第三話「視界良好」
ゼイドはラボのモニターを凝視していた。
闇に包まれた瞳が瞬きもせず、ディスプレイに映し出される映像を追う。そこには、青晶核を埋め込まれた被検体二百四十三号の視覚情報が、リアルタイムで投影されていた。
画面の解像度は驚くほど鮮明で、まるで自分がその場にいるかのような臨場感がある。青晶核を通じて送られてくる映像は、通常の人間の視覚を遥かに上回る精度を誇っていた。色彩はより鮮やかに、輪郭はより鮮明に、動きはよりスムーズに映し出されている。
地下三階の制御室は、最先端技術の粋を集めた要塞だった。壁一面に設置された五十台のモニターが、コロッセオの隅々まで監視している。音響システムは会話の最小音量まで拾い上げ、温度センサーは闘士たちの体温変化を感知する。
中央制御卓では、精神共鳴装置のメインシステムが低い唸りを上げながら稼働していた。巨大な円筒形の装置内部では、数百個の青晶核が複雑な幾何学模様を描きながら回転し、虹色の光を発している。
「被検体の現在位置は?」
隣の端末で、助手のエリシアが詳細なデータを監視している。彼女の白衣は汚れ一つなく、美しい銀髪が作業の集中を物語るように後ろで束ねられていた。
「コロッセオ地下二階、第三控室にいます。心拍数毎分七十八、血圧正常値。青晶核との同調率は現在九八・七パーセントです」
素晴らしい数値だった。これまでの被検体の中で、最高の適合性を示している。
「他の闘士たちの状況は?」
「全員、極度の恐怖状態にあります。特に十四番と二十一番は失禁を確認。十七番は嘔吐しています」
予想通りの反応だった。G級の奴隷闘士など、所詮はこの程度の精神力しか持たない。
闘技場は赤い砂と血で染まっている。中央には、すでに数十名の戦士が放り込まれていた。彼らの大半は、まともな訓練も受けぬまま肉壁として用意された、文字通りの"捨て駒"だ。
モニターを通して、一人一人の詳細なプロファイルを確認していく。
十四番、ガブリエル・フォスター。元盗賊、三十二歳。左手欠損により戦闘力大幅低下。推定生存時間三分。
十七番、マルク・ヴェンダース。元兵士、四十一歳。左足に重傷、松葉杖使用。戦闘経験はあるが身体的ハンデが致命的。推定生存時間五分。
二十一番、トニー・ローレンス。農民、十八歳。戦闘経験皆無、体力不足。推定生存時間一分。
ゼイドは冷静に各戦士の体格、武器、構えを分析していく。十七番は右肩が下がっている──古傷があるか、利き手を負傷している可能性が高い。二十一番は呼吸が浅く、明らかに体力不足。二十三番は武器の握り方が素人同然だ。
どれもこれも、使い物にならない雑魚ばかり。だが、それこそが狙いでもあった。他の闘士が足手まといになることなく、被検体二百四十三号の能力を純粋に測定できる。
「観客席の状況はどうだ?」
「満席です。特に貴賓席には、ヴォルデュス評議員をはじめとする政府高官が多数見えています」
エリシアがカメラの角度を調整し、観客席の映像を表示した。石造りの円形劇場に詰め込まれた数千人の観客が、血と暴力を求めて騒いでいる。
最上段の特等席には、紫の衣を纏った高官たちの姿があった。ヴォルデュス評議員議長の横には、軍事長官のグラディウス将軍、財務大臣のマーカス・ゴールドスミス卿の姿も見える。
「権力者どもが勢揃いしているな。今日の見世物を楽しみにしているらしい」
彼らは自分たちが、歴史的瞬間の目撃者になろうとしていることを知らない。今日、この場で精神共鳴装置が実証され、世界が変わる第一歩が刻まれるのだ。
「さて──主役の登場だな」
ゼイドが低く呟いた直後、地鳴りのような唸りが鳴り響いた。
魔狼が姿を現した。
