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02.兄妹のような

 ゼファー帝国に移り住んで二週間。アストリンデの生活は劇的に変わった。


 皇太子妃教育が始まると同時に、大勢の教師が付けられ、厳しい授業やレッスンに明け暮れる毎日。

 そんな中でもアストリンデが病んだりひねくれたりせずやっていけたのは、ヴェスカルドがいてくれるからだ。


「お邪魔するよ。レッスンは終わったようだね」


 歌のレッスンが終わるのを見計らうかのように、扉の外で待っていたヴェスカルドを見つけるなり、アストリンデは声を弾ませた。

 

「ヴェス兄さま!」


 軽やかな足取りで彼に駆け寄ったせいで、空色のドレスの裾と、ハーフアップにしたミルク色の髪がふわふわと揺れる。

 そのままの勢いで彼にぎゅっと抱きつくと、女官長がわざとらしくコホンと咳払いをした。


「アストリンデさま、婚前の姫君が殿方に抱きつくなど、はしたのうございますよ」

「あっ、ごめんなさい」


 素直に謝ると、女官長もそれ以上窘めようとはしない。

 困ったように笑い「人前では特にお気を付けくださいませ」と言うだけだ。


『ヴェス兄さま』という呼び方も、初めのうちは歓迎されなかった。

 婚約者とはいえ、ヴェスカルドはこの国の皇太子。本来ならば殿下と呼び、尊ばなければならない相手だ。

 

 だけど、他ならぬヴェスカルドが笑って許してくれたため、こうして愛称で呼ぶことを容認されている。


「――まあ、殿下。ごきげんよう」


 アストリンデに少し遅れて音楽室から出てきた教師が、ヴェスカルドを見るなりとろけるような笑みを浮かべる。

 美貌の皇太子は、大層女性人気が高いようだ。


「スヴェン女史。アストリンデの授業はどうかな?」

「とても筋がよろしゅうございますわ。中級の教本もあっという間に終えてしまわれました」

「それはよかった。きっと貴女の教え方が上手いからだね。これからもよろしく頼むよ」


 にこりと微笑まれ、スヴェン女史がぽっと頬を染める。軽く頭を下げてその場を去る足取りは、実に軽やかだ。

 彼女は確か既婚者だったはずだし、年齢は五十歳を超えていたはずだ。けれど芸術を愛でる心に、年齢や既婚未婚の別は関係ないのだろう。


「ヴェス兄様、それはなぁに?」


 彼の手の中にあるものを見上げ、アストリンデは小首を傾げた。それは二本の棒で、それぞれ、小さな赤い塊が三つ並んでいる。


「今日はいい苺がたくさん採れたらしくてね。菓子職人が、おいしい苺飴を作ってくれたんだ」

「まあ! わたし、苺飴なんて初めて見たわ」


 確かによく見ると、その塊は淡い蜂蜜色に色づいた飴に覆われた苺だった。飴は陽光を弾いて艶やかに輝いており、中の赤色が蜂蜜色に滲むように透けている。

 

「つやつやでキラキラしてて、とっても綺麗ね!」

「そうだろう? きっと、リンディが好きだろうと思ったから、すぐに見せたかったんだ」


 初対面の時の柔らかな物腰そのままに、ヴェスカルドが笑う。

 皇太子妃教育を受ける傍ら、彼はよくアストリンデを気遣ってくれた。


 厳しい授業ばかりで幼い婚約者が気詰まりにならないようにと、城の温室で珍しい花を見せてくれたり、遠方から取り寄せた美味しいお茶を振る舞ってくれたり、時にはこっそりと城下へと連れ出してくれたこともあった。


「せっかくだから、ティールームで紅茶と一緒にいただこうか。君の大好きな牛乳たっぷりのミルクティーと薔薇のジャムを用意させるよ」

「うん! ありがとう、ヴェス兄さま」

 

 差し出された手を、ごく自然に握る。

 手を繋いで皇太子宮へ向かうふたりを、側仕えの女官や侍女たちが微笑ましい目で見守っていた。


「まあ、アストリンデさまのお可愛らしいこと」

「皇太子殿下とも、随分と仲睦まじくおなりですわね」

「今はまだご兄妹のような関係ですけれど、このまま成長なさればきっと、お似合いのご夫婦になられますわ」


 ふたりの婚儀は、ヴェスカルドが十八歳――成人を迎える年に予定されている。

 三年後、ヴェスカルドと夫婦になる。

 婚約者である以上それは自然なことであるし、女官たちが待ち望み期待する気持ちもわかる。しかしアストリンデ自身は、彼と結婚する未来にいまひとつピンと来ていなかった。


 たった三歳しか年が変わらぬとはいえ、十代にとっての『三歳』は大きい。十五歳のヴェスカルドから見て、まだ十二歳のアストリンデなど、ほんの子供に違いない。


 そしてアストリンデにとっても、彼は兄のような、あるいは年の離れた親友のような存在でしかなかった。


(結婚ってどういうものなのかしら。今のように、仲良くお茶をしたりお散歩したりしているだけではだめなの? 今と何が違うの?)


