08.運命が軋む日
今、この場にいる誰もがアストリンデの一挙手一投足に注目していた。
幼い王女が、大国の皇太子からの縁談にどのような返事をするのか。
戸惑い、うろたえながら父王に泣きつくのか。
あるいは噂通りの聡明さを発揮し、上手く求婚をあしらうのか。
中には、あからさまに失態を期待するような視線もあった。
将来有望な王女をよそに取られては困る、失態を演じてくれればタリク皇太子も王女への興味を失うはずだ――とでも思っているのだろう。
(心配せずとも、ザハル・カルナになど嫁ぐつもりはないわ)
だからと言って、ヴェスカルド以外に興味など一欠片もないのだが。
ともかく、衆目の前で醜態をさらすつもりはない。
アストリンデは深呼吸を繰り返し、先ほどまでの動揺を収めた。唇を無邪気な笑みで彩り、静かに淑女の礼を取る。
「身に余るお言葉、大変ありがたく存じます。ですが、わたくしはまだ幼い身。結婚などという大事に対する覚悟もなく、今はいかなるお約束も申し上げることができません」
アストリンデの返答に、タリクがゆっくりと立ち上がる気配がした。
顔を上げると、狐のように細められた目と視線が合う。
「……なるほど」
そこに失望の色はない。彼の表情はどこか愉しげで、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように純粋でもあった。
「噂に違わぬ――否、噂以上の聡明ぶり。ますます皇太子妃として欲しくなった」
金の指輪に彩られたタリクの指先が、そっとアストリンデの髪の一房を掬う。
気づいていないはずがない。未婚の王女に対して、それがあまりに不適切な距離感であることを。
壁際に控えていた女官長やレダが、悲鳴にも似た鋭い呼吸を漏らすのが聞こえた。
周囲への挑発か、あるいは牽制か。
行き過ぎたタリクの行動を咎めたのは、父だった。
「タリク殿」
父はアストリンデを庇うようにタリクとの間に立ちはだかると、冷静な、けれど明確に非難の意図を滲ませた固い声で告げる。
「貴意は大変ありがたいが、娘はまだ十を迎えたばかり。将来を考えるにはあまりに早い」
「私の母は十歳で私の父に嫁し、十三歳で初子を産みました。早すぎるということはないはずです」
タリクは相も変わらずつかみ所のない、飄々とした笑みを浮かべて言った。
後ろ姿からでも、父の纏う空気がひりつくのがわかった。
十歳。
ザハル・カルナではそれが普通なのだろうか。いくら王族が早婚の傾向にあるとはいえ、さすがに西方諸国では例外と言わざるを得ない年齢だ。
「それに、何も今すぐ皇太子妃として連れ帰ろうと言うのではありません。我が国は魔法に精通する賢者も多く、師には事欠かない。まずは婚約者として留学し――」
「それ以上は結構」
険しさすら感じられる父の声が、タリクの発言を遮った。
「確かにパルシアは貴国に比べて小国だ。だからと言って今ここで、娘の意に反して貴殿の思惑に唯々諾々と従うつもりはない。娘に求婚するというのなら、せめて正当な手続きを踏んでいただきたい」
小国とはいえ、一国を治める国王としての威厳や矜持が伝わってくる言葉だった。
その場の空気が、ぴんと張り詰める。
いつも穏やかな父が、アストリンデの前でこれほど強硬な態度を見せるのは初めてのことだった。
「お父さま……」
思わず父の背中に声をかけた、その時だった。
――ごう、と低く唸るような音が大地の底から響いた。
「な、なんだ!?」
「大地が揺れている……!?」
足下が左右に揺れ動き、まるで大地そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
天井のシャンデリアが軋み、燭台の灯りが不気味に揺らめく。
テーブルの上の食器が跳ね、甲高い音を立てて転がった。
突如として襲った揺れに、大広間はたちまち混乱に包まれた。
「きゃぁぁぁ!!」
「危ない、どけ! 邪魔だ!」
均衡を失った貴婦人が悲鳴とともに床へ崩れ落ちる。
逃げだそうと出口へ殺到する人々に行く手を阻まれたどこかの王族が、罵声を上げる。
晴れやかな祝宴の場は、一瞬にして逃げ惑う人波に変わっていた。
割れたグラスが床に散らばり、踏みしめられるたび、甲高い音を立てる。
「落ち着いてください! 押さないで!」
衛兵たちの冷静な制止も、人々の混乱にかき消されてしまう。
もはやアストリンデたちのいる高座も安全ではなかった。
「あの控え扉から逃げるぞ!」
その声を皮切りに、逃げ遅れた人々が一気に高座へ押し寄せる。
とっさに身を退こうとしたアストリンデだったが、少しだけ反応が遅れた。
突進するようにやってきた女性に突き飛ばされる形となり、階段の上でよろめいてしまう。
(落ちる……!)
