冤罪で『保養施設(※娼館)』送りにされかけましたが、元婚約者が全権使って私を奪い返しに来ました
──どうか断らないで。
◇◇◇
完全に嵌められた。
『罪』が、なぜか私一人のものにされていた。
宝飾品の不正取引で役人が屋敷に踏み込んだのが半月前のこと──
魔宝石と偽って取引されていた石の多くが、実際には魔力のない模造品だったという。
その記録が記された帳簿は、鍵をかけていた私の部屋の引き出しの底から見つかった。
紙も、インクも、筆跡も、署名も、印章も。どれも、私の使っているものとそっくりだった。
覚えはない。当たり前だ。
帳簿はもともと継母の担当で、私の名前が使われていたことさえ、役人が来るまで知らなかったのだから。
けれど否定すればするほど、私が嘘をついているように見えるだけだった。
整いすぎた偽造が真実をかき消していたのである。
我が家の帳簿にまつわる噂も以前からあったらしい。
私は何一つ知らなかった。知らされていなかった。
最初から、私だけが蚊帳の外に置かれるように仕組まれていた。
新しく仕えたメイドは、継母の差し金で、「鍵が壊れた」と机を修理に出させられた時、二重底が仕込まれ、偽の帳簿が差し込まれたのだ。
そうして、気づけば私の部屋そのものが『証拠の展示場』に変えられていた。
背筋に冷たいものが走った。
これほどまで精密に練られた悪意に戦慄を覚える。
人をここまで貶める為に、一体どれだけの執念が要るのか。
……もう散々、私から『宝物』を奪った後だというのに。
母が亡くなったのは私が十三を迎えた年だった。
ほどなくして、屋敷に入ってきたのが今の継母である。
彼女は、自らの娘・ミーガンを連れてきた。年は私より二月下。
二人が私に笑顔で接していたのは短い期間だった。
少しずつ、けれど確実に私の居場所は削られていった。
お気に入りのドレスは、いつのまにか義妹のものに。
母の形見だった魔宝石は、「台座が古びていたから」と言われ、勝手にミーガンの髪飾りに。
慰めだったオルゴールは、ある日壊され、それきり戻ってこず。
並べていた人形も、彩りを添えていた飾りも、いつの間にか少しずつ姿を消し、棚の上には何も残らなかった。
残されたのは、冷たく味気ない寝具と、使うたびに心が沈むほど重たい机だけ。
部屋の外でも同じだった。
国の祭事や家族の行事に呼ばれても、与えられるドレスはいつも微妙にサイズが合わず、色も素材も私の肌や髪に似合わないものばかり。
……お金をかけて、わざと似合わないように仕立てるなんて無駄すぎる。
大好きだった婚約者との縁も絶たされ、丁寧に外堀を埋めるように私という存在を滑稽にし、孤立させ、無力にしていった。
使用人も同様だった。
私が幼い頃から親しんでいたメイドは、継母の「方針に合わない」という理由で次々と解雇された。
私の世界は、そうやって奪われていった。
極めつけに、この冤罪。
奪われ続けた果てに、今度は罪まで着せられるなんて。
そして──
「シャロン。お前をキールステッド伯爵家から除籍する」
父の声は氷の刃のように硬く、冷たかった。
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた気がした。
自分の名前が音とともに無造作に切り捨てられた。
その意味が脳に届くまでの数秒間、時間が止まったような空白があった。
心臓が殴られたように跳ね、息がしづらくなる。
父が私という存在そのものを、『なかったこと』にしようとしている……。その事実の重みが言葉にならないほどの重力となって胸にのしかかる。
だが本当に恐ろしかったのは、その後に続いた父のさらなる一言だった。
「除籍は数日かかるが、行き先はすでに手配済みだ」
「そ、んな……監査の結果報告を待っ──」
「必要ない」
私の言葉を遮った父は一拍置き、あたかも『家を守る賢明な当主』であるかのような表情を浮かべた。
「家の名を守る為には迅速な処置が不可欠だ。世間が知る前に『我が家が先に裁いた』という形を示す。それが唯一残された道だ」
ふと、テーブルに置かれた一枚の書類が視界に入る。