巨大な影が、砂塵を巻き上げながら闘技場の端からにじり寄ってくる。全長三メートルを超す異形。両目は紅く爛々と輝き、理性という概念を欠いた、純粋なる殺意だけを宿している。
灰色の剛毛は鋼鉄のように硬く、鋭い爪は石をも砕く。牙は短剣のように尖り、その咬合力は人間の骨など容易く噛み砕くだろう。背中には古い戦いの傷跡が無数に刻まれ、この魔狼が多くの敵を屠ってきたことを物語っている。
観客席が一斉にどよめく。ゼイドのモニターには、魔狼の詳細なデータが表示されている。
「体重:約280キログラム。推定筋力:人間の平均値の十二倍。咬合力:一平方センチメートルあたり約500キログラム。移動速度:最大時速60キロメートル。推定知能:人間の八歳児相当」
エリシアが淡々とスペックを読み上げる。
これだけのスペックを持つ化け物を、通常のG級戦士が倒すことは不可能だ。過去の記録を見ても、魔狼戦での生存率は5パーセント以下。それも、運良く他の闘士の陰に隠れて生き延びた者がほとんどだった。
だが──俺の被検体は違う。
「精神共鳴装置、第一段階始動」
ゼイドの指が操作パネルを滑る。制御卓の青晶核が一斉に輝きを増し、被検体二百四十三号の脳に埋め込まれた青晶核群と共鳴を開始した。
モニター上で、被検体の脳波パターンが劇的に変化する。恐怖や混乱を示すシータ波が消失し、深い集中状態を示すアルファ波が支配的になった。心拍数は毎分七十八から六十二まで低下し、完璧な戦闘状態に移行していく。
その瞬間、被検体二百四十三号の表情が変わった。それまでの怯えた表情が嘘のように消え、氷のように冷たい眼差しに変わる。まるで経験豊富な戦士が宿ったかのような、計算された冷静さがそこにあった。
魔狼が唸り声を上げ、突進する。戦士の誰もが恐怖で震え、まともに動けずにいた。
第一段階:雑魚の排除
ゼイドは被検体を動かし、魔狼の攻撃を巧妙に避ける。他の闘士たちが次々と魔狼に食われていく中、被検体だけが冷静に立ち回っていた。
最初の犠牲者は十七番、マルクだった。松葉杖を振り上げて抵抗を試みるが、魔狼の前足の一撃で胸部を貫かれ、心臓を握り潰される。元軍人の誇りを最後まで保ったまま、彼は絶命した。
次に二十一番、トニーが頭部を噛み砕かれた。「かあちゃん」という最後の言葉と共に、若い農民の命が散った。脳漿が飛び散り、観客席から歓声が上がる。
十四番、ガブリエルは左手が欠損していたにも関わらず、右手一本で短剣を振るって健闘した。しかし、魔狼の巨体に押し倒され、全身を爪で引き裂かれて息絶えた。
「G級では話にならんな」
ゼイドは冷静に分析を重ねる。被検体二百四十三号の腕力は平均以下。与えられた剣は重量があり、まともに扱えない。ましてやこの魔狼の皮膚は、並の金属を弾く硬度を持っている。
だが、それでも勝つ方法はある。力で劣るなら、知恵で補えばいい。
第二段階:武器の調達
──では、どうするか。答えは決まっている。支給された剣を捨て、自分に合った武器を"創れ"。
「素材は……揃っている」
ゼイドの唇がゆっくりと吊り上がる。
魔狼に喰われた戦士の死体。その引き裂かれた胸から、白骨が露出している。骨は、使える。むしろ金属より軽く、しなりと弾力を併せ持つ格好の素材だ。
ゼイドはコンソールを操作し、被検体に指令を送る。戦術パターン「スカベンジ・モード」──死体からの武器調達プログラムの実行だ。
被検体二百四十三号が地を蹴る。まだ温かいガブリエルの死体に手を突っ込み、露出した肋骨を掴む。力任せにへし折ると、鋭利な先端が現れた。血と肉片にまみれた即席の骨剣。
観客席から驚嘆の声が上がる。
「あの少年、何をしている?」
「死体から武器を……?」
「狂気の沙汰だ」
