の研究に理解を示してくれる貴重な人材だった。
「対象は?」
「はっ、こちらに」
重厚な鉄格子の窓がガシャリと開き、薄暗い部屋を見下ろす。十数人の若者がうずくまっていた。痩せこけた体躯、浮き出た肋骨──どれも使い物にならない、骨と皮の塊だ。
地下の収容施設は、まさに地獄そのものだった。一つの部屋に十数人が押し込まれ、まともな食事も与えられていない。排泄物の臭いと汗と絶望の匂いが混じり合い、吐き気を催すほどの悪臭が立ち込めている。
俺は一人一人を観察していく。大半が栄養失調で筋力不足。青晶核の埋め込み手術に耐えられる体力を持つ者は皆無に等しい。
被検体として使用するには、最低限の身体的条件をクリアしている必要がある。BMI指数18以上、血圧正常値、心拍数安定、そして最も重要なのが青晶核との適合性だった。
過去の実験で分かったことだが、青晶核との適合性は生まれつきの体質に大きく左右される。精神的に不安定な状態にある者ほど適合性が高く、逆に精神的に安定している者は適合性が低い傾向にある。
だが、その中に一人──体格だけでいえばましな大男がいる。
「一番左、あの大男。素性は?」
「オプレッサー・ブラックハンマー。貴族の屋敷を襲撃した罪でコロッセオ送りに」
筋肉はついているが、上半身ばかり鍛え下半身は細い。典型的な街の喧嘩屋だ。顔には無数の傷跡があり、右耳が半分欠けている。おそらく過去の喧嘩で負った傷だろう。
「年齢は?」
「三十四歳です。前科多数、主に暴行と恐喝」
「家族は?」
「天涯孤独とのことです」
家族がいないということは、実験で死亡しても捜索される心配がない。都合の良い条件だった。
「十把一絡げのゴロツキだな」
俺は鍵を受け取り、無言で鉄扉を開ける。むせ返るような汗臭さが流れ込んできた。足元には腐った藁が敷かれ、虫が這い回っている。
収容者たちは俺の姿を見ると、一斉に身を寄せ合った。医者の白衣を見て、何らかの「処置」を受けるのではないかと恐れているのだ。
「健康診断だ。全員、腕を出せ」
最初に声をかけたのは、例の大男オプレッサーだった。
「……けっ、俺は病気じゃねぇよ」
ゴロツキが吠えた。典型的な小物の威嚇行動だ。だが、その声は震えている。強がってはいるが、内心では恐怖しているのがよく分かる。
「拒否か? 構わん。刑務官に報告するだけだ」
この言葉に、オプレッサーの顔色が変わった。刑務官に報告されれば、食事抜きか体罰が待っている。ここでは、医師の指示に従わないことは重大な規則違反とされていた。
「舐めんな!」
腕を雑に突き出す。太い腕には入れ墨が彫られ、古い傷跡が無数にある。まさに荒くれ者の腕だった。
順に注射をしていく。
もちろん麻酔薬だ。俺が独自に調合した睡眠薬と筋弛緩剤の混合物。数分後には、全員が静かに眠りについた。
この麻酔薬は、俺が五年の歳月をかけて開発した特製品だった。通常の麻酔薬と違い、被検体の記憶に影響を与えない。目覚めた時に、手術を受けたことを覚えていないのだ。
さて。ここからが本題だ。
俺は一人一人の身体を詳細に検査していく。脈拍、血圧、反射神経──すべてを数値化し、記録していく。
エリシアが測定器具を手渡しながら、データを記録していく。彼女の手際は見事で、まるで外科手術のアシスタントのような正確性だった。
「一番、オプレッサー・ブラックハンマー。体重九十五キロ、身長一八五センチ。筋肉量は平均以上ですが……」
エリシアが首を振る。
「青晶核適合値、四百二十。基準値を下回っています」
予想通りだった。このタイプの男は、精神的に単純すぎて青晶核との共鳴が起こりにくい。
「こいつは……内臓に疾患あり。廃棄」
二番目の男は、明らかに肝臓に問題を抱えていた。皮膚が黄ばんでおり、腹部に腫れがある。手術に耐えられる体力はない。
「こいつは……骨格に異常。論外」
三番目は、脊椎に古い骨折の跡があった。おそらく落下事故か何かで負った怪我だろう。この状態では、青晶核を脊髄に埋め込むことができない。
次々に判定を下していく。残念ながら、今回の補充は"ハズレ"の部類だ。使える素材が一人もいない。