名前の隣に、小さく『身元引き渡し』と記されていた。
指先がじわりと冷えていく。
「ねえ、シャロン。あなたの『行き先』は私が見つけてあげたのよ?」
継母はテーブルについたまま優雅に紅茶を啜り、まるで天気の話でもするようにそう言った。
その横では義妹のミーガンが口元を押さえて笑っている。目は遠慮などなく、はっきりと愉快そうに細められていた。
……つまり、父は『監査局の判断』よりも『継母の差し出した処分案』を優先したのだ。
提出された処遇書の行き先には、見覚えのある屋号が記されていた。
──リヴェルナ療養院。
名目上は、『保養施設』だ。
が、実態は違う。
表向きは療養を理由に身柄を預かる施設だが、貴族の間では処分場として知られていた。
浮ついた噂が立った女、取り返しのつかない失言をした娘、家の顔を曇らせる瑕疵を抱えた者たちが、ひっそりと送り込まれる場所であり、その処分場の正体は貴族好みに調整された娼館である。
施設内では、奉仕の場と称された部屋が用意され、望まぬ相手に身体を差し出すよう、教育と称して調教が行われている。
法に触れない範囲で名誉だけが削られていく──それが、あの屋号の意味する行き先だった。
表向きの契約さえ整っていれば、送るだけなら違法ではない。
抜け穴を使った仕組みは完璧で、拒む余地はどこにもなかった。
……せいぜい修道院にでも送られると思っていたのに。
継母はカップをソーサーに戻し、芝居がかったように優雅な微笑みを浮かべている。その笑みに滲んでいたのは、慈しみではなく嘲りだ。
それから椅子を引いて立ち上がると音もなく歩み寄り、私の椅子の背に手を添えて、そっと顔を寄せた。
「あんたの死んだ祖父がね。昔、議会で私の実家の商会を告発したの。模造石を混ぜたとか、倫理がどうとか。あれで生家は潰れ、私は全てを失った。ジジイの娘──あの女は、私に憐みの目を向けた……あれは、屈辱だったわ」
継母の吐息が耳元にかかる。
「だから決めたのよ。復讐する、ってね」
甘ったるい香りが喉を刺し、吐き気がこみ上げた。
言葉の意味よりも、そこにこもった熱が恐ろしい。
「そして、好機が来た。あの女が死んだの」
足元が急に冷たくなった。
今にも崩れ落ちそうな体を無理やり支える。
「あんたの父親を操るのは笑っちゃうくらい簡単だった」
私は黙って継母を睨んだ。
と、同時に、乾いた音が鳴り、頬に衝撃が走った。
火がついたように頬が熱を持ち、骨に響いた衝撃はじわじわと痛みに変わる。
「生意気な子ね。……ジジイもあの女も、そしてあんたも。ふん、同じ表情をしなきゃ、考えてやるくらいしたのに」
頬が熱を持って痺れ、床に倒れ込む。
視界が歪み、口の中に血の味がにじんだ。
継母はため息を一つ落とすと顔だけを父に向け、猫なで声を作る。
「旦那様ぁ! 今この子、何て言ったと思いますぅ?」
悲しそうに眉をひそめながらも、口元には嫌な笑みが浮かんでいた。
「『どうせお父様は女の言いなり』ですってぇ。……私、ショックで……思わず叩いてしまいましたわ!」
「……なんだと?」
父の顔がみるみるうちに赤く染まり、唇をひくつかせる。
ミーガンはそっと、父の袖に手を添えながら言った。
「本当なの……お父様。お義姉様、ずっとお母様のこともお父様のこともひどく言ってました……」
潤んだ目。震える声。だが、その視線の奥には、確かに笑っている色があった。
「お義姉様……ご自分の立場、まだ分かっていらっしゃらないの?」
義妹は涙声の仮面を被ったまま、冷ややかな微笑みを浮かべた。
「お義姉様がどれほど家の名を汚してきたか……私たち、どれだけ黙って、堪えてきたか……」
名演技だ。
泣き真似の裏で私を探る目だけが笑っている。飽き足らずに獲物を弄ぶ猫のように。
父に縋る姿は計算づくに違いない。父に見えない角度で笑うその顔は醜悪の一言に尽きる。
案の定、父は「ミーガンは、もう下がっていなさい」と言って、義妹の肩に手を置く。
父の声は私には向けない優しい音をしていた。
これを向けさせたくて努力した日々が胸に蘇り、胃の底からゆっくりと熱が這い上がる。
