第十四話「医療室の秘密」
医療室の扉をノックすると、中から低く落ち着いた声が響いた。
「入りなさい」
扉を開けて中に入ると、清潔な白い空間が広がっていた。石造りの壁には医療器具が整然と並び、薬品の棚が規則正しく配置されている。消毒薬の匂いが鼻を突き、ここだけが施設の他の部分とは別世界のように感じられた。
白衣を着た青年が振り返った。端正で美しい顔立ちに眼鏡をかけており、その瞳には深い知性が宿っている。穏やかな微笑を浮かべていて、どこか上品で洗練された印象を受けた。年齢は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。
「私はDr.ゼイド、この施設の医師だ」
その声は温かく、安心感を与えてくれる響きだった。今朝から続いている混乱の中で、ようやく信頼できそうな大人に出会えた気がした。
「ゼイド様、よろしくお願いします」
緊張しながら挨拶をする。Dr.ゼイドは微笑みを深めた。
「そんなに畏まらなくてもいい。Dr.ゼイドでいいよ。さあ、診察台に横になって。身体の調子を診てみよう」
促されて診察台に横になる。清潔な白いシーツの感触が心地よい。Dr.ゼイドが聴診器を当て、血圧を測る。いかにも医師らしい手慣れた動作で、その手つきからは豊富な経験と確かな技術が感じられた。
「心拍数、正常。血圧も問題なし。呼吸音も清明だ」
専門的な検査を続けながら、Dr.ゼイドが丁寧に説明してくれる。
「筋肉の発達状況も良好だ。最近、急激に体型が変わったようだが、健康上は何の問題もない」
体型の変化まで見抜かれていることに驚いた。さすがは医師だ。
「健康状態は良好だ。何か気になることはないかい?」
Dr.ゼイドの優しい問いかけに、僕は相談する良い機会だと思った。この混乱した状況について、きっと医学的な説明をしてくれるはずだ。
「実は……記憶のことで悩んでいるんです」
「記憶? どんな風に?」
Dr.ゼイドが真剣な表情で身を乗り出す。その眼差しには、患者を心配する医師としての誠実さが宿っていた。
「時々、記憶が飛ぶことがあるんです。昨夜も、途中から覚えていなくて……朝起きたら、何もかもが変わっていました」
Dr.ゼイドが顎に手を当てて考え込む。その表情は思慮深く、何か重要なことを検討しているようだった。
「なるほど。それは心配だね。他にも症状はあるかい?」
「時々、激しい頭痛があります。それと、起きた時に体中が筋肉痛になっていることも……まるで激しい運動をした後のような」
これらの症状について話すと、Dr.ゼイドの表情がさらに真剣になった。まるで何かの病気を疑っているかのように、慎重に言葉を選んでいる。
「記憶がないということ、他の人には話したかい?」
「いえ、Dr.ゼイドが初めてです」
正直に答えると、Dr.ゼイドが安堵したような表情を見せた。
「それなら、他の人には黙っていた方がいい。この施設では、少しでも異常があると弱者と見なされる。君の立場が悪くなる可能性がある」
その忠告は理にかなっていた。確かに、記憶喪失などという弱点を他の闘士たちに知られたら、どんな目に遭うかわからない。
Dr.ゼイドが立ち上がり、扉に鍵をかけた。そして窓のブラインドを下ろす。部屋が薄暗くなり、より秘密めいた雰囲気になった。
「実はね……君の記憶喪失には、理由があるんだ」
Dr.ゼイドが壁際の棚から小瓶を取り出した。淡い緑色の液体が入っている。瓶を光にかざすと、液体が微かに光っているように見えた。
「これは何ですか?」
「君にはある特殊な薬を服用させていた。魔狼が本能的に嫌がる匂いを発する薬だ」
魔狼を嫌がらせる薬? そんなものが存在するなんて信じられない。
「そんな薬が……」
「ただし、まだ研究中の不完全な薬でね。副作用として意識混濁を引き起こす。さらに、筋肉を無意識に緊張させる作用もあるんだ」
Dr.ゼイドの説明は論理的で説得力があった。科学的な根拠に基づいた説明に、僕は安堵のため息をついた。
「それで朝起きた時に筋肉痛が……」
「その通りだ。君の身体は薬の作用で無意識に筋肉を動かし続けていた。それが筋肉痛の原因だ」
なるほど、それで説明がつく。記憶がないのも、体の変化も、全て薬の副作用だったのか。
「どうりで、ところどころ記憶がないわけです……」
「申し訳ない。不完全な薬を使ってしまって……」
Dr.ゼイドが申し訳なさそうに頭を下げた。その姿勢からは、医師としての責任感と患者への配慮が感じられる。
「いえいえ、そんな! あのままだったら、僕は魔狼に食い殺されて死んでいました。Dr.ゼイドが助けてくださったおかげで、こうして生きています」
心からの感謝を込めて言うと、Dr.ゼイドの表情が少し和らいだ。
