第十三話「逆転の朝」
いつの間にか気絶をしていた。
重いまぶたを開けると、見慣れた天井が視界に入った。だが、何かが違う。体の下に、柔らかな感触がある。いつもなら硬い床に雑巾のような薄い布を敷いて寝ているはずなのに。
慌てて体を起こそうとした瞬間──
「痛っ……」
激しい筋肉痛が全身を襲った。腕、足、背中、腹筋──まるで激しい運動をした後のような痛みが体の至る所に走る。特に右腕と左足の筋肉が焼けるように痛い。
「なんで……こんなに……」
ゆっくりと体を起こしながら、状況を把握した。僕は──ベッドの上にいた。しかも、ふかふかのマットレスに、上等な毛布と掛け布団までかけられている。部屋の隅に押しやられていた粗末な寝具とは比べ物にならない豪華さだった。
「どうして……?」
混乱しながら辺りを見回す。いつもなら床に雑魚寝している他の囚人──いや、F級の闘士候補生たちの姿が見えない。彼らの寝具も、どこにも見当たらなかった。
まるで、この部屋が最初から僕一人のもののように整理されている。
昨日の記憶を辿ろうとした。確か、いつものように食事を取り上げられて、部屋長達が僕を襲おうとして……その後は、曖昧だった。激しい頭痛と共に意識が遠のいて、気がつくとこの有様だ。
なぜこれほどの筋肉痛が? そして、なぜこんな豪華な寝具で寝ているのか? 手のひらには、握りこぶしを作った時の爪跡が残っている。でも、僕は昨夜、拳を握り締めるような場面があっただろうか?
ふと、水差しの横にある小さな鏡に目が留まった。
「えっ……」
鏡に映る自分の姿に、僕は息を呑んだ。顔が……引き締まっている。頬の肉が落ち、顎のラインがはっきりしている。そして、首や肩の筋肉が以前よりもずっとしっかりしているのが分かる。
慌てて服をめくり上げて体を確認した。腹筋の輪郭が浮かび上がっている。二の腕も太くなっている。これは……一体いつの間に? たった数日で、こんなに体型が変わるものだろうか?
「夢……だったのかな?」
そう呟いてみたが、体に残る疲労感も、この変化した体も、紛れもなく現実のものだった。でも、あの地獄のような状況が一夜にして変わるなんて、そんなことがあるだろうか。
腹の虫が鳴った。そういえば、またしても夕食を抜かれていた。もう何日も満足に食事ができていない。今頃になって空腹が襲ってくる。
「食堂に……行ってみよう」
恐る恐る立ち上がる。足取りは重く、筋肉痛で体がふらつく。まだ完全に回復していない体に加えて、この原因不明の筋肉痛が動作を鈍らせていた。それでも、このまま部屋にいても答えは見つからない。
扉を開け、廊下に足を向けた。朝の光が石造りの窓から差し込み、埃っぽい空気を照らしている。いつもと同じ風景のはずなのに、今日は何かが違って見えた。
食堂へ向かう廊下で、すれ違う闘士候補生たちの反応が明らかにおかしかった。
「あ……」
「ティリオ様……」
皆、僕を見ると慌てたように道を開ける。昨日まで僕を見下していた連中が、今は怯えるような、それでいて畏敬の念を込めるような眼差しを向けてくる。
特に印象的だったのは、エリック──いつも僕をからかってきた背の高い男だった。彼は僕と目が合うと、血の気が引いた顔で壁に張り付くように身を寄せた。
「お、おはようございます……」
震え声でそう言われて、僕はますます混乱した。彼の声には明らかな恐怖が混じっている。昨日まで「腰抜け坊ちゃん」と呼んでからかっていた男が、今では僕を見ただけで震えている。
別の男──確かブルースという名前だったと思うが、彼は僕の姿を見るなり慌てて別の通路へ逃げ込んでしまった。
「待って、ブルース!」
声をかけようとしたが、彼の足音は遠ざかっていくばかりだった。まるで疫病神でも見るかのように、皆が僕を避けている。
