第一話「最底辺からの勝利」
朝の目覚め
——チュンチュン。
耳元で雀の鳴き声。目を開けると、木造の天井が視界に入った。ところどころに染みがあり、長年の風雨にさらされた痕跡を残している。木材は古く、節の部分が黒ずんで腐りかけている箇所もあった。
……知らない天井。けれど、生きている。
ゆっくりと身を起こすと、全身の関節がギシギシと音を立てる。左肩と右脇腹に鈍い痛み。右の拳は皮膚が剥がれ、赤く腫れ上がっている。焦げたような臭いが漂っていた。
火傷? なぜ?
拳を見つめながら困惑する。記憶にない傷がある。まるで何かを激しく殴ったかのような跡だった。だが、僕がそんなことをするはずがない。喧嘩なんてしたことがないのに。
あの巨大な魔狼と戦ったのなら、もっと重傷を負っているはずだ。全身が裂傷だらけになっていても不思議ではない。なのに、軽い打撲と拳の火傷程度で済んでいる。
身体を確認してみる。腕を動かし、足を曲げ伸ばし。筋肉痛はあるが、動作に支障はない。昨日までの自分の身体とは明らかに違う何かを感じる。説明のつかない違和感が、心の奥底でくすぶっている。
まるで、誰か別の人が僕の身体を使っていたかのような……。
どうして僕だけ生き残れたの?
ガブリエル、トニー、マルク……一緒に闘技場に立った仲間たちの顔が脳裏をよぎる。彼らは皆、僕よりも体格が良く、戦いの経験もあった。それなのに、全員が命を落とし、経験も実力もない僕だけが生き残った。
ガブリエルは元盗賊で、ナイフの扱いに長けていた。左手は欠損していたが、右手の技術は確かなものだった。「昔は結構名の通った盗賊だったんだぜ」と自慢していた男が、魔狼に敗れたのだ。
トニーは若かったが、村の自警団で訓練を受けていた。走ることも、力仕事も僕より遥かに上だった。彼が故郷の話をする時の生き生きとした表情を思い出す。「村に帰ったら、幼馴染みのアンナと結婚するんだ」そう言っていた少年が、もうこの世にはいない。
マルクは元軍人で、松葉杖をついていても戦闘の心得があった。「戦場で何度も死線を潜り抜けてきた」と語る彼の目には、生への強い意志があった。そんな歴戦の兵士でさえ、魔狼には敵わなかった。
なのに、なぜ僕だけが……?
記憶はあやふやだ。意識を失い、気が付けば魔狼と血に塗れた闘士たちの屍。そしてその中心に、僕だけが立っていた。
何かが間違っている。何かが、根本的におかしい。
身支度を整え、事務棟へ向かう。
部屋を出て廊下を歩き始めると、石造りの建物の重厚さを改めて感じた。壁には松明が点々と灯され、薄暗い通路を照らしている。空気はひんやりと冷たく、湿気を含んでいた。
廊下を歩いていると、すれ違う職員たちが僕を見て足を止め、慌てたように道を空ける。昨日までは透明人間同然だったのに。
清掃夫の老人が僕を見ると、手にしていたモップを取り落とした。金属製のバケツがガシャンと音を立てて床に転がる。
「あ、あの……失礼しました!」
慌てて頭を下げる老人の震え声。僕は何もしていないのに、なぜそんなに怯えるのだろう。
別の職員——配膳係の中年女性は、僕の姿を認めると壁に背中を押し付けるようにして道を開けた。その顔は蒼白で、まるで化け物でも見るような表情だった。
「……おはようございます」
挨拶をしてみたが、女性は小さく頷いただけで、僕が通り過ぎるまでじっと動かなかった。
門番の衛兵も同様だった。いつもは威圧的な態度を取っていた大男が、今日は僕に対して敬語を使った。
「おはようございます、ティリオ様」
様? 昨日まで「奴隷風情が」と罵っていた男が、なぜ敬語を使うのか。
何が起こったのか理解できないまま、事務棟に到着した。
「……あ、あの。すみません」
受付にいた女性職員に声をかけると、彼女はピクリと体を震わせた。
