03.素敵な人
アストリンデたちが到着する頃には、皇太子宮のティールームは、すっかりとお茶会の準備が調えられていた。
カーテンと揃いのクリーム色のテーブルクロスに、果物柄のティーセット。
ピカピカに磨かれた銀のスプーンとフォークに、真っ白な皿。
鈴蘭、アネモネ、ガーベラ、ポピー。アストリンデが大好きな春の花が、花瓶の中で華やかに広がり、室内に彩りを添えている。
食べきれないほどのマカロンやチョコレートはもちろん、何よりアストリンデの心をときめかせてやまないのは、温室で採れた薔薇の花びらをたっぷりの砂糖で煮詰めたジャムだ。
小瓶に詰められたジャムは、窓から差し込む日差しを受けて、テーブルクロスの上にゆらゆらとガーネットのような色彩を描いている。
「ヴェス兄さま、早く! 苺飴を食べましょう」
「わかったわかった、そんなに慌てないで」
興奮したアストリンデに手を引かれ、椅子に腰掛けたヴェスカルドはもうすっかり、いつもの調子を取り戻していた。
「ほら、どうぞ。飴が硬いから、口の中を怪我しないようにね」
「うん!」
すっかり安堵したアストリンデは、白い皿の上に置かれた苺飴をワクワクと手に取る。
見れば見るほど美しく、食べるのがもったいないほどだが、食べなければせっかく持ってきてくれたヴェスカルドにも菓子職人にも失礼だろう。
思い切ってかじりつく。
――パリパリ、ジュワリ。
飴は思ったより薄くかかっていたらしく、歯を立てると軽やかな音を立てて口の中で割れた。遅れて、苺の甘酸っぱい果汁が滲み出す。
優しい甘さと爽やかな甘酸っぱさが混ざり合って、非常に美味だ。
飴と苺。どちらも珍しいものではない。
だけど、なぜ母国ではこの組み合わせを誰も思いつかなかったのかと、少しだけ悔しい思いをする。
「とっても美味しいわ!」
「気に入ってくれてよかった。夏になったら、ラズベリーやブルーベリー、秋になったら林檎の飴も食べられるよ」
――秋になったら。
夏が過ぎ、秋になっても、こうしてヴェスカルドと共に過ごせる。婚約者同士だから当たり前なのだが、その事実がなんだかこそばゆくて、アストリンデは妙にふやけた笑みを浮かべてしまった。
「アストリンデさま、ミルクティーでございます」
「ありがとう」
タイミングよく侍女がミルクティーを注いでくれたカップで、慌てて口元を隠す。
幸いにして、ヴェスカルドはアストリンデの妙な表情には気づかなかったようだ。スプーンを手に取り、薔薇ジャムを紅茶にひと匙、落としている。
「ヴェス兄さまは本当に素敵ね」
「んっ……、いきなりどうしたの」
思わず本音を口にしてしまうと、ヴェスカルドは少しだけむせたようだった。
数度咳き込み、困ったようにアストリンデを見る。
「いきなりじゃないわ。初めてお会いした時から思っていたのよ」
彼を見ていると、まるで一幅の絵画を見ているような心地になる。
スプーンを持っている姿も、それを瓶に戻すところも、カップに口を付けるところも、どこをとっても絵になるのだから。
「……どこが?」
「全部よ。静かな夜の色みたいな髪も、琥珀みたいな色のおめめも、優しいところも全部」
「――」
何かを言いかけ、ヴェスカルドが口を噤む。
苦しげな表情は、初めて彼と会話を交わした時のことを思い起こさせた。
自分は何かまずいことを言ってしまっただろうかと、慌ててしまう。けれどアストリンデが謝罪するより早く、ヴェスカルドが口を開く。
「ありがとう、リンディ」
どこか寂しそうな笑顔の意味をアストリンデが知ったのは、それから半年後。
ふたりの婚約を正式に知らしめる、婚約式の場でのことだった。
§
その日は、朝からどんよりとした雨曇りだった。
今にも雨粒が落ちてきそうな空を窓から見上げながら、女官が小さくため息をつく。