十二番目まで検査したが、条件を満たす者は皆無だった。年齢が高すぎる者、病気を抱えている者、精神的に安定しすぎている者──どれも実験には不適合だった。
「エリシア。あのゴロツキ、まぁマシだな。今回はこいつにするか」
消去法で選ぶしかない状況だった。オプレッサーは適合値が低いが、他があまりにも酷すぎる。
「ゼイド様、お待ちください。こちらを」
エリシアが、別の一体を指さした。
俺は踵を返しかけて──ふと、目に止まる素体があった。
ひときわ肉付きのよい体格。他と比べて皮膚の色つやも悪くない。骨格も整っている。この劣悪な環境にいながら、これだけの体格を維持しているということは、元々の体質が優秀なのだろう。
顔立ちも上品で、明らかに他の粗野な男たちとは出身が違う。服装も、ボロボロではあるが質の良い布地で仕立てられている。おそらく裕福な家庭の出身だろう。
「こいつは?」
「ティリオ・アヴェンハート。アヴェンハート家の長男です」
エリシアの視線が、ティリオの眠る姿をじっと見つめている。まるで慈しむような眼差しだ。単なる職業的関心を超えた、もっと個人的な感情が混じっている。
アヴェンハート──聞き覚えのある名前だった。確か、この街でも有数の商家だったはずだ。香辛料と織物を扱う中堅企業で、貴族との取引も多かった。
「……知り合いか?」
「は、はい。かつてお世話になった方の……ご子息です」
エリシアの声が、わずかに震える。
「アヴェンハート様には大変お世話になりました。私がまだ幼い頃、追っ手から守ってくださりました……」
なるほど、そういう繋がりか。
エリシアの過去について、俺は詳しくは聞いていない。だが、シルヴァン族が迫害された時代があったことは知っている。おそらくその時に、アヴェンハート家に助けられたのだろう。
だが、それは研究には関係ない。
「情実で検体を選ぶ気はない。この研究には祖父の名誉がかかっている。わかっているな?」
「承知しております。ですが、私情をはさんでおりません。この素体には光るものがございます」
エリシアの表情に、職業的な冷静さが戻る。彼女も研究者の端くれだ。感情に流されて判断を誤るようなことはない。
「理由を述べろ」
「他の検体と比較して、明らかに栄養が取れています。脂肪は多いですが、そこに潜在的な体力を感じます」
確かに──ただの肥満ではない。体幹に芯がある。骨格と筋肉の付着位置が理想的だ。
俺は彼の身体をより詳細に観察する。肩甲骨の動き、骨盤の安定性、脊椎のカーブ──すべてが教科書通りの理想的な構造をしている。
これほど完璧な骨格を持つ人間は、百人に一人もいない。まるで青晶核の埋め込みのために生まれてきたかのような身体だった。
「年齢は?」
「十八歳です」
「家族構成は?」
「母親と妹が一名。ただし、現在行方不明とのことです」
家族がいないわけではないが、行方不明なら問題ない。捜索される心配は少ないだろう。
「借金の総額は?」
「三万ゴールドです。アヴェンハート商店の倒産に伴う連帯保証債務です」
三万ゴールドとは、相当な額だった。準男爵である俺の年収の十倍に相当する。これだけの借金があれば、家族が彼を取り戻そうとしても不可能だろう。
「……まぁ、いい。今回はお前の顔を立てよう」
どのみち他が駄目すぎる。ティリオが最も"マシ"だ。
俺は、ティリオの生体データを読み取る。専用の測定器具を彼の身体に当て、青晶核適合度を測定していく。
この測定器は、俺が三年かけて開発した独自の機器だった。青晶核の微弱な共鳴波を利用して、対象の適合性を数値化することができる。
──そして、異常な数値が端末に現れた。
「……ん?」
青晶核の反応が突出している。
画面に踊る数値を見て、俺は息を呑んだ。通常の被検体なら300-400の範囲で推移する青晶核適合値が、なんと1,200を超えている。
俺は測定器の故障を疑い、もう一度測定し直す。だが、結果は同じだった。いや、二回目の測定では1,250という、さらに高い数値を示した。
さらに波形を細かくチェックする。脳波パターンは異常に安定し、筋反応速度は平均値の三倍、神経電位の伝達効率は四倍以上。
これは何だ? 突然変異か? それとも特殊な血筋なのか?