「ひっ……すぐに、担当をお呼びしますっ!」
まるで怪物でも見るような目で、慌てて奥へと消えていく。以前は「奴隷風情が」という言葉を浴びせていたのに、一夜にして何がこんなに変わったというのか。
待つ間、他の職員たちの会話が聞こえてくる。
「本当にあの子が……」
「魔狼を一撃で……」
「気功なんて本当にあったんだな」
「あの魔狼のサイズ、普通じゃなかったぞ」
「三メートル超えてた……あんなのに一人で勝つなんて」
どういうこと? 気功? 僕がそんなものを使えるはずがない。
職員たちの話を聞いていると、昨夜の魔狼は特別大きな個体だったらしい。通常の魔狼でも二メートル程度なのに、あの個体は三メートルを超える巨大なものだったという。
「あんなバケモノ、普通なら闘士が十人がかりでも勝てるかどうか……」
「それを一人で、しかも素手で……」
素手? 確か剣を支給されていたはずだが……。
数分後、ドスンドスンと重い足音が近づいてきた。
現れたのは、あの男——僕を奴隷として売った張本人、ガロンだった。
筋骨隆々、二メートルを超える体躯。顔には無数の傷跡があり、鼻は一度折れて曲がっている。移送中の馬車では僕を殴る蹴るの暴行を加え、「てめぇみたいなガキが生意気な口を利くな」「大人しく死んで来い」と罵声を浴びせた男。
だが、今日の彼は明らかに様子が違った。
「お前、生きてたのか? もしかして……出場すらさせてもらえなかったか?」
ガロンの口元には、いつものような残酷な笑みが浮かんでいる。きっと僕が惨めに試合から逃げたとでも思っているのだろう。
「はは……」
愛想笑いで返すしかなかった。なにせ自分でも昨夜の出来事がわからないのに。
「それより職長様はまだか? こっちは何時間も待ってんだぞ!」
ガロンは苛立ちを隠そうともせず、受付のテーブルを拳で叩いた。重厚な木製テーブルがギシギシと軋む音が響く。
その時——空気が変わった。
廊下の向こうから、複数の足音が規則正しく響いてくる。軍靴の音。
「ティリオ様、お待たせしました!」
現れたのは、職長と呼ばれる男だった。五十代前半、高価そうな服を身に纏い、指には宝石のついた指輪を複数はめている。コロッセオの責任者。
彼は息を切らせながら現れ、深々と頭を下げた。昨日までの横柄な態度は微塵もない。
その背後には、護衛の兵士たち。鎧に身を包んだ屈強な男たちが六人。彼らの視線は僕に向けられているが、敵意ではなく、むしろ畏敬の念のようなものを感じる。
昨日まで職長は、僕のことを「小僧」とか「ガキ」と呼んでいたのに。
「昨日のご活躍、拝見いたしました。まさに……伝説級の一撃」
職長の言葉には、明らかな敬意が込められていた。
「は? ……こいつが、伝説?」
ガロンが嘲るように言った瞬間、職長の拳が男の顔面を打ち抜いた。
「へぶっ!?」
鈍い音と共に、ガロンの巨体がよろめく。鼻から血が流れ始めた。
「愚か者……ティリオ様に不敬な!」
職長の声は氷のように冷たかった。普段は商売人らしい愛想の良い笑みを浮かべている男が、今は完全に別人のような表情をしている。
「この男の言は虚偽。我らを惑わせ、ティリオ様を侮らせた大罪人です」
あっという間にガロンは兵士たちに取り押さえられ、地面にたたきつけられた。
「て、てめぇら、何を……! こいつはマジでただのガキだって!」
ガロンの声は震えていた。今まで僕を見下していた男が、今度は自分が見下される立場になっている。
「『ただのガキ』がどうやって、あの巨大魔狼を素手で倒せるのか説明してもらおうか」
職長の声は静かだったが、その中に込められた怒りは恐ろしかった。
「嘘だ! そんなはずねぇ! 俺は何度もこいつを殴った。弱っちい反応しかしなかった!」