「──……」
口を開きかけて、何も言えずにそれを閉じた。
喉の奥が焼けるように熱い。
手のひらに爪を立てて、どうにか震えだけは堪えた。
◇◇◇
「明日、リヴェルナ療養院に行くことになったの」
刹那、目の前の男──サイラス・アーヴィングの手が書類の上で止まる。
ページをめくっていた指が動かなくなり、静けさが室内を支配していた。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
サイラスが、ゆっくりと顔を上げた。
その目に浮かんでいたのは怒りでも困惑でもなく、言葉にならない、『何か』。
……冗談に聞こえたかもしれない。
でも、これは私が心の中で何百回も繰り返し削り出した一つの結論。
──婚約を破棄されてから、もう二年が経つ。
あれから一度も直接は会っていない。もう私のことなんて嫌いかもしれないし、追い返されるかもしれない。
……それでも、決めた。
怖くても、恥ずかしくても。
サイラスしか思い浮かばなかったから。
私が向かったのは、アーヴィング侯爵家の屋敷だった。
明朝までいるようにと閉じ込められた部屋を抜け出したのは、夜もすっかり更けた頃。寝静まった使用人の目を盗み、裏門から外へ出た。
道中は冷たい風が吹いていたけれど足取りは迷わなかった。
使用人に通された応接室は暖かく、静かだった。
崩れそうな心を押し込めて、私は黙って椅子に座った。
「──というわけで、私のこと買ってくれない?」
姿勢を正し、彼を見つめる。
「……正気か?」
「正気よ」
わずかに唇が震える。
けれど、それに気づかれないよう、噛み締める。
「最初のお客様はもう決まってるみたいなんだけど……」
声が少しだけ震えた。
「私は最初の相手は自分で決めたいの」
サイラスの顔が怖いけど、知らんぷりして続ける。
「あなたがいいと思ったの……。顔を知っている相手なら……こ、怖くないから」
好き、なんて。
そんなことはもう口にできない。
「ちなみに、いくら出せばお前が買えるわけ?」
声は不機嫌に低く冷たい。
静かに片手を差し出し、手のひらを広げて彼に向ける。
彼の視線が私の手に落ちる。
「……五百万ルミア、か」
「いいえ」
「…………五千万?」
「五ルミア」
「市井の子どもが屋台の飴玉を買う額じゃねえか」
「お買い得でしょ?」
椅子がぎし、と軋み──
その直後、「ふっざけんなよ! バカ!」という怒声が部屋の空気を揺らした。
思わず肩が跳ねる。
「ね、ねえ、お願い。一晩だけ、私を買って」
──ここで冒頭に戻る。
私には思い出が必要なのだ。
「買うに決まってんだろ、バカ!」
「…………え?」
決まってるの?
「ああもうっ! クソッ! お前ほんっとありえねえ! ……助けて、って言えばいいだけだろ……」
彼は荒い息のまま、拳をぎゅっと握った。
「ほんっとに、バカだよお前は……っ」
サイラスは苛立ったように頭をかきむしりながら、振り向きざまに扉のほうへ声を飛ばす。
「書類を持ってきてくれ」
怒鳴りそうになる声をどうにか押し殺そうとしたのが分かる。
しかし、苛立ちは滲み出ていた。
すぐに現れたのは彼の側仕えだった。顔色を変えずに一礼し、何も尋ねることなく去っていく。
あの反応は……もしかして、と思う。
私が来る前から、サイラスは知っていたのだろうか、と──
元婚約者のサイラスは私より二つ年上の幼馴染で、侯爵家の当主である。
現在二十歳の彼が、十七歳で家督を継いだのは病弱な母に付き添う為に父が領地に戻ったからだった。
私にだけ口が悪くて、意地悪で。
……でも、優しかった。
贈り物はすぐ継母に奪われた。
だから彼は小さな菓子や花ばかりをこっそり渡してくれた。
『結婚したら、ちゃんとしたのを贈るからな。こんなもんしか贈れない男だって決めつけんなよ!』
赤くなった顔で怒ったように吐き捨てたその言葉を今でも覚えている。
『こんなもんしか』と彼は言ったけれど、私にとっては『こんなもん』ではなかった。
彼が好きだった。
大好きだった。
いや、今も……。
