06.レモネード
アストリンデとヴェスカルドのところには、貴族たちが次々と挨拶に訪れた。
教育係のスヴェン夫人から、予め国内の主要貴族の家名や家族構成、役職など大まかな情報は叩き込まれていたものの、挨拶の行列が一通り途切れる頃には、アストリンデはすっかり疲弊してしまっていた。
「リンディ。顔色が悪い。少し外の空気を吸ってきたほうがよさそうだ」
顔に出さぬよう気を付けていたつもりが、どうやらヴェスカルドにはお見通しだったらしい。
そっと耳打ちされた言葉に、アストリンデは小さく微笑みを返した。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
確かに疲れてはいるが、婚約披露の場で抜け出すことはどうにも気が引ける。それ以上に、先ほどからどこか様子のおかしいヴェスカルドをひとりにするのが怖い気持もあった。
しかし、ヴェスカルドは柔らかな視線と言葉で、アストリンデの体調を気遣う。
「ここは私ひとりで大丈夫だから。無理をして倒れてしまっては大変だ。冷たいものでも飲んで、しばらく身体を休めておいで」
そこまで言われては、断るのも失礼というものだ。
アストリンデはヴェスカルドに礼を言うと、そっとその場を離れてバルコニーのほうへ向かった。
幸いにして招待客は食事や歓談に気を取られており、部屋の隅を静かに移動するアストリンデに気を留めるものはほとんどいない。何度か話しかけられる場面もあったが、付き添いの女官たちが上手くあしらってくれた。
「アストリンデさま、こちらでしばしお待ちを。すぐにお飲み物を持って参りますわ」
専属女官の中で一番若いエリナが、アストリンデのために飲み物を取りに行く。他の女官たちと共にバルコニーに残ったアストリンデは、大きく深呼吸を繰り返した。
花の匂いを含んだ爽やかな春の風が心地良い。
雨の気配はすっかり遠のき、雲間から明るい日差しが差し込んでいる。木々に目をやると、新緑を濡らす雫がきらきらと光って、まるで真珠のようだった。
「すっかり晴れてようございましたね」
「ええ、本当に。ヴェスカルド殿下とアストリンデさまの晴れの日ですもの」
側に控えている女官たちも、嬉しそうに言葉を交わしている。
先ほどまで雨宿りをしていたであろう小鳥たちが、軽やかな鳴き声を上げながら楽しそうに飛び回っているのを、アストリンデは癒やされる思いで見つめた。
貴族たちとの堅苦しいやりとりに、思っていた以上に息が詰まっていたのだと実感する。
そうして過ごしていると、やがて背後から足音が聞こえてきた。エリナが戻ってきたものだと思い込み、アストリンデは笑顔で振り向く。
「ありがとう、エリナ――」
「失礼します、義姉上。飲み物をお持ちしました」
そこにいたのは、テネブロスだった。
第二皇子の登場に、女官たちがそつなく淑女の礼を取る。
「失礼いたしました、わたしの女官かと思って……」
「義姉上とお話したくて、女官の仕事をひとつ奪ってしまいました」
テネブロスは屈託のない笑みを浮かべながら、アストリンデの元に近づいてくる。無邪気な物言いに、アストリンデは思わず微笑を零さずにはいられなかった。
ヴェスカルドが、包み込むような優しい月の光だとすれば、テネブロスは底抜けに眩い太陽のようだ――そんな風に思う。
アストリンデたちのことを見守る女官たちも、テネブロスのおどけたような物言いにクスクスと声を上げて笑っていた。
和やかな空気の中、テネブロスがレモネードの入ったグラスを差し出してくる。
「さあ、どうぞ義姉上。よく冷えたレモネードです」
「ありがとうございます。あの、わたしのことはどうか名前でお呼び捨てください。殿下のほうが年上ですもの」
「そういうわけには、と言いたいところですが……。公的な場以外ではそうさせてもらえると嬉しいな。実は堅苦しいのは苦手なんだ。だからあなたも、僕のことは〝テス〟と愛称で呼んでほしい」
テネブロスが軽くウインクをしてみせる。
その表情に親しみすら感じながら、アストリンデはグラスを口に運んだ。
砂糖の甘みとレモンの酸味がほどよく混ざり合ったレモネードは、よく冷えていて爽やかだ。若干人酔いしてしまった身体に、じんわりと染み渡っていく。
「とってもおいしい! 思っていたより酸っぱくないのですね」
「そうだろう? 僕が子供の頃はもっと酸味が強かったんだけど、厨房の担当者に言って蜂蜜を追加してもらうようになったんだ。あ、今お子さま舌って思っただろう?」
「ふふ、そんなこと思いません。テスのおかげで、今こうしてこんなに美味しいレモネードが飲めるんですもの」
お世辞ではなく本当に美味しくて、グラスの中身はあっという間に空になってしまった。