「せっかくのおめでたい日だというのに、晴れずに残念ですわね」
「ええ、本当に。昨日までは良いお天気でしたのに」
婚約式は宮殿内で行われるため、外に出ることはない。
とはいえ、やはりせっかくのめでたい日。晴れやかな陽光の差す中で式が行われればという、女官たちの気持もわかる。
しかし、当のアストリンデにとっては天気など晴れでも雨でも雪でもどうでもよかった。
これまで宮殿の一角で過ごしてはいたものの、公の場に出るのは何せこれが初めてのことである。
婚約式は婚礼の儀などに比べればごく小規模な催しだ。荘厳な儀式や司祭の祈りがあるわけでもなく、貴族たちにアストリンデのお披露目をするための、小規模な宴の場である。
とはいえ、これ以降アストリンデは公的にもヴェスカルドの婚約者として扱われるようになる。
貴族たちはアストリンデの一挙手一投足に目を光らせ、未来の皇太子妃として相応しいか見極めようとするはずだ。
これまで一生懸命、ゼファーでの伝統やマナーを学んできたけれど、失敗したらどうしよう。自分のせいでヴェスカルドに恥を掻かせたらどうしよう。貴族たちに、認めてもらえなかったらどうしよう。
緊張のあまり、朝食はほとんど喉を通らなかった。
何も食べなければ身体に悪いと、レダが強引にスープを飲ませてくれたが、それすら二口しか入らなかったほどだ。
だが、式典の時間は無情にも刻一刻と迫ってくる。
「さあさ、アストリンデさま。お支度をいたしましょう」
女官長が手を打ち鳴らすと同時に、訓練された兵士のような動きで女官や侍女たちが慌ただしく動き始める。
瞬く間に部屋着を剥ぎ取られ、絹のシュミーズとふんわりしたペチコートの上から、盛装を着付けられる。
今日のドレスは、ワインレッドのタフタで作られたものだ。袖や胸元には、伝統的な形に結ばれた銀の紐飾りがあしらわれ、布を光に透かすと、薄らと鳥の模様が浮かび上がる。
更に共布の長手袋を纏い、腰の位置まである短めの銀の外套を合わせた。
髪はゼファーの伝統に則り、頭の両サイドで編み込んだ髪をくるりと纏める『薔薇の輪』という髪型に調えた。
鏡台の前の椅子に座って髪をあれこれいじられている間に、別の侍女たちがあっという間に化粧を施していく。
「アストリンデさまはお肌が真珠のようでいらっしゃるから、白粉は必要ございませんわね」
「目元と唇に少し赤を入れたほうがよろしいかも」
「頬紅をほんの少しはたいて、眉も少しキリリとさせましょう」
あれよあれよという間に化粧が完成すると、最後の仕上げはアクセサリーだ。
それひとつで城どころか土地がいくつも買えるほどの、大変な価値のある指輪やブレスレット、ネックレスに髪飾りが装着されていく。
「とてもお美しゅうございますよ」
「ええ、本当に。まるで雲間から差し込む柔らかな月光のよう」
「貴族の方々も、きっとアストリンデさまのお美しさに驚かれるに違いありませんわ」
アストリンデを見て、女官たちが口々に褒めそやしてくれる。
鏡に映る自分は、なんだか濃い化粧をして別人のようだったが、そう言ってもらえるとそんな気がしてくる。
少しだけ自信を付けたアストリンデはその後すぐ、女官たちと共に大広間へ向かった。
部屋を出て長い廊下を歩いている途中、重い雲の向こうからゴロゴロと不穏な音が轟き始める。
そして大広間の前に到着した頃には、音だけでわかるほどに大粒の雨が降り出していた。
「不吉ね」
「やっぱり、ヴェスカルド殿下が――」
扉が開く直前、雨の音に混じってどこからかそんな声が聞こえてきたような気がした。
女官や侍女たちには聞こえなかったのだろうか。
「どうぞ、アストリンデさま。皇帝陛下と皇后陛下、ヴェスカルド殿下がお待ちですわ」
「ええ……」
促されるままに、控えの間に繋がる扉を潜る。
――なんだか嫌な胸騒ぎがした。