だからこそ、あの婚約破棄はただの失望では終わらなかった。
継母はすぐに父を操り、私と彼との婚約を破談にした。
裏で義妹との縁談を進めるつもりだったのだ。
ただ、思い通りにはいかなかった。
婚約破棄の報せを受けたサイラスは激怒し、義妹に向かって「性悪女め」と言い放ったらしいのだ。それも春を祝う園遊会の会場で。
社交界であの口の悪さが表に出たのは、それが最初で最後だった。
義妹は泣いて逃げ、以降、彼の名を口にしようともしない。
けれど、婚約破棄の事実だけは覆らなかった。
父はサイラスの抗議にも耳を貸さなかった。おそらく継母が父に頼んだのだろう。
決定はすでに取り消せないものとして扱われ、何も得られず、憎しみと疑念だけが残った。
それでも彼は何度か私に歩み寄ろうとしてくれた。
私がそれに応じなかっただけ……。
手紙も、何通も届いていた。
最初は震える手で開いた。
『俺を信じろ』
『絶対に何とかする』
『待っててほしい』
不器用で、まっすぐで。サイラスらしい言葉たち。
でも、それを読んでしまうたびに私は壊れそうになり、次第に封を切らなくなった。
やがて、それは手つかずのまま机の奥へ積まれ、最後には開けもせずにそのまま送り返した。
……それ以降、手紙は来なくなった。
当然だ。
私が拒んだのだから。
それなのに。
彼は私を助けてくれる──
「サイラス、ありがとう……」
私はそう言って、ドレスの布地に指をかける。
が。
すぐさま、サイラスが手を伸ばしてそれを止める。
「バッ! ババババカッ、脱ぐな。着とけっ!」
彼の声は怒っていて、でも必死だった。顔も真っ赤だ。
「お前を五ルミアなんかで手に入れるなんて俺が許さねえ! いいか、よく聞け! お前は俺の嫁になるんだ!」
「でも、私は──」
「うるせえ、もう決まってんだよ!」
「……本当に……いいの?」
「いいに決まってんだろ!」
「……決まってるのね?」
◇
サイラスはまず、私が送られる予定だった娼館──もとい、保養施設の正式な買収を申し出た。
名義だけでなく、株と運営権そのものを握ったという。
しかも、それは数日前どころか、もっと前からの準備だった。
「来ないって決めつけてたわけじゃねえ。ただ、来るとは思わないようにしてた。期待すんのが怖かったからな。……だから、来なくても全部片付けるつもりで準備してた。でも来たんだ。……俺は嬉しかった。シャロンがやっと俺を頼ってくれるんだ、って。……それなのに、『買って』なんて。なあ、んなこと言うか? 普通、言わねえよ……はあ……」
文脈は私を責めていたが、嬉しさと苛立ちが入り混じったような声音である。
サイラスはもう一度深く息を吐き、それまでの感情を切り替えるように話題を変えた。
「たまたま、キールステッドに出入りしてた商会の元関係者が、うちに来た。で、話を聞いて、ピンときた。怪しい、ってな。……運が良かった」
サイラスは笑うつもりがなかったかのように、ふっと口角を上げる。
「それで確信した。お前が監査局に連れて行かれたあの晩、屋敷に動きがあると見て、数日前から仕掛けておいた魔道記録石を起動させた。継母と義妹の私室、それから執務室の棚裏に」
……口の悪い男である。
魔道記録石は、その出所と印章次第で正式な証拠として採用される。王都石工会の認証があれば、貴族審議会でも『改ざん不能』と見なされるのだ。
「あ、盗聴目的ってわけじゃないぞ? 万一の保険だからな?」
サイラスがわずかに焦ったように言い添えるので、こんな時なのに笑ってしまいそうになった。
「そこは疑ってないよ」
「ならいい。でだ、あいつら喋る喋る。使用人に命令する声も残ってた。花束に魔道記録石を仕込んで、出入りする使用人に渡した。クズ宛ての祝いの名目でな。外からも動きは監視してた。使用人の出入りと照らして、指示の流れも割り出せた。それに帳簿も内部から入手済みで裏金の流れは記録ごとまとめてある」
「……そんなこと、いつから?」
「記録石の準備を始めたのは、話を聞いた直後。怪しいと踏んでから全部水面下で動いた──まっ、リスクは高かったけどな。バレたら終わってたし。それでも、やって正解だった。そうだろ?」