思わず目を瞑った、その時だった。
「アストリンデ!」
聞き慣れた声が喧騒を裂いた次の瞬間、力強い腕がアストリンデの背中を抱き留めた。
傾いた身体を優しい手つきでそっと戻され、アストリンデは恐る恐る、振り向いた。
「よかった、間に合って。……痛むところはない?」
心配そうなヴェスカルドの眼差しが、アストリンデを見つめている。
突然のことにこくこくと頷くことしかできないアストリンデに、安堵したような表情を向けた後、彼は周囲を素早く見回した。
「ここは危険だ。いったんあちらの壁際へ」
そう言って、庇うようにアストリンデの肩を抱きながら安全な場所へと誘導してくれる。
「どうして――」
無関係の自分を助けてくれたのか。
そう言おうとして、アストリンデは口を噤んだ。
ヴェスカルドはそういう人だった。たとえ自分と関係のない相手でも、危険にさらされているのを見ると放っておけず、自ら手を差し伸べる。
やはり彼は、自分の愛するヴェスカルドだ。
時を戻っても変わることのない彼の誠実な優しさに触れ、アストリンデの目頭が熱くなる。
――だめだ。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
視界が滲み、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「……っ」
時を戻ってから一度も、泣いたことはなかった。それなのに。
慌てて拭おうとしたが、涙は止まらなかった。
それに気づいたヴェスカルドが、軽く目を瞠る。
「大丈夫!? やっぱりどこか痛むんじゃ――」
必死な声音に、アストリンデは首を横に振った。
「ち、違うの……。そうじゃなくて……」
――あなたが、あなたでいてくれることが嬉しい。
たったそれだけを伝えることのできないもどかしさに、アストリンデは口ごもる。
ヴェスカルドは痛ましげに眉を寄せ、それからそっと声を落とした。
「……怖かったんだね。無理もない」
そう言って、慰めるように背中を軽く撫でる。
その優しさがさらに胸に染みて、アストリンデは子供のように泣きじゃくってしまった。
一方、喧騒の中でひとりだけ異なる反応を示した者がいた。
タリクだ。
彼は周囲の混乱には目もくれず、静かに歩きながら天井と床、そしてこの空間そのものを見渡している。
まるで、目に見えぬ何かを探るかのように。
そして窓際から外を確認した瞬間。
彼の表情から、軽薄さがすっと消えた。
「……なるほど。これは――」
タリクはゆっくりと片膝をつき、床に手を添える。
指先に淡い光が宿り、空気が微かに震えた。
「……やはりか」
そして、はっきりと告げる。
「これは、ただの地揺れではない」
決して大きくはない。だが、不思議と大広間の隅々まで届く、重みのある声だった。
その言葉に、近くにいた者たちが息を呑む。
アストリンデもまた、ヴェスカルドの側でタリクの言葉に耳を傾けていた。
「タリク殿、それはどういうことか」
父の言葉に、タリクが淡々と応じる。
「パルシア全土を覆う防御壁の一部に、綻びが生じています」
「防御壁が……!?」
ざわめきが、一瞬で恐怖へと変わった。
建国以来パルシアを守り続けてきた、大魔女イヴレインの施した防御壁。
国の命綱とも言える存在が、今――異変を起こしているというのか。
タリクは立ち上がり、鋭い視線で高座を見据える。
「この揺れは、防御壁に施された魔力構造の乱れによるものです。このまま放置すれば――」
誰もが固唾を呑んで見守る中、タリクが一拍置いて低く宣言する。
「最悪の場合、完全に崩壊するでしょう」