「君は……本当に優しい子だ。医師として、こんなに理解のある患者に出会えて嬉しい」
Dr.ゼイドが別の小瓶を手に取った。今度は透明な液体が入っている。
「あと君が魔狼を倒せたのには理由がある。私は事前に魔狼に毒薬を飲ませていたんだ」
「毒薬を……?」
「遅行性の毒薬でね。戦闘開始のタイミングに合わせて効果が現れるよう計算していた」
複雑な気持ちになった。やはり自分の力で勝ったわけではなかったのだ。でも、それでもDr.ゼイドが僕を助けてくれたという事実に変わりはない。
「それだけではない。離れた場所から投石で支援もさせていたんだ」
「そんな人が……」
胸が熱くなった。自分を守るために、そこまでしてくれる人がいるなんて。
「なぜ僕なんかを……」
「君は父君のことをよく覚えているかい? アヴェンハート氏のことを」
父の名前を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。父の温かい笑顔、優しい声、大きな手。すべてが鮮明に蘇ってくる。
「はい……父のことは、いつも思い出しています」
「立派な人だった。多くの人を助け、正義を貫いた商人だった。私も、父君には恩がある」
Dr.ゼイドの目に、深い敬意の色が浮かんだ。
「だから、息子である君を見殺しにするわけにはいかなかった」
「父に恩が……?」
父がこんなところまで影響を与えていたなんて。改めて、父の偉大さを感じる。
「ただし、これは重大な問題でもある。コロッセオの戦いに外部から介入することは重罪なんだ。それでも、君を見殺しにはできなかった……」
Dr.ゼイドの表情が曇った。自分を助けるために、Dr.ゼイドが重大なリスクを冒してくれたのだ。
「あの……皆が僕が部屋長やヴァルクを殺したって言うんですが……僕、本当にそんなことをしたんでしょうか?」
この質問が一番気になっていた。周囲の人々の反応を見る限り、何か恐ろしいことが起こったようだが、記憶にないのが不安だった。
「ティリオ君、君は誰も殺していない」
「え?」
この言葉に、僕は心の底から安堵した。やはり僕は人殺しなんかじゃない。安心感が全身に広がっていく。
「私が協力者をあの部屋に送り込んでいたんだ。君を救うために、襲撃者たちを排除した」
「協力者……?」
「私の協力者がこっそり君を監視していた。君の身に危険が及ばないよう、常に見守っていたんだ」
なるほど、それで僕は無事だったのか。Dr.ゼイドの周到な計画に感謝の気持ちでいっぱいになる。
Dr.ゼイドが別の小瓶を取り出した。今度は白い粉末が入っている。
「意識を朦朧とさせる薬だ。その効果で、現場にいた者たちの記憶が曖昧になった」
「それで……」
「ネズ君にとって、部屋に侵入者が入ってくるなど考えられない。部屋長と対立していたのは君だから、当然君が倒したと思った」
安堵のため息をついた。全ての謎が解けていく。
「そうだったんですか……僕は誰も殺していない……」
「そうだ。君の手は汚れていない」
その時、扉がそっとノックされた。
「失礼します」
扉が開き、白衣を着た若い女性が現れた。美しい顔立ちだが、どこか悲しげな表情を浮かべている。銀色の髪を後ろで結んでおり、瞳には深い知性と優しさが宿っていた。
「こちらは私の助手のエリシアだ」
Dr.ゼイドが彼女を紹介した。
エリシアの顔をじっと見つめた。どこかで会ったような気がする。その整った顔立ちと悲しげな瞳に、懐かしさを感じるのはなぜだろう。
「ティリオ、久しぶりね」
エリシアが深々と頭を下げる。その声には、長い間の感謝と懐かしさが込められていた。
「あの……どこかでお会いしたことが……」
記憶の奥で何かが蠢いている。大切な何かを忘れているような感覚に襲われる。
エリシアが震える声で話し始めた。
「覚えていますか? 雨の降る夜のことを……私はシルヴァン族の血を引いていて……昔、王命によって一族が狩られていた時期がありました」
シルヴァン族? その名前を聞いた瞬間、記憶の断片が蘇り始めた。雨音、恐怖に震える影、茂みの隙間から見えた小さな顔。
エリシアの目に涙が浮かんだ。
「廃屋に隠れていた時、ティリオが茂みの隙間から私たちを見つけてくれた」
その瞬間、記憶が鮮明に蘇った。雨の音、母親を守ろうとする女の子、そして恐怖に震える二つの影。
「あ……!君は、あの時の……!」
心の中で、全ての記憶が繋がった。あの雨の夜、森の中で出会った母子。僕が父のところへ駆け寄って助けを求めた。
「はい。ティリオはお父様のところへ駆け寄って『助けてあげて』と言ってくれたね」
心に、父の温かい笑顔が浮かんだ。父の優しい声が聞こえてくるような気がする。
「覚えてる……!父さんが『よし。すぐに毛布を持っていこう』って……」
