第四話「怪物の誕生 ある審判の目撃」
今日もまた、日差しが焼けつくように熱かった。
俺は審判として二十年、この血塗れの劇場に立ち続けている。今日で何千回目の「はじめ!」を叫ぶことになるのか、もはや数える気にもならない。
二十年前、俺がこの職に就いた時は、まだ若さゆえの正義感があった。「公正な審判をして、闘士たちに平等な機会を与えよう」なんて、青臭いことを考えていた。
だが、現実は違った。
ここは娯楽施設であり、同時に巨大な金儲けの場でもある。観客が求めているのは公正な試合ではなく、血と暴力のスペクタクルだ。審判である俺の役割は、そのスペクタクルを演出することだった。
弱い闘士には不利な判定を下し、強い闘士には有利な裁定を行う。観客が喜ぶような「劇的な展開」を作り出すのが、俺の本当の仕事だった。
最初の頃は罪悪感に苛まれた。自分の判定一つで、人の生死が決まる。不公正な裁定で命を落とした闘士たちの顔が、夜な夜な夢に現れた。
だが、やがて慣れた。いや、慣れざるを得なかった。この仕事を辞めれば、俺には他に生活の糧がない。家族を養うためには、この血塗れの舞台で審判を続けるしかなかった。
妻のマーガレットは、俺の仕事について何も言わない。ただ、時々夜中に俺が魘されているのを心配そうに見つめている。息子のエドワードは大学で法学を学んでいるが、「父さんのような仕事はしたくない」と言った。
その言葉を聞いた時、正直なところ安堵した。息子には、俺のような人生を歩んでほしくない。
この仕事に誇りなんて無い。やりがいも無い。ただ、息子の学費のために続けているだけだ。あと三年我慢すれば、エドワードが大学を卒業する。
だが、今日は最悪だ。
観客席の最上段、特等席に黒光りする礼服が整然と並んでいる。政府高官たちの視察──つまり、今日は"見せ物"の日ということだ。ヴォルデュス評議員議長まで来ている。
高官たちが来ると、コロッセオの運営陣は異常なほど神経質になる。普段以上に「華やかな」演出を求められ、審判である俺にも厳しい注文が飛ぶ。
上司のクラウス主任は朝からぴりついていた。
「やれ席を整えろ、歓声を盛り上げろ、血の演出を派手にしろ」──小言が耳にこびりつく。
「今日は評議員議長もいらしている。少しでも不手際があれば、我々の首が飛ぶぞ」
クラウス主任の額には脂汗が浮いていた。五十代の小太りな男で、普段は威張り散らしているくせに、上からの圧力には極端に弱い。
「特に午後の部は重要だ。魔狼戦では、観客を十分に満足させるような演出をしろ」
「演出と言いますと?」
「決まっているだろう。恐怖、絶望、そして奇跡的な逆転。観客が手に汗握るような展開を作り出すんだ」
要するに、八百長をしろということだ。弱い闘士をある程度生き延びさせて、観客に希望を抱かせてから絶望に突き落とす。そういう「ドラマ」を演出しろという意味だった。
午後の部──本日のメインイベント。最も胸糞の悪い見世物が始まる。
G級闘士と魔狼の戦い。これほど一方的な虐殺も珍しい。普通なら三分で全員が血だまりになって終わりだ。
だが、今日は高官たちが見ている。それなりに「見応えのある」展開を作り出さなければならない。
俺は控室で闘士たちの顔を確認した。今日の「出演者」たちだ。
年配の男が一人──ガブリエル・フォスター。元盗賊で、左手を失っている。顔には深い絶望が刻まれていた。故郷に残してきた娘のことを、いつも話していた。「アリスはもう十六になる。俺がいない間に、きっと美しい女性に成長しただろう」と。
若い男が一人──トニー・ローレンス。村の反乱に巻き込まれて捕まった農民。まだ十八歳で、恋人の話をよくしていた。「アンナは俺を待っていてくれるだろうか。きっと他の男と結婚してしまったかもしれない」そんな不安を口にしていた。
松葉杖の男が一人──マルク・ヴェンダース。元軍人で、戦争で左足を失った。軍人としてのプライドは失っていないが、身体的なハンデは致命的だった。「軍人として、最後まで戦い抜く」それが彼の口癖だった。
そして……十九番、ティリオ・アヴェンハート。
俺は彼を見た瞬間、胸が痛んだ。息子のエドワードと同じくらいの年頃だった。小太りで筋肉質とは程遠い体型。丸い顔に人の良さそうな目。
彼の背景を知っていた。商家の息子で、家族の事業が失敗して借金の担保として売られてきた。戦闘経験はゼロ。おそらく喧嘩すらしたことがないだろう。
こんな少年を、魔狼の餌食にするのか。
だが、それが俺の仕事だった。感情を殺し、規則に従って試合を進行する。何人死のうが、それは「娯楽」の一部なのだ。
魔狼が解き放たれる。全長三メートルを超す異形。今日の個体は特に大きく、凶暴性も際立っている。
過去二十年間で見た魔狼の中でも、これほど大型の個体は珍しかった。普通の魔狼でも体長二メートル程度なのに、この個体は三メートルを軽く超えている。体重も三百キロを超えているだろう。