廊下の向こうからは、ひそひそ声が聞こえてくる。
「あれがティリオか……」
「昨夜のは本当だったんだな……」
「部屋長たちを全員……」
その先は聞こえなかったが、明らかに僕のことを話している。そして、その口調には恐怖が混じっていた。
曲がり角で、三人の闘士が立ち話をしていた。僕の足音に気づくと、会話を中断して振り返る。
「おっ……ティリオだ」
一人が小さく呟いた。三人とも僕を見つめているが、その目には昨日までの軽蔑はない。代わりに、計り知れない何かを見るような、複雑な感情が宿っている。
「魔狼を倒したって話、本当だったんだな」
「部屋長連中も皆やられたって……」
「あんな大人しそうな顔してるのに」
彼らの囁き声が断片的に聞こえてくる。僕は足を止めて振り返ろうとしたが、三人は慌てたように散り散りになって立ち去ってしまった。
困惑しながら歩を進める。廊下の途中で、清掃をしている職員の男性とすれ違った。いつもなら僕の存在など眼中にない彼が、今日は僕を見るなり慌てたように頭を下げた。
「お、おはようございます、ティリオ様」
職員までもが「様」付けで呼ぶなんて。昨日までは「お前」とか「ガキ」と呼ばれていたのに。
「おはようございます」
困惑しながら挨拶を返すと、職員の男性は安堵したような表情を見せた。まるで、僕が機嫌を損ねて暴れ出すのではないかと心配していたかのようだった。
食堂の扉の前で、僕は深呼吸をした。いつものように、入り口で追い返されるかもしれない。食事を取り上げられるかもしれない。そんな不安が胸をよぎる。
しかし。
恐る恐るドアを開けた瞬間、予想だにしない光景が広がっていた。食堂全体が、一瞬で静まり返った。百人近い闘士候補生たちが一斉に僕の方を向き、そして慌てたように視線を逸らす。
「ティリオ様だ……」
「本物だ……」
「昨夜の化け物が……」
小さな囁きが飛び交う中、一人の男が僕に向かって走ってきた。
「おはようございます。兄貴」
大声で挨拶をしてきたのは、ネズだった。昨日まで「新入りのくせに生意気だ」と言って僕をいじめていた、あのネズが。小柄で狡猾そうな顔つきの男は、今は満面の笑みを浮かべて僕に駆け寄ってくる。
食堂の他の人々も、僕たちのやり取りを固唾を呑んで見守っている。まるで重要な儀式でも始まるかのような緊張感が漂っていた。
「お、おはよう……」
戸惑いながら返事をすると、ネズの顔がさらに輝いた。
「どうぞ、どうぞ! お席をご用意しております」
案内されたのは、食堂の最も良い席──窓際の、陽光が差し込む特等席だった。いつもなら部屋長クラスが占領している場所だ。僕がその席に座ると、周囲からさらにざわめきが起こった。
「本当にあの席に……」
「部屋長の席なのに……」
「誰も文句を言えないのか……」
そして、運ばれてきた食事を見て、僕は息を呑んだ。
「どうぞ、飯です」
とんでもない大盛りの食事が運ばれてきた。白米は茶碗から溢れんばかりに盛られ、おかずも通常の三倍はある。肉、野菜、スープ──どれも湯気を立てる出来立てだった。
「これ……僕の分?」
「はい! しかも、特別にE級闘士用の食材を使っております」
E級用……? 僕たちF級は、残飯同然の食事しか与えられない。それがE級用の食材なんて、まるで夢みたいだ。
食堂のあちこちから、羨望と恐怖の入り混じった視線が注がれる。
「E級の食事だって……」
「ネズの奴、どうやって手配したんだ……」
「逆らったら殺されるから、仕方なくか……」
ネズが得意げに説明を始めた。
「実は昨夜の後、俺が厨房に直談判してきたんです。部屋長の隠し金を使って、E級の食材を確保しました」
「部屋長の?」
「俺、情報屋をやってましたから、誰がどこに何を隠してるかは把握してるんです。厨房の連中も、昨夜のことを聞いて、すぐに協力してくれました」