「……おいおい、これは……!」
手が震える。二十年の研究生活で、こんな数値は見たことがない。現段階での最高値である被検体二百四十二号の適合値は780だった。それでも当時は「奇跡的」と評価したのに、この少年は1,200超え。
理論上、精神共鳴装置との同調率は90%以上に達する可能性がある。
これならば、完全制御も夢ではない。遠隔操作の精度も格段に向上するはずだ。何より、長期間の制御にも耐えられる可能性が高い。
俺の心臓が激しく打っている。血管を駆け巡る興奮で、手の震えが止まらない。
これこそ、俺が長年探し求めていた完璧な被検体だ。
「エリシア、追加検査を行う」
「はい、どのような?」
「血液検査、遺伝子分析、脳波測定──可能な限り詳細なデータを取れ」
エリシアが手際よく検査を進めていく。採血、脳波計の装着、各種センサーの取り付け──まるで本格的な人間ドックのような検査体制だった。
血液検査の結果も驚異的だった。白血球数、赤血球数、血小板数──すべてが理想的な数値を示している。肝機能、腎機能、心機能──どれも完璧だった。
遺伝子分析では、さらに興味深い結果が出た。彼の遺伝子には、通常の人間にはない特殊な配列が含まれていた。これが青晶核との高い適合性の原因かもしれない。
「脳波パターンも異常です」
エリシアが脳波計のデータを指差す。
「通常なら、この状況下では恐怖や不安を示すベータ波が優勢になるはずですが……」
「どうなっている?」
「アルファ波が支配的です。まるで深い瞑想状態のような、非常に安定したパターンを示しています」
これは驚くべきことだった。見知らぬ場所で、見知らぬ人間に囲まれ、麻酔をかけられているにも関わらず、彼の精神は完全に平静を保っている。
俺は彼の顔をじっと見つめた。眠っている顔は穏やかで、まるで自宅のベッドで寝ているかのようだった。普通なら、多少なりとも緊張や不安が表情に現れるものだが、彼にはそれがない。
祖父様、見ていてください。ついに──ついに見つけました。あなたの理論を完璧に実証できる、究極の素材を。
「……エリシア」
「はい?」
「お前は正しかった。こいつを"被検体二百四十三号"に認定する」
「はっ!」
「残っている青晶核をすべて、こいつに集中投下する。プランBに移行だ」
プランBとは、俺が密かに準備していた最終計画だ。これまでの被検体は、あくまで予備実験に過ぎなかった。真の実験は、完璧な被検体を得てから始まる。
ティリオこそが、その完璧な被検体だ。
「必要な青晶核の数は?」
「三十個。最高品質のものを使用する」
「それだけの数となると……」
「金に糸目はつけるな。これまで蓄えた資金を全て投入してもいい」
三十個の最高品質青晶核。総額で五万ゴールドを超える投資になる。俺の全財産を注ぎ込むに等しい額だが、それだけの価値がある。
ティリオを通して、俺は世界を変えてみせる。この少年が、俺の復讐の完璧な道具となるのだ。
ついに最終段階か。
俺の計画は、ここからが本番となる。この少年を通して、俺は世界を変えてみせる。
愚物どもが「不可能」と決めつけた精神共鳴装置を、完璧に実現してみせる。祖父の無念を晴らし、真の知性の力を世界に思い知らせるのだ。
天才ゼイドラク・ディ・ヴェルミュールの名が、歴史に永遠に刻まれる日が──ついに来た。
俺は改めてティリオの寝顔を見つめた。まだあどけない少年の顔だが、やがてこの顔が世界を震撼させることになる。
君は知らないだろうが、君の運命は今日、この瞬間に決まったのだ。君は俺の最高傑作となり、同時に俺の復讐の剣となる。
そして、この腐りきった世界に真実を叩きつけるのだ。