檻から放たれた瞬間、魔狼の放つ殺気が闘技場を支配した。観客席からも「おお……」という畏怖の声が聞こえてくる。
闘技場には、十数人のG級戦士が集められていた。皆、痩せこけ、絶望の色を目に宿している。とくに一人──十九番と呼ばれる少年ティリオの怯えようはひどかった。
支給された剣を持つ手も震え、とうとう取り落としてしまう。金属が石床に落ちる音が、静寂の中に響いた。
観客席から失笑と罵声が飛ぶ。
「十九番は一番に食われるな」
「あのガキ、剣も持てないのかよ」
「金を返せ!」
俺は審判として、規則通りに試合開始の合図をしなければならない。だが、足が重かった。
この合図をした瞬間、確実に何人かが死ぬ。おそらく全員が。その中には、息子と同じ年頃の少年も含まれている。
魔狼は鋭い嗅覚で、一瞬で十九番に狙いを定めた。恐怖の匂いを嗅ぎ取ったのだ。捕食者としての本能が、最も弱い獲物を選んだ。
俺は深呼吸をし、職務を果たすため口を開いた。
「はじめ!」
その一言で、地獄が始まる。
魔狼が地を蹴って突進する──そう思った、その時だった。
──十九番が、変わった。
それは一瞬の出来事だった。さっきまで恐怖で震えていた少年の身体から、急に震えが止まる。まるでスイッチが入ったかのように、その瞳から怯えの色が消え失せた。
代わりに宿ったのは、氷のように冷たい計算の光。
そして──軽やかに、しなやかに、魔狼の突進を──かわした。
……なに!?
信じられなかった。俺はこの仕事を二十年続けている。数千の戦士を見てきた。あの回避動作は、相当な訓練を積んだ者でなければできない。
いや、違う。もっと根本的に何かが違う。
あの動きには、人間離れした何かがある。まるで時間が止まったかのような、完璧すぎる動作。普通の人間なら、恐怖と興奮で動きが硬くなるはずなのに、彼の動作は機械のように正確だった。
動体視力、反応速度、身体の柔軟性──全てが常人を遥かに超えていた。まるで別人が彼の身体を操っているかのようだった。
魔狼は他の戦士たちに襲いかかる。少年たちが次々と喰われ、断末魔の叫びが空に消えていく。
ガブリエルは最後まで娘の名前を叫んでいた。「アリス……アリス……パパはお前を愛している……」血まみれになりながらも、愛する娘への想いを口にして絶命した。
トニーは恋人の名前を呼んでいた。「アンナ……俺を忘れないでくれ……」若い命が、愛する人への想いと共に散っていった。
マルクは軍人らしく、最後まで戦おうとした。松葉杖を武器にして魔狼に立ち向かったが、圧倒的な力の差の前に為す術がなかった。「国王陛下万歳……」それが元軍人の最後の言葉だった。
彼らの死を見ながら、俺の心は重くなった。皆、それぞれに大切な人がいて、帰りたい場所があった。それなのに、ここで無惨に殺されていく。
だが、十九番は違った。
彼は、その間に死体から肋骨を抜き取り、即席の武器を作った。死んだ仲間の胸を切り開き、まだ温かい肋骨を引き抜く。その手際は慣れたもので、一切の躊躇がない。
あんな発想、普通の人間には思いつかない。
何より──心が動いていない。
仲間が殺されても、血を浴びても、死体を切り刻んでも、目の奥には一片の揺らぎも無い。まるで日常的な作業をこなすかのような、淡々とした表情。
人形のようだ。いや──処刑人だ。
感情を殺し、ただ効率的に敵を殺すことだけを考えている。そこにあるのは少年の顔をした何か別の存在。
背筋に寒気が走る。二十年間、数え切れない戦士を見てきたが、こんな恐怖を感じたことはない。強さへの畏敬ではない。これは、人間ではないものへの原始的な恐怖だった。
隣にいたマルクス副審判も、同じことを感じているようだった。
「あれは……人間じゃない」
マルクスが小さく呟く。俺も同感だった。
四十代のベテラン副審判であるマルクスでさえ、震え声になっていた。彼も十五年間この仕事を続けており、あらゆる戦士を見てきた。そんな彼がここまで動揺するということは、やはり十九番は異常なのだ。
十九番は骨剣で魔狼の右目を一突きした。さらに前足、背、脚へと次々に突き刺していく。一撃一撃が的確で、魔狼の急所を狙っている。その動きは、まるで戦場を百度踏み越えた老練の戦士のようだった。
だが、彼はG級の新人闘士のはずだ。戦闘経験などあるはずがない。それなのに、なぜこれほど完璧な戦闘技術を披露できるのか。
観客席の反応も変わっていた。最初は「弱そうなガキ」を嘲笑していた観客たちが、今では息を呑んで見つめている。
「すげぇ……」
「あのガキ、本物だ……」
「魔狼を圧倒してる……」
政府高官たちも、身を乗り出して観戦していた。ヴォルデュス評議員議長の横にいるグラディウス将軍などは、「あの少年を軍で確保できないか」と側近に耳打ちしている。
魔狼が怯み、後退する。観客が総立ちになった。
なんだこれは。あのガキは、いったい何者だ?