 女官たちに聞いてみたこともあるが、皆一様に「大きくなったらいずれわかることです」としか言ってくれない。そしてなぜか、少し含み笑いをしながら答えるのだ。その理由も、大きくなったらわかるのだろうか。


(それとも、ヴェス兄さまに聞いたら教えてくれるかしら)


 じっとヴェスカルドを見上げていると、その視線に気づいた彼がふとアストリンデを見る。


「ん?」

「な、なんでもない……」


 直前まで質問しようと思っていたのに、純粋な眼差しで首を傾げられると、なんだかいけないことをしていたような心地にさせられる。

 気まずさに俯きながら歩き続けていると、ふとヴェスカルドが足を止めた。

 

 繋いだ手に僅かに力がこもり、ぴりりと空気の張り詰める気配がする。


「ヴェス兄さま――……?」


 どうしたのだろうと思い声を上げたアストリンデだったが、彼の視線の先にあるものを認め、慌てて質問を引っ込める。

 皇后が、大勢の女官を引き連れてやってくるところだった。


「あら、ヴェスカルド」


 息子の目の前にやってくるなり、皇后は足を止めて完璧な笑みを浮かべた。

 今年で四十歳。ふたりの皇子の母だが、驚くほどに若々しく、まだ少女の面影さえ残している。


 とても可憐で美しい女性だが、ヴェスカルドと似たところはあまりない。

 ほっそりとした人形のような面に植わった双眸は鮮やかな森の色だし、髪の色は優しいアプリコット色だ。 


 華やかな薔薇色のドレスや、首回りを彩る大ぶりなダイヤモンドのネックレスが、彼女の可憐な美貌を更に引き立てていた。


「母上におかれましては、ご機嫌麗しくいらっしゃるようで何よりに存じます」


 砂糖菓子を思わせるような、甘く歌うような挨拶に、ヴェスカルドが礼儀正しく言葉を返す。


 普段のヴェスカルドはもっと砕けた口調だが、両親を相手にする時の彼はいつもこんな調子だ。

 一歩引いたような、遠慮がちな、ともすれば冷たくも感じられる態度で接する。


 笑みを浮かべてはいるものの、それもどこか作り物めいていて、普段アストリンデに向けている笑顔とは全然違う。


 そして皇后もまた、ヴェスカルドに対してどこか他人行儀に接しているように見えた。


(親子なのに、どうしてかしら)


 アストリンデはいつも、この奇妙な距離感を不思議に思っていた。

 母国では毎日のように家族で食卓を囲み、冗談を言い合ったり、楽しい話題を共有したりしたものだ。

 怖い夢を見た時などは、両親の寝室に忍び込んで同じ寝台で眠ったことさえある。

 

 だけどゼファー帝国に身を置いてからというもの、アストリンデはヴェスカルドが家族と共に過ごしているところを見たことがほとんどない。


 あるとしてもそれは、公式行事や何かの式典といった、公務に関わることだけだった。

 それとも大国の皇族というのは、どこもこのような感じなのだろうか。


「アストリンデ王女も、ごきげんよう」

「っ、ご、ごきげんよう、皇后陛下」


 考え事をしていたせいで、皇后の挨拶に反応するのが若干遅れてしまった。アストリンデの迂闊な様子に気づかぬはずはなかったが、皇后は微笑ましげにくすりと笑っただけで、それを咎めようとはしなかった。

 代わりに、気遣いの言葉を寄越してくれる。


「こちらでの生活には慣れましたか? あなたの母国(パルシア)とゼファーでは気候や文化も何もかも違うでしょう。困ったことはない?」

「お気遣いありがとうございます。女官も侍女もよくしてくれますし、ヴェスカルド殿下がいてくださるので、毎日とても楽しく過ごせています」

「そう、それならよかった」


 精一杯失礼のないように答えると、皇后はほっそりとした手でアストリンデの肩を優しく撫でた。


「あなたはもうわたくしの娘も同然なのですから、何かあったらいつでも皇后宮にいらしてね」

「はい、ありがとうございます」

「皇后陛下、そろそろ……」

「ああ、そうね。――ごめんなさい、今からヒンメア侯爵夫人とのお茶会なの。わたくしはこれで失礼するわね」


 女官に耳打ちされ、皇后は申し訳なさそうに柳眉を寄せた。

 そして長いドレスの裾を優雅に翻し、その場を去ろうとする。しかし完全に背を向ける直前、思い出したかのように再びアストリンデたちのほうを振り向いた。


「ああ、そうそう。半年後の婚約式だけれど、テネブロスも帰ってくるそうよ」


 テネブロスというのは、ヴェスカルドの一つ年下の弟だ。

 この国では、第一皇子以外は十二歳から必ず軍役に就かねばならないというしきたりがあるらしい。

 テネブロスも例に漏れず今年の初めから海軍に入隊しているため、アストリンデはまだ彼に会ったことがない。


「あの子ったら、あなたたちの婚約をどうしても祝いたいんですって。まったく、任務を放り出して困った子ね」

「いえ……ありがたいことです」

「帰ってきたら、あの子を労ってあげてね」


 そう言うと、皇后は桃のような甘い香りを残し、今度こそ去っていく。

 立ち去る姿さえ優雅なその様子にほうっとため息をつき、アストリンデは何気なくヴェスカルドに声を掛けた。


「皇后陛下はいつもとっても優しくて綺麗ね。わたしも、大きくなったらああなれるかしら」

「……」

「ヴェス兄さま?」


 返事がないことを訝り、再び声を掛ける。

 すると彼はハッとしたように僅かに身じろぎし、眉を下げて取り繕うように笑った。


「ごめん、ぼうっとしてた。飴が溶けるといけないから、早くティールームに向かおう」


 アストリンデはヴェスカルドの笑顔が大好きだ。

 でも、理由はわからないけれど、今の彼は無理して笑っているようにしか見えなくて、なんだか胸が苦しかった。

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