ガロンが必死に叫ぶが、兵士たちの表情は変わらない。
「……黙れ」
兵士が無言で殴りつける。金属製の篭手をはめた拳が、ガロンの腹部に深く沈み込んだ。
「うぐっ……!」
僕は立ちすくんでいた。
同情はあった。ガロンは確かに僕を酷く扱ったが、それでもここまでの暴力を受けるほどの事をしたとは思えない。でも、助けるべきなのか? この男は僕を散々痛めつけ、侮辱してきた。それでも、この光景を見ていると胸が痛む。
けれど、それを言える空気ではなかった。この場の全員が、僕を何か特別な存在として扱っている。その認識を覆すような事を言えば、状況がどう変わるか分からない。
結局、僕は何も言えずにいた。自分の臆病さに嫌悪感を覚えながら。
ガロンは血を吐き、歯を砕かれ、呻き声すらあげられなくなった。やがて、兵士たちに引きずられるようにして姿を消した。血痕だけが床に残されていた。
その光景を見ながら、僕は改めて理解した。昨夜、何か信じられないことが起こったのだ。僕自身には記憶がないが、周りの人々の反応を見れば明らかだった。
「ティリオ様、こやつは念入りに処罰いたします。どうか、ご容赦を」
職長が深々と頭を下げる。
「あ、はい……」
僕の声は震えていた。
部屋の中に、重苦しい沈黙が流れる。僕は状況があまりにも急変しすぎて、頭がついていかない。昨日まで虫けら同然に扱われていたのに、今は「様」付けで呼ばれ、護衛まで付けられている。
これが、強者として扱われるということなのか。
力を持つ者は敬われ、持たない者は踏みにじられる。ガロンが僕にしたことを、今度は彼が受けている。この世界の残酷な法則を、僕は身をもって理解した。
「これからの予定を説明させていただきます」
職長が口を開く。その声には、申し訳なさそうな調子が含まれていた。
「数日後、ティリオ様には《F級訓練施設》への入所が命じられております」
「F級訓練施設?」
「F級とは最下層の闘士階級です。そこで結果を残せば、E級へ昇格できます。ティリオ様のご実力なら最終的には、A級の頂点である『闘技王』の座も夢ではありません」
職長の説明によれば、闘士階級はF級からS級まで存在し、月に一度の昇格試験で上位階級に進める。だが、失敗すれば……死だ。
「各階級について詳しく説明いたします」
職長が資料を取り出した。
F級は最底辺の階級で、まともな装備も与えられず、食事も粗末なものしか支給されません。多くの闘士がそこで絶望し、命を落としていきます。
E級になりますと、個室が与えられ、食事も改善されます。武器や防具も質の良いものが支給されます。
D級では専属の訓練師がつき、本格的な戦闘訓練を受けることができます。月給も支給されるようになります。
C級は『一流闘士』と呼ばれる階級です。豪華な個室、上質な食事、最高級の装備が与えられます。貴族の接待試合にも呼ばれるようになります。
B級になりますと『英雄級闘士』として王国全土にその名が知られるようになります。領主クラスの貴族との面会も可能です。
A級は『闘技王』と呼ばれ、王国で最も尊敬される闘士です。国王陛下との謁見も許され、年俸は貴族並みとなります。
最高位のS級……『皇帝級闘士』は伝説的存在です。過去五十年間で、S級に到達したのはわずか三名。そのうち二名は既に引退され、現在S級にいるのは『雷帝』ガルデニウス一人のみです。
職長の説明を聞きながら、僕は途方もない世界に足を踏み入れたことを実感した。F級からS級まで、まるで雲の上のような階級差がある。
「ティリオ様はいずれはA級に昇格されるでしょう。闘技王になられた際は、ぜひ私どもにもご配慮を」
媚びた笑みと共に、職長は手を擦り合わせた。きっと僕を使って何らかの利益を得ようと考えているのだろう。
どうやって?