「も、もう……」
ニヤリと笑う顔に、不覚にもときめいてしまったことは内緒だ。
「帳簿には真似た者にしか出ない不自然な癖があった。シャロンが無意識に崩して書く部分まで律儀に整えられていて、逆に模写だと判断されたんだ。……それに、筆跡鑑定を担当してたのが、新人だったのも運が悪かった」
コン、とサイラスは指先で机を軽く叩いた。
「証拠を提出したのは、俺じゃねえ。でも、名義も筆跡も、お前の名前になってる。ちゃんとお前が提出した形で、届け出も記録も全部整えてある」
私は、目を逸らさずに彼を見つめた。
「……どうして、そんなことが……?」
「覚えてねえか? 昔、お前に書かせた緊急時の委任状。婚約してた頃に、『何かあった時はサイラスに任せる』って……シャロンが渡してくれたやつだよ。あれを使った。だからお前が自分で声を上げたってことになってる」
◇
決定打となったという継母と義妹の私室に設置された魔道記録石の記録には、私を陥れる計画の詳細が継母自身の口から語られていた。
『──筆跡も印も完璧に真似た。几帳面すぎる字って案外真似しやすいの。ふ、ふはっ、あは、あははははっ!』
魔道記録石の提出から数日後、調査担当の貴族監査局が急遽動いた。
提出者が被害当事者であることと証拠の信憑性が高いことから審理は異例の早さで進み、十日後には継母と義妹の罪が正式に認定された。
「シャロンへの人格権の侵害、権利の侵害に加え、不正経理の証拠も揃ってる。録音も記録も全部こちらにある」
そして最後に。
彼は一言だけ私の父に向けて言い放った。
「責任は全部まとめて俺が引き受ける。だからこれ以上、シャロンの人生に手ぇ出すな」
嬉しかった。
同時に悔しくて、情けなかった。
けれどそれよりも先に胸の奥の硬い結び目が静かにほどけていった。
「見てた人間はちゃんといるんだ」
そう言ったサイラスの背中は、やけに頼もしく見えた。
そして、もう誰かに守られるだけの存在ではいられないと思った。自分の足で立って、隣に並びたい、とも。
だから私は証拠を受け取ったその足で、一人で監査局へ行った。
「一緒に行くか?」とサイラスは言ってくれたけど、私は首を振った。
これは、自分で歩くべき場所だと思ったからだ。
震える指で申請書にサインし、自分の名前で提出した。
法廷では目を逸らさずに全てを語った。恥も、怒りも、悲しみも、声にして。
喉が焼けるほど怖かった。
でも、言葉を飲み込まなかった。
自分の言葉で、自分の傷を曝け出すことが、こんなにも苦しいなんて思っていなかった。
けれど、その痛みの一つ一つが確かに『私が生きてきた証』だった。
誰かの隣で守られているだけじゃない。
私はここまで来た。
自分で選び、自分で立ち、自分で声を上げた。
そう胸を張って言える自分が、今ここにいる。
──私は、『私自身の人生』を自分の声で取り戻したい。
◇
裁判の結審後。
加害者たちへの処分は正式に言い渡された。
父は責任を問われ、爵位を剥奪。
財産も没収され、キールステッドの名は記録から消えた。
過失を盾に逃れようとしたものの怠慢や判断力の欠如を指摘され、最後に『家名を潰した男』と囁かれるようになった。
継母とミーガンについても報告を受けた。
継母は、実刑。
送り込まれたのは、辺境にある収容施設だそうだ。
かつて紅茶の温度にさえ注文をつけていた彼女は、今は名前すら呼ばれず、『労働者番号』で命じられているらしい。
便所掃除、下水の点検、使用済み衣類の選別、油の抜けた靴の磨き上げ──与えられるのは最も汚れ、最も誰もやりたがらない作業ばかり。
薬品で手が荒れようと、悪臭が染みつこうと、抗議の声は一切受け入れられない。
貴族時代の振る舞いを少しでも見せれば、『罰』として食事が半分になる規則もあるとか。
『元伯爵夫人が便槽と靴墨に生きる毎日』──その皮肉は、噂ではなく、いま『笑える現実』として広まっている。
ミーガンは修道院送りになった。
鏡も化粧もない生活に耐えられず、最初は取り乱して泣いていたとも聞く。