「いや、待てよ。あれは……戦術か?」
狂気? いや、これこそが真の知性だ。
愚物どもには理解できまい。固定観念に縛られた連中が、創意工夫の価値を知るはずもない。重い金属の剣よりも、軽量で鋭利な骨の方が、この状況では遥かに有効なのだ。
「重い剣より、よほどマシだ」
第三段階:弱点への精密攻撃
ゼイドの脳内では、複雑な計算が瞬時に行われていく。魔狼の移動速度、攻撃パターン、反応時間、筋肉の動き──あらゆる要素を数値化し、最適な攻撃タイミングを算出する。
制御卓のスーパーコンピューターが、魔狼の行動パターンを解析している。過去の戦闘データ、生体力学的分析、攻撃予測──全てを統合した完璧な戦術が組み上げられていく。
狙いはただ一つ。魔狼の眼──唯一の弱点。
魔狼の皮膚は鋼鉄のように硬いが、眼球だけは柔らかい。そこに正確な一撃を加えることができれば、視覚を奪って戦況を有利に進められる。
魔狼が再び突進してくる。だが、被検体は恐れることなく真正面から駆け出した。
この行動に、観客席がどよめいた。
「正面から向かっていく!?」
「自殺行為だ!」
「いや、何か策があるのか?」
接触寸前、被検体が大きく跳び上がる。魔狼の開かれた顎の真上を通過しながら、骨剣を振り下ろす。白い刃が紅い瞳に向かって一直線に落下し──ぶずり、と鈍い音と共に右目の奥深くまで突き刺さった。
「がっぁあああああ!!」
魔狼が咆哮し、のたうち回る。右目から大量の血が流れ、視界の半分を失った獣が混乱に陥る。
完璧だ。
ゼイドの心臓が高鳴る。十年の研究、無数の実験、そして祖父から受け継いだ知識──その全てが結実した瞬間だった。
混乱した魔狼に、容赦なく攻撃が加えられる。前脚、後脚、胴、顔、喉──あらゆる箇所に、被検体の骨剣が突き立てられていく。
それは、もはや戦闘というより虐殺に近かった。一方的で、計算された、完璧な殺戮。魔狼の巨体が徐々に弱っていく様子が、リアルタイムでモニターに映し出される。
魔狼の悲鳴が高くなる。明らかに、怯えている。これまで圧倒的な力で獲物を蹂躙してきた捕食者が、初めて自分が狩られる立場になったのだ。
「逃げ腰になったな。……だが、逃がしてはつまらん」
第四段階:決定的な一撃
これはただのショーではない。被検体二百四十三号のデビュー戦であると同時に、ゼイドが描く"革命"のプロローグなのだ。観客に、そして世界に、絶対的な力の差を見せつけなければならない。
「派手にいこうか」
闘技場の地面には、昨夜のうちにゼイドが密かに仕込んでおいた擬装爆薬が転がっている。外見は普通の石だが、内部には強力な火薬が詰め込まれている。
この爆薬は、ゼイド自身が化学合成した特製品だった。硝酸カリウム、硫黄、木炭を基本に、威力を増すための添加剤を配合している。爆発力は火薬の三倍、しかし煙と光の演出効果を重視した配合になっている。
「エリシア、最終調整に移れ」
「かしこまりました。最終調整完了。問題ございません」
助手のエリシアが、隣の端末で状況ログを記録していた。彼女の手元には、爆薬の起爆装置が置かれている。
「よし。被検体専用、特殊設計。識別コード『D-843R』、起動」
ゼイドが端末を操作すると、被検体の視界に石の座標がマーキングされる。被検体はすぐにそれを拾い上げ、小さな安全ピンを抜いて、魔狼に向かって投擲した。
投擲の軌道は完璧だった。放物線を描いて飛ぶ石は、まるで誘導されるかのように魔狼の開いた口へと吸い込まれていく。魔狼は痛みと混乱で判断力を失っており、口に飛び込んできた異物を反射的に飲み込んでしまった。
「エリシア、カウントを」
「はっ。十、九、八……」