心の中でつぶやく。ここに来るまで喧嘩もしたことがなかった僕に、どうしろと?
でも、魔狼を倒したのは事実だ。どんな方法であれ、僕は生き残った。その事実だけが、今の僕を支えている。
「ところで、昨夜の戦いについて、もう少し詳しく教えていただけませんか?」
職長が興味深そうに身を乗り出した。
「実は、観客席からの目撃証言がいくつかありまして……」
職長が話してくれた内容は、僕自身が知らない「僕の活躍」だった。
魔狼と対峙した時、僕は最初確かに恐怖で震えていたらしい。他の闘士たちと同じように、武器を持つ手も震えていた。
しかし、魔狼が最初の攻撃を仕掛けた瞬間、僕の動きが激変したという。
「観客席にいた元軍人の証言によりますと、あなたの動きは『達人級の武術』だったそうです。長年の修行を積んだ者でなければできない技だと」
達人級の武術……僕が?
職長の話を聞けば聞くほど、昨夜の出来事が信じられなくなってくる。僕がそんなことをしたなんて、夢のような話だ。
「他の闘士たちはどうなったのですか?」
「残念ながら、全員お亡くなりになりました。魔狼の攻撃で致命傷を負われ……」
職長の表情が暗くなる。
「ガブリエル殿は頭部を、トニー殿は胸部を、マルク殿は左腕を失い、失血死されました」
仲間たちの死を改めて聞かされ、胸が重くなる。なぜ僕だけが……なぜ僕だけが無傷で生き残れたのか。
「彼らは最後まで勇敢に戦われました。特にマルク殿は、松葉杖を武器にして最後まで抵抗されたそうです」
マルクの最期を想像すると、涙が込み上げてきた。故郷の家族を想いながら、彼は何を思って戦ったのだろう。
「ティリオ様のおかげで、彼らの死は無駄になりませんでした。あなたが魔狼を倒したことで、彼らの敵討ちができたのです」
敵討ち……そう言われても、僕には何の実感もない。記憶がないのだから。
でも、職長の話を聞いて一つだけ分かったことがある。昨夜、確実に何かが起こった。僕の中で、あるいは僕に対して、常識では説明のつかない何かが。
それが何なのかは分からない。でも、その結果として僕は生き残り、新しい人生を歩むことになった。
この先何が待っているのか分からないが、生きている限りは前に進むしかない。母さんとセリアに再び会うために。そして、昨夜の謎を解くために。
これから待ち受ける試練が何であれ、僕は生き抜いてみせる。母さんとセリアに再び会うために。そして、昨夜の謎を解くために。
なぜ僕だけが生き残れたのか——その答えを見つけるまで。
職長との面談を終え、僕は新しい宿舎へと向かった。F級訓練施設——そこが僕の新しい住処となる。
廊下を歩きながら、職員たちの視線を感じる。皆、僕を見る目が変わっていた。昨日までの軽蔑や無関心ではなく、畏敬と好奇心の入り混じった眼差し。
僕は本当に変わったのだろうか。外見は相変わらず小太りで、頼りない体型だ。でも、周りの人々の反応を見る限り、何かが根本的に変わったのは間違いない。
これから始まる新しい生活。F級から始まって、いつかは上位階級を目指すことになるのだろう。でも、僕にそんなことができるのだろうか。
記憶のない勝利に支えられながら、僕は不安と希望を胸に、新たな段階へと足を向けた。真実が何であれ、生きて行かなければならない。それが、今の僕にできる唯一のことだった。