今では毎日祈りと労働を繰り返しているという話だ。
それらを聞いても、私は何も思わなかった。
それがふさわしい終着点だったのだと、そう思っただけだった。
◇◇◇
裁判が終わってから、ちょうど二ヶ月。
あの喧騒の果てに、ようやく私たちは穏やかな夜を迎えようとしていた。
式を挙げたのは、判決が出た翌週のこと。
「花嫁姿だけは見届けたいの」と、サイラスの母君が微笑んで言ってくれた。
医師は反対したが、彼女はほんのひとときベッドから体を起こし、ブーケを抱えてくれた。
その姿に、サイラスはほんの少し目を潤ませた。
「『除籍』が戸籍に記される前に、俺がお前の家族になる必要がある」
そう言って、サイラスは急ぎ式の準備を進めた。
衣装の採寸も式場の手配も、招待状の発送も。全てを一週間で仕上げた。
それでも誰一人文句を言わなかった。それだけの段取りと信頼を、彼は積み上げていたのだ。
けれど、あの日はとても初夜どころじゃなかった。
祝辞に手続き、新聞社への対応。親族への挨拶が終わるころには、空が白んでいた。
ドレスを脱いだ時にはもう朝で、私たちは互いに倒れこむように眠ってしまった。
その後も忙しさは続いた。
彼は裁判で明るみに出た保養施設の整理、関係者の処分、領地と王都の往復に追われ、
一方の私は、証言や報告書の作成に加え、制度改革の協力まで求められた。
──そして、今日。
全ての報告が終わり、彼の母君も少しずつ回復し始めたこの日。
私たちは、ようやく、迎えるべき夜を迎えようとしていた。
寝室の扉を開けると、サイラスがいた。
髪はまだ少し濡れていて、額に落ちた雫が枕元の淡い灯りを受けてきらめいていた。
シーツに片肘をつき、こちらを見ていたサイラスの視線はどこか落ち着きなく揺れていて……それが可笑しくて愛しかった。
「遅い。逃げたかと思ったぞ」
ふいに向けられた声は強がり混じり。
けれど、その奥に張りつめていた糸がほどけたような安堵が確かに見えた。
「ふふ」
私は小さく笑い、ベッドの端に静かに腰を下ろす。
サイラスがそっと手を伸ばす。
指先が首筋に触れた瞬間、ぴくりと肌が震えた。
それは優しくて、熱を持っていて。わずかに緊張しているのが分かる触れ方だった。
「ふん……逃げても追いかけてやるからな。覚悟しろよ」
口ではそう言っているのに、手つきはまるで壊れものに触れるよう。
「サイラスってほんっとにバカ」
私が逃げるわけがないのに。
そう返しながら、ただ嬉しかった。
「はあ? お前のほうが、よっぽどバカだ」
サイラスはむくれたように口を尖らせて、私から目を逸らす。
「五ルミアなんて、安すぎんだろ……俺の嫁、安売りすんなよ……」
ぼそぼそと呟くその声が愛しくて、思わず笑ってしまう。
「ねえ、バカって言ったほうがバカなのよ? ふふ……好き」
つい、漏れたのは本音だった。
「な……」
サイラスは目をそらして唇を引き結び──しばらくして、小さな声で噛みしめるように「バ、バ……カは、俺で、いい、うん……俺も好きだ……すっげえ、好き……」
胸の奥が、きゅうっとなる。
「ふふ、なんでそんなに可愛いの? 大好き」
「う、うるさいっ……シャロンのほうが……か、可愛いし……俺のほうが、絶対に、ずっと好きだっ!」
次の瞬間、ぐっと引き寄せられて、そのまま彼の腕の中に包まれた。
力強くて、それでいてとても優しい。
まるで大切な宝物を抱きしめるように、大事に大事に抱きしめてくれていた。
肌に触れる体温が、溶けてしまいそうなほど心地いい。
愛されてるという実感が、胸を満たしていく。
サイラスがそっと私を抱き下ろす。
その動きには迷いがなく、でもどこまでも丁寧だった。
まるで壊れものに触れるみたいに。
唇が重なる。
触れた瞬間、心がふわりとほどけて。
優しくて、温かくて、甘くて、切なくて。
でも、全部、全部、幸せで。
──その時までは、私は確かに笑っていた。
けれど、その後は……もう笑うことすら忘れていた。
サイラスの腕の中で、何度も愛され、何度も満たされて……。
私はようやく、『ここにいていい』と心から思えた。
【完】