やがて魔狼が咆哮しようとした瞬間、十九番は地面から石を掴み上げた。投石器のような正確な軌道で、魔狼の開かれた口腔へと投げ込む。
そして──
「くらいやがれぇえええっ!」
その叫びとともに、闘技場が震えた。
それは炎のような、雷のような、得体の知れないエネルギーの奔流だった。赤く、白く、青く輝く光の束が魔狼を包み、その皮膚を、筋肉を、内臓を、骨を、すべてを焼き尽くしていく。
気功……?
二十年、数え切れぬ自称"気功使い"を見てきた。詐欺師、山師、ペテン師……本物など一人もいなかった。
過去には「東方の拳法家」と称する男が現れたこともあった。「内なる気を操って敵を倒す」などと豪語していたが、結局は手品のような小細工で観客を騙していただけだった。
「気功の達人」を名乗る老人もいた。「手をかざすだけで相手を倒せる」と言っていたが、実際には仕込みの弟子との八百長芝居だった。
本物の気功など、この世に存在しないと思っていた。
だが、今、俺の目の前で──本物の"気"が魔狼を焼き殺している。
轟音が、コロッセオを揺らす。まるで天変地異だ。地面が震動し、観客席の石材がきしむ音が響く。
爆発の衝撃で、審判席の俺たちも後ろによろめいた。耳がキーンと鳴り、一時的に聴覚を失う。目も光の残像で真っ白になった。
しばらくして視界が戻ると、魔狼の姿はなかった。代わりに、焼け焦げた肉塊が転がっているだけだった。
静まり返る観客席。十九番が、魔狼の焦げた骸を見下ろしていた。
勝者は、ただ一人。
彼の周囲には、仲間たちの死体が散らばっている。血の海の中に立つ少年の姿は、まるで死神のようだった。
いや、死神以上の何かかもしれない。死神は死者を迎えに来るだけだが、この少年は生者を死に追いやる力を持っている。
あの少年は、間違いなく何かが違う。普通の人間ではない。
それでも俺には仕事がある。深呼吸し、声を張り上げる。
「勝者――十九番、ティリオ!」
地鳴りのような歓声がコロッセオを包んだ。観客の興奮は最高潮に達し、高官たちも立ち上がり、拍手を送っている。
だが、俺の心の中には、底知れぬ不安が渦巻いていた。
審判として二十年間この仕事を続けてきて、今日ほど恐ろしい思いをしたことはない。勝敗の結果に恐怖を感じるなど、初めての経験だった。
試合後、俺は控室に戻った。だが、震えが止まらなかった。コーヒーカップを持つ手が震えて、中身をこぼしてしまう。
マルクス副審判も同じ状態だった。
「あんなもの、見たことがない……」
「ああ……俺も同じだ」
二人とも、言葉少なだった。何を話しても、あの光景の衝撃を表現できない。
その夜、俺は家に帰ってから妻に言った。
「マーガレット、今日とんでもないものを見た」
「どんなことがあったの?」
「化け物だ。人間の姿をしているが、中身は化け物だった」
妻は心配そうに俺を見つめた。
「また悪い夢を見るんじゃない?」
「今夜は酒が必要だ。あの光景を忘れるために」
だが、どれだけ酒を飲んでも、あの少年の姿は頭から離れなかった。
あの少年は、この世界に何をもたらすのだろうか。
人間の皮を被った、得体の知れない化け物。感情も恐怖も持たない、完璧な殺戮機械。
二十年間この仕事を続けてきて、初めて──本当の恐怖を覚えた。
それは強者への畏敬ではない。人知を超越した何かへの、原始的な恐怖だった。
今夜は深酒になるだろう。できることなら、あの少年の記憶を酒で洗い流してしまいたい。
だが、忘れられるはずもない。
あの冷たい瞳を──俺は一生忘れることができないだろう。
そして、きっと他の観客たちも同じだ。今日この場にいた数千人が、同じ恐怖を抱いて眠りにつくはずだ。
ティリオ・アヴェンハート──その名前が、王国中に知れ渡るのは時間の問題だろう。
そして、その時世界は変わるのかもしれない。良い方向にか、悪い方向にかは分からないが。
俺はただの審判だ。歴史の流れを変える力はない。だが、歴史的瞬間の目撃者にはなった。
二十年後、人々は今日のことを何と呼ぶのだろうか。「魔狼殺しの誕生」か、それとも「怪物の覚醒」か。
どちらにしても、俺は決して忘れることはないだろう。
あの日、あの瞬間を。