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05.弟

 ぽつんと、雨粒が落ち、誰かが「不吉だ」という声を上げる。

 その声を皮切りに、人々の不安げな囁きが、雨が地上を打つ音が、広間中に広がっていった。

 重々しい空気の中、やがてしわがれた声が、アストリンデの耳を打つ。


「凶兆じゃ……!」


 その声は、広間の入り口のほうから聞こえていた。

 いつの間にそこにいたのだろうか。扉の近くに、腰の曲がった老婆が佇んでいる。大きな杖に縋るようにしながら佇む彼女は、招待客である貴族たちとは明らかに異なる空気を纏っていた。

 

「雷は神の声。なればこの雷鳴は、神がお怒りになっている証拠じゃ。 神は、その者をお世継ぎとしてお認めにならないと仰っておる……!」

「っ、無礼な……!」


 憤る儀仗兵の声がどこか弱々しく響くのは、老婆の放つ異質な雰囲気に呑まれてのことだろうか。あるいは、アストリンデの知らない何か他の理由があるのか。


 老婆がまっすぐにさした指の先には、ヴェスカルドがいる。彼はこの状況をどう思っているのだろうか。


(ヴェス兄さま、大丈夫かしら……)


 気づけば先ほど繋いだばかりの手に、より一層力が込められているような気がする。アストリンデが隣にいるヴェスカルドの顔を、おずおずと見上げようとしたその時だった。


「兵たちよ、何をしておる。早くその者を捕縛せよ!」


 それまで唖然としていた皇帝が、儀仗兵たちに向かってようやく老婆を捕らえるよう命じる。


 慌てて動き出した兵たちによって、老婆はあっさりと拘束された。なんの抵抗もせず、ただニタニタと不気味な笑顔を浮かべたまま。

 誰もが静まりかえり、事の成り行きを見守る中、老婆は広間の外へ乱暴に連れ出される。そして扉を潜る直前、再び口を開いてこう言い残した。


「――覚えておくがよい。その者を皇帝として立たせる時、それがこの国の命運が尽きる時よ」


 しばし、重い沈黙が続いた。

 誰もが、この異様な状況に口を閉ざし、どのような態度を取るのが正解なのか考えあぐねていたことだろう。あるいは、老婆の『予言』にただただ圧倒され、恐怖に押しつぶされそうな者もいたかもしれない。

 

 その沈黙を破ったのは、皇帝でも皇后でもない。それまでこの場にいなかった、ひとりの少年だった。


「お久しぶりです、父上、母上!」


 硬質ではあるが、陰鬱な空気をさっぱりと塗り替えるような、初夏の風を思わせる声が響き渡る。

 いっそ場違いなほど爽やかな声に、驚いて広間の入り口を見ると、見知らぬ少年と目が合った。身に着けた紺色の礼装が、きりりとした精悍な顔立ちによく似合った少年だ。


「まあ! テネブロス!」


 椅子から立ち上がった皇后が、弾むような声を上げる。


「テネブロスさまだ」

「第二皇子殿下……しばらく見ぬ間に、随分とご立派になって」

「ますます皇帝陛下に似ておいでですな」


 しかしそれらの言葉を聞かずとも、アストリンデはこの少年が誰なのか、その容姿を見た瞬間にわかっていた。


(テネブロスさま。この方が、ゼファー帝国の第二皇子ね。……だけど、ヴェス兄さまとはあまり似ていないみたい)


 燃えるような赤い髪は一目で皇帝の血筋だとわかるし、大らかで快活な性格を思わせる明るい緑の瞳は、皇后と同じ色だ。

 常日頃から海軍で鍛えているためか、肌は日に焼けた健康的な小麦色をしている。背が高く逞しい身体つきをしており、聞いていた実年齢より年上に見えた。


 そもそもヴェスカルド自体、皇帝とも皇后とも不思議なほどに似ていないのだ。

 もしかして、祖父母に似ているのだろうか。アストリンデもよく、祖母の若い頃にそっくりだと言われるし、そういうことは珍しくない。


「テネブロス、婚約の儀はもうとうに始まっておるぞ」

「申し訳ございません、父上。帰りの船の出航が遅れてしまいまして」

「まあ、この子ったらいつも言い訳ばかり。どうせ港町で遊んでいたのでしょう。ほら、早くこちらへ来なさい」


 そうやって窘めながらも、皇帝も皇后もテネブロスのやや傍若無人な振る舞いに、怒っている様子はなかった。その眼差しは困った子供を見るような、どこまでも微笑ましいものだ。


 父母の言葉に、テネブロスはつかつかと大股で絨毯の上を歩き始めた。まっすぐにヴェスカルドとアストリンデの前までやってくると、屈託のない笑みを浮かべる。


「兄上、このたびはご婚約誠におめでとうございます!」

「ああ、ありがとう」


 朗らかでやや豪快とも思える声はどこか実家の次兄を思い出させ、初対面であるにも関わらず、アストリンデはテネブロスに不思議と親しみを覚えた。


「こちらが、僕の未来の義姉上なのですね」


 視線を合わせるように軽く屈んだテネブロスが、アストリンデの手を取り、その甲に恭しくキスをする。


「初めまして、アストリンデ王女。私は第二皇子テネブロス。はるばるパルシアからゼファーへようこそ」

「ごきげんよう、テネブロスさま。お会いできて光栄です」

「可愛らしい未来の義姉上に、贈り物を用意しました」


 テネブロスが胸ポケットに手を入れ、ピカピカに磨かれた小さな硬貨(コイン)を取り出す。

 見知らぬ鳥が刻まれた、異国の銀貨だった。


「この鳥は、オルカンダ王国で〝幸福をもたらす鳥〟と言われています。そのため、この銀貨を身に着けていると嬉しいことが起こるのだとか」

「まあ……。ありがとうございます」

「年齢も近いことですし、どうか仲良くしていただけると嬉しいです」


 義弟となる人からの思いもよらぬ気遣いに、胸いっぱいに嬉しさが広がる。


「ねえ、ヴェス兄さまも見て――」


 ヴェスカルドにも見てもらおうと銀貨を差し出そうとしたアストリンデは、しかし、彼の表情を見た瞬間声を失った。


「ああ、とても綺麗だね」


 それは以前、彼が皇后と話し終えた時に浮かべていた笑顔とそっくりだった。


「こんなに可愛い花嫁を迎えることができて、兄上は幸せ者だ! さあ、皆で兄上のご婚約を祝おう! 音楽を鳴らせ、ありったけのご馳走を持て!」

「こら、このお調子者が」


 父子の睦まじいやりとりに、ほほほ、と皇后が淑やかに笑う。ヴェスカルドの浮かべている表情には気づいていないようだ。

 やがて楽団が音楽を奏で始め、広間はすっかりと祝いの空気を取り戻した――表面上は。

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