祖父様、見ていてください。あなたの教えが、今、花開きます。
ゼイドの脳裏に、祖父の最後の言葉がよみがえる。「いつか必ず……この世界に真実を知らしめよ」
「五、四、三……」
ゼイドはマイクのスイッチを入れた。その先の音声は、精神共鳴装置を通じて被検体の口から発せられる。
「……二、一、ゼロ」
「はぁあああ! くらいやがれぇえええ!!」
被検体の叫びが響いた直後──
轟音。
次の瞬間、魔狼の腹が内側から破裂した。肉片と血飛沫が高く舞い上がり、赤黒い煙が闘技場を覆う。爆発の衝撃で観客席の窓ガラスが震え、砂嵐のような粉塵が巻き起こった。
炎と煙の演出が、まるで魔法のような光景を作り出していた。被検体二百四十三号の周囲に立ち上る炎の柱は、まさに神々しいまでの威厳を醸し出している。
観客席は一瞬、凍りついたように静まり返る。時間が止まったかのような数秒後、ようやく歓声が爆発した。
「な、なんだ今のは!?」
「あの子供がやったのか!?」
「信じられない!」
「魔法だ! 魔法に違いない!」
愚か者どもが、必死に理屈をつけようとしている。
騒然とする観客の中で、「気功で内部破壊を行った」「古代の秘術だ」「神の力を借りたのだ」などという誤解が広まりつつある。真実を知らない連中が、自分たちの理解できる範囲で解釈しようと必死になっている様子が滑稽で仕方ない。
彼らは決して真実に辿り着くことはない。精神共鳴装置の存在も、遠隔操作の技術も、すべて彼らの理解を超越している。
貴賓席の高官たちも、同様に混乱していた。
「評議員議長、あれは一体……」
「わからん。だが、あの少年は只者ではない」
「軍で確保すべきではありませんか?」
「慎重に行動せよ。下手に刺激すれば、災いを招く」
権力者たちが、被検体二百四十三号に注目している。これで俺の駒は、確実に王国の中枢に知られることになった。
ゼイドはゆっくりとマイクに再度指を伸ばす。
祖父から教わった、ある言葉を思い出す。遠い異世界から来た知識の中で、特に印象深かった一言。勝利を収めた時の、痛快な決めセリフ。
「最後の締めだ。お祖父様に教わった、勝者の言葉を──」
少し、間を置く。闘技場全体が息を詰めて、次の言葉を待っている。
「燃えて死んだろ?」
煙が晴れた先には、大穴を開けた魔狼の死体が横たわっていた。
これが──革命の始まりだ。
ゼイドは薄く笑う。心の奥底で、達成感と復讐心が燃え上がっていた。十年の準備、無数の実験、そして今日の成功──全てが繋がった瞬間だった。
制御卓のモニターには、被検体二百四十三号の完璧な戦績が表示されていた。魔狼撃破、時間七分四十三秒、負傷なし。理論値を上回る圧倒的な成果だった。
さらに重要なのは、賭けの結果だった。一千ゴールドが一万ゴールドになって戻ってくる。この資金があれば、次の段階の実験に進むことができる。
「エリシア、被検体の状況は?」
「全身状態良好。筋肉疲労も軽微です。青晶核の同調率も安定しています」
完璧だった。精神共鳴装置は期待以上の性能を発揮し、被検体二百四十三号は俺の思い通りに動いた。
「よし……この革命、第一幕は上出来だ」
被検体二百四十三号が勝ち上がっていく。そして、世界が変わる。
愚物どもよ、これがほんの序章に過ぎないことを、やがて思い知ることになる。
紅蓮の炎で、この腐りきった国を焼き尽くす。真の知性が支配する新たな世界を築き上げる。祖父の無念を晴らし、世界に真実を知らしめる──その壮大な物語が、今、幕を開けた。
ゼイドラク・ディ・ヴェルミュールの名が、歴史に刻まれる日は近い。そして今日、その第一歩が確実に踏み出されたのだ。
制御室の奥で、祖父の肖像画が静かに微笑んでいるような気がした。