09.三百年の綻び
衝撃的な事実に、広間は水を打ったように静まりかえった。
そして一瞬の後、誰かが声を上げる。
「――嘘だ、そんな……! 防御壁がなければ、この都はどうなる!?」
その声を皮切りに、逃げようとしていた貴族たちが、今度は口々に責任の押し付け合いを始めた。
「わ、私の領地は防御壁の端にあるのだぞ! 真っ先に攻め込まれるじゃないか」
「塔の魔女は何をしているの!? 今は彼女が防御壁を維持しているはずでしょう!!」
「王宮の魔法使いたちはこうなるまで気づかなかったというのか!」
「王よ、説明を! もし防御壁が崩れたら、我々はどうなってしまうのですか!?」
祝宴の華やかな雰囲気はすっかり吹き飛び、もはや誰も主役であるアストリンデを気にする者はいない。
だが、そのほうが都合がよかった。
アストリンデも、たった今タリクによって明らかにされた事実に動揺していたからだ。
(どういうこと……!? 前の人生では、こんな出来事はなかった)
前の人生でアストリンデが死ぬまでの二十年間、パルシアの防御壁は塔の魔女によって維持され続けていた。
異変が生じたことなど、一度もない。
(私が時を戻ったことで、何かが変化した……?)
これまでも、アストリンデが前の人生と違う行動を取ったことにより、状況が変化したことは何度かあった。
その最たるものが、塔の魔女の弟子となり魔術を学び始めたことだ。
そのおかげでヴェスカルドとの邂逅が早まったことは素直に嬉しい。
(だけど――……)
アストリンデはちらりとタリクに視線をやる。
突然やってきて、アストリンデを皇太子妃にと望んだ招かれざる客。
これまで正常に作動していた防御壁に異変が生じた正にその日に――彼は現れた。
膨大な魔力を持つ、魔法大国ザハル・カルナの皇太子が。
誰より早く、防御壁の綻びを見抜いた。
――本当に、偶然なのだろうか。
(それに、おかしいわ。これほどの騒ぎになってなお、師匠が姿を現さないなんて)
この国の民ならば誰もが知っていることだが、現在防御壁を保っているのは『塔の魔女』だ。
王宮の魔法使いたちもその一端を担ってはいるが、塔の魔女が必要な魔力の九割を補っている以上、その力は補助程度に過ぎない。
そのはずだった。
だが――。
「誰か、塔の魔女を呼んで参れ!」
「お、恐れながら陛下。先ほど塔へ使いを出しましたが、応答がありません……!」
衛兵の発したその言葉に、人々が不安げにざわめいた。
「まさか、塔の魔女に何かあったのでは……」
そのざわめきに、アストリンデも不安を煽られる。
今朝はいつも通り元気そうだったが、この非常時に応答がないとなると――彼女の身に、何かが起こったとしか思えない。
「ヴェス兄さま、ごめんなさい。わたし――」
側で寄り添ってくれているヴェスカルドに一言断りを入れ、塔へ向かおうとしたその時だった。
「――パルシア国王陛下」
低く落ち着いた声で、タリクが父を呼んだ。
「応急処置でよろしければ、私が試してみましょう」
父も、その場にいた王宮魔法使いたちも息を呑んだ。
信じられない、という表情だった。
驚きのあまり言葉を発せずにいる父の返答を待たず、タリクは片膝をつき、床に手を伸ばした。
床に触れた手のひらから淡い金色の光が広がる。光は床の上に螺旋模様を描きながら、静かに広がっていった。
魔法の心得がある者ならば、彼が何をしているのか、すぐに理解できただろう。
タリクの放った魔力は、かつてイヴレインが城の地下に描いた巨大な魔方陣へ注がれていた。
「ば、馬鹿な……! あれほど強大な魔力を……!?」
やがて――びりり、と空気が震えた。
まるで空そのものに亀裂が走ったかのように、広間の窓の外で鋭い光が瞬く。
「な、何だあれは……!?」
「青い――雷!?」
人々が窓の外を見て、困惑の声を上げる。
次の瞬間。
遥か遠くの空に、半透明の光の壁のようなものが浮かび上がり――すぐに消えた。
「ぼ、防御壁の綻びが――塞がっています」
王宮魔法使いのその言葉によって、歓気と驚嘆の声が広間を満たす。
「まさか、結界を瞬く間に安定させるとは!」
「塔の魔女以上の魔力では……!?」
「このような力を持つなんて、さすがザハル・カルナの皇太子殿下ですわ!」
誰もが好意的な眼差しをタリクに向ける中、父だけはどこか重苦しい表情で、ゆっくりと口を開いた。
「――タリク殿。たった今の働き、パルシア国王として深く感謝する」
「礼には及びません」
膨大な魔力を消費したはずなのに、立ち上がるタリクの足取りに危うさはない。
彼はアストリンデの父と向かい合うと、慇懃な笑みを浮かべる。
「先ほど申し上げた通り、今行ったのはあくまで応急処置です」
タリクは窓の外、遥か彼方の空を一瞥する。
先ほどぼんやりと浮かび上がっていた防御壁を見つめるように。
「防御壁の魔力構造そのものが崩壊しかけています。大魔女イヴレインの死から三百年。もはや彼女の施した魔方陣を修復することは、誰であっても不可能でしょう」
国の安全を根本から脅かす事実――。
幸いにして人々はつかの間の平穏が守られたことに安堵し、王の他にタリクの言葉を耳にした者はほとんどいなかった。
すぐ側にいたアストリンデと、ヴェスカルドを除いて。
「もっとも――」
タリクは一瞬アストリンデを見やると狐のように目を細め、そしてすぐ父に視線を戻した。
「国を守るために何が必要か。陛下はすでにご理解なさっているでしょう」
「……タリク殿」
「それでは、私はそろそろお暇させていただこう。――さようなら、アストリンデ王女。近いうちに、きっと再会できると信じています」
去り際、タリクはそっとアストリンデの手を取った。
そして、手の甲に口づけを落とす。
高貴な女性に対する、正式な挨拶の作法だった。
何度も経験して慣れているはずのその行為が、今はひどく恐ろしいものに思えてならなかった。