「そう! 温かいスープを……」
当時の記憶が鮮明に戻ってきた。あの夜の温かさ、家族の優しさ、そして見知らぬ人を助けることの大切さ。父が教えてくれた人としての在り方。
「エリシア……君だったんだ。あの時の女の子は……」
目に涙を浮かべた。まさか、あの時助けた女の子と再び会えるなんて。世界は本当に狭い。そして、人と人との繋がりは、時を超えて続いているのだ。
「もしあの時、ティリオとお父様がいなければ、私も母もあの場で殺されていました」
エリシアの声が震えている。その言葉から、あの夜がいかに危険だったか、僕たちの行動がいかに重要だったかが伝わってくる。
「だから僕を……」
「はい。ゼイド様にお願いしたのよ。ティリオを守ってくださいって。あの時の恩返しをさせてくださいって」
Dr.ゼイドが頷いた。
「エリシアの頼みだからな。それに、君の父君は立派な人だった。その息子を見殺しにはできない」
胸が熱くなった。父の行いが、こんな形で僕を救ってくれるなんて。
「ありがとう、エリシアさん……本当に、ありがとう」
心からの感謝を込めて言うと、エリシアが微笑んだ。涙に濡れた顔だったが、その笑顔は美しかった。
「こちらこそ、ティリオ。やっと、恩返しができるわ」
しかし、Dr.ゼイドの表情が真剣になった。
「ティリオ君、もう一つお願いがある」
「なんでしょうか?」
Dr.ゼイドが立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら考えている。何か重要なことを伝えようとしているようだ。
「君には、強者のふりを続けてもらいたい」
「強者のふり……?」
強者のふり? 僕が? そんなことができるだろうか。
「まず、君自身を守るためでもある。弱者だとばれれば、皆からリンチに遭うだろう」
確かに、その通りだった。今朝の食堂での扱いを思い出す。皆が僕を恐れ、敬っていた。もしあれが偽りだとばれたら……
「そして……実は強くないとばれてしまうと、誰かが君を手助けしたということになる。そうなれば、その『誰か』を探し出そうとする者が現れるだろう」
「それは……」
なるほど、そういうことか。僕が弱いとばれれば、必然的にDr.ゼイドの存在が疑われることになる。
「もし詮索が進めば、最終的に私とエリシアに辿り着く可能性がある」
Dr.ゼイドがエリシアの方を見た。彼女の顔に不安の色が浮かんでいる。
「エリシアには重罪を負わせたくない」
エリシアを見た。彼女の目に不安の色が浮かんでいる。あの時助けてくれた恩人を、僕のせいで危険にさらすわけにはいかない。
僕の心は決まった。エリシアを守らなければ。Dr.ゼイドも。
「わかりました。僕にできることなら」
「ありがとう、ティリオ君。もし誰かに戦闘のことを聞かれたら、『そうだ、俺がやった』と答えてくれ」
「そうだ、俺がやった……」
その言葉を練習してみる。少し違和感があるが、演技だと思えばできそうだ。
「そう。どんなに非道な行いを聞かれても、君がやったと認めてほしい」
少し戸惑った。非道な行い? 一体どんなことが起こっていたのだろう。
「でも、実際にはDr.ゼイドの協力者が……」
「それでいいんだ」
Dr.ゼイドの表情が厳しくなった。
「君が認めることで、詮索は止まる。そして、私たちも安全でいられる」
弱い僕を守るために、これほど多くのリスクを背負ってくれている。今度は僕が、彼らを守る番だ。
「わかりました。Dr.ゼイドとエリシアさんを守るために、僕にできることはします」
「ありがとう」
Dr.ゼイドは満足そうに頷いた。エリシアも安堵の表情を見せた。
自分を命がけで守ってくれた人たちのためなら、このくらいのことはできる。演技は苦手だが、大切な人たちを守るためなら頑張れる。
「ただし、演技は慎重にな。あまり大げさにやると、かえって不自然になる」
「はい、気をつけます」
Dr.ゼイドが最後に一つの小瓶を取り出した。
「これは痛み止めだ。筋肉痛がひどい時に飲むといい」
「ありがとうございます」
小瓶を受け取ると、Dr.ゼイドとエリシアが微笑んだ。
「それでは、診察は終了だ。何かあったら、いつでも相談しに来なさい」
「はい、Dr.ゼイド」
医療室を出る前に、もう一度振り返った。Dr.ゼイドとエリシア、二人の恩人が僕を見守ってくれている。
この人たちを裏切ることはできない。絶対に守り抜いてみせる。
廊下に出ると、相変わらず人々の視線が僕に注がれていた。でも今度は、その視線の意味がわかる。皆、僕を恐れ、敬っているのだ。
この演技を続けなければならない。Dr.ゼイドとエリシアのために。そして、自分自身を守るために。
演技は得意ではないが、やってみせる。大切な人たちを守るために。