ネズが小さな袋を見せた。
「これ、兄貴にお渡しします。部屋長の隠し金です」
「これって?」
「全額、兄貴のものですから」
袋の中身を見ると、かなりの額の金貨が入っている。
「こんなに……でも、これは君が見つけたんだし、交渉もしてくれた。全部持っていって」
「そんな! 兄貴のおかげで手に入った金です。俺が受け取るわけにはいきません」
ネズが深々と頭を下げる。
「でも、僕は何もしてないよ」
「何もしてないだなんて! 俺が金をもらったら舎弟として筋が通りません!」
ネズが必死に食い下がる。
「いや、本当にいらないから。君が苦労したんだろ。だから君がすべてもらう権利があるよ」
「それじゃあ……そこまでおっしゃるなら、半分だけいただきます」
そう言って、ネズは袋から半分ほどの金貨を取り出し、残りを僕に渡した。その瞬間、ネズの表情が崩れた。
「兄貴……」
ネズの声が震えている。
「俺、こんなに……こんなに優しくされたこと、今まで一度もなかったんです……」
ネズの目から大粒の涙が流れ始めた。
「ずっと、ずっと一人で……情報を売って、騙して、裏切って……それでも誰からも信用されなくて……『汚い情報屋』『クズ』って言われ続けて……」
ネズの声が詰まる。周囲の人々も、この光景を息を殺して見つめていた。
「でも、兄貴は違う。俺みたいな奴の働きを認めてくれて……金まで分けてくれて……」
ネズは震える手で顔を覆った。涙が指の隙間から流れ落ちている。
「初めてです……こんなに大切にされたの……こんなに優しくされたの……」
僕は慌てた。こんなに泣かれるとは思わなかった。周囲の視線も気になる。
「ネズ……」
「すみません、すみません……男が泣くなんて……でも、嬉しくて……」
ネズがぼろぼろと涙を流しながら、深々と頭を下げた。その姿を見て、食堂の何人かが息を呑む音が聞こえた。
「この恩は一生忘れません。命に代えても、ティリオ様にお仕えします」
その言葉には、心からの誠意が込められていた。そして、周囲の人々にも、この誓いがいかに本気のものかが伝わったようだった。
「兄貴は……本当にすごい方です」
ネズが涙を拭いながら続けた。
「昨夜はあれほど強くて、まさに最強の戦士で……でも、今はこんなに優しくて……強いだけの奴は沢山いました。でも、強い上に優しい人なんて……俺、初めて会いました」
「え、えっと」
「普通、強い奴は弱い者をいじめるもんです。でも、兄貴は違う。俺みたいなクズにも分け前をくれて……」
ネズが再び頭を下げた。
「兄貴は本当に器が大きい。こんな方についていけるなんて、俺は本当に幸せ者です」
ネズが涙をふきながら褒めたたえる。僕が最強の戦士? それにさっきの部屋長殺しってもしかして? うん、何が何やらさっぱりわからない。そんなに感動されても僕じゃない人を言っているみたいで戸惑ってしまう。
と、とにかく考えるのは後だ。まずはご飯を食べよう。お腹がぐーぐ鳴っている。空腹で限界だ。
恐る恐る口にすると、今まで食べたことのない美味しさが口の中に広がった。温かくて、しっかりとした味付けの食事。
「美味しい……」
思わず呟くと、ネズが満足そうに頷いた。
「そうでしょう、そうでしょう! E級の食材は全然違いますからね」
確かに、いつものパサパサした硬いパンや、冷え切った薄いスープとは比べ物にならない。久しぶりにまともなごはんが食べられる。夢中で飯を食べ続けた。
食事をしながら、ネズが興奮気味に話しを始めた。
「いやあ、それにしても昨日は本当にすごかったっす!」
「?」
「まさかヴァルクをあんなに簡単に倒すなんて!」
えっ? 僕の手が止まった。周囲の人々も、その会話に注目している。
「部屋長も、ボルカも、ガーロも……みんな相手にならなかったですからね!」
「みんな?」
「はい! それはもう圧倒的で! まるで別人のようでした」
ネズの目が輝いている。まるで英雄を見るような眼差しだ。
さっきの部屋長殺しってやっぱり僕のことだったんだ。
「特にあの動き! やっぱり本物の魔狼殺しだったんですね!」
僕は困惑した。魔狼殺し──確かに僕がこの施設に来た時、そんな噂が流れていた。でも僕自身は魔狼を殺した記憶がない。皆からは「あんな気弱な奴が魔狼殺し? 嘘だろ」「ハッタリに決まってる」と馬鹿にされていた。
「そうです。あの華麗な戦闘! 完璧な技術! 数十人の増援が来ても、全部一人で片付けちゃうなんて」
数十人? 僕が? 食堂のあちこちから、小さなざわめきが聞こえてくる。
「本当に数十人だったのか……」
「一人であれだけの人数を……」
「化け物だな……」
「みんな震え上がってましたよ。『こいつ化け物だ』って!」
ネズが興奮して身振り手振りで説明する。
「でも一番すごかったのは、部屋長への仕置きですね。あの冷酷さ! 容赦のなさ! まさに支配者って感じでした!」
おかしい。絶対におかしい。僕がヴァルクに勝てるわけがない。あんな屈強な元傭兵に。体格も、経験も、戦闘技術も、全てが違いすぎる。ましてや数十人を相手にするなんて……僕にそんなことができるはずがない。
「それで俺も命乞いしたんです。『兄貴と呼ばせてください』って。『舎弟にしてください』って」
ネズが嬉しそうに続ける。
「おかげでこうして生き残れました。兄貴のおかげです」
全く覚えていない。昨日の夜に何があったのか、まるで記憶にない。まるで、その時間だけがぽっかりと抜け落ちているような感覚だった。でも、この変化した体、この筋肉痛、そして周囲の人々の反応……全てが、何かとんでもないことが起こったことを物語っている。
「あの……実は僕……」
記憶がないことを言おうとした、その時だった。施設内放送が響いた。
ブザー音が鳴り響く。
『ティリオ。医療室まで来てください。Dr.ゼイドの健康診断です。繰り返します。ティリオ。Dr.ゼイドの健康診断のため、医療室まで来てください』
食堂が再び静まり返った。皆、僕の反応を窺っている。
ネズが振り返った。
「健康診断の呼び出しですね」
「そうみたいだね。じゃあ行ってこないと」
「そうですね。Dr.ゼイドを待たせない方がいいでしょう」
Dr.ゼイド──その名前を聞いた時、少し期待が湧いた。医師なら、この混乱した状況について何か教えてくれるかもしれない。きっと昨夜の出来事についても、医学的な見地から説明してくれるだろう。
僕は席を立ち、食堂を後にした。振り返ると、全員が僕の後ろ姿を見つめていた。その視線は重く、複雑で、昨日までとは全く違うものだった。
廊下を歩きながら、僕は自分に起こった変化を整理しようとした。記憶の欠落、体型の変化、周囲の反応の激変。全てが繋がらない。でも一つだけ確かなことがある。昨夜、この施設で何か重大なことが起こった。そして、それによって僕の立場は根本的に変わってしまった。
問題は、僕自身がその「何か」を全く覚えていないことだった。まるで別の人間が僕の体を使って行動していたかのような感覚。それが一番恐ろしかった。
医療室への道のりで、すれ違う人々の反応は一様だった。皆、僕を見ると立ち止まり、頭を下げ、そして急いで道を空ける。まるで王族でも通るかのような扱いだった。
これが現実なのか。一夜にして、最下層の新入りから、誰もが恐れる存在になってしまったのか。
医療室の扉の前に立った時、僕は深呼吸をした。Dr.ゼイドという医師なら、きっと何か答えを知っているはずだ。この混乱を解決する手がかりを教えてくれるに違いない。
そう期待しながら、僕は扉をノックした。この謎だらけの朝に、ようやく専門家に相談できる。