01.再びかの地へ
その日は、雲ひとつない快晴だった。
旅装に身を包んだアストリンデは、城の外に広がる青々とした空を見上げる。
美しく、どこまでも澄み渡る空。
ヴェスカルドも今頃、この空を見上げているだろうか。
――ふたりの婚約が正式に結ばれたあの日から、一年。
アストリンデは今日、ヴェスカルドの婚約者としてゼファー帝国へ旅立つ。
この一年、恐れていたザハル・カルナからの抗議や横やりがなかったのは幸いと言うべきか。
おかげで魔法の修行に集中することができ、十一歳にして上級魔法を全て修めるに至った。
アストリンデにとって魔法とは、ヴェスカルドを守るための剣。神童と謳われた姉ジルヴェナすら、もはや及ばぬ領域へと足を踏み入れた――そのはずだ。
それなのに、胸の内に救う不安は少しも拭えない。
アストリンデの行動ひとつで未来が代わるというこの状況は、薄氷の上を目隠しで歩くようなものだ。
どれほど慎重に進んでも、どれほど万全の手を打っても、次の一歩が正しいとは限らない。
もし選択を誤れば、再びあの最悪の未来へ辿り着くかもしれない。
その恐怖と、常に隣り合わせだった。
そしてもうひとつ、気がかりなことがあった。
師である、塔の魔女のことだ。
防御壁に異変が生じたあの日、衛兵の呼びかけに師は応じなかった。
――正確には、応じることができなかったのだ。
失神したアストリンデを心配する侍女たちに引き留められ、中々駆けつけられなかったことが、今も胸に刺さっている。
彼女らの目を盗み、ようやく塔へ向かったのは夜も更けてからのことだった。
ひとけのない石造りの階段を息を潜めるようにして上りながら、アストリンデは胸の奥で、じわじわと不安を膨らませていた。
そうして最上階の扉を押し開けた、その瞬間。
――異様な静けさに、足が止まった。
いつもなら感じるはずの魔力の気配が、ほとんどない。
『……師匠?』
呼びかけに、返事はなかった。
慎重に視線を巡らせた先で――ようやく、見つけた。
床に崩れ落ちるようにして倒れている、師の姿を。
その側には、砕けた薬瓶と、床に広がる薬液の痕があった。
『師匠……ッ!!』
駆け寄り、慌てて身体を揺さぶる。
師の呼吸を確認して安堵したものの、その指先は氷のように冷たかった。
一体どれだけ長い時間、この冷たい床に倒れ伏していたのだろうか。
侍女たちの制止など無視して、早く駆けつければよかった。
後悔を押し殺しながら、急いで彼女を寝台に運ぶ。
身体を起こし、支えた瞬間ぞっとした。
――軽い。
あまりにも軽い。
ふと、違和感が胸の奥に引っかかる。
(……わたくしは、師匠が何かを口にしているところを見たことがあったかしら)
生物は、何かを食べなければ生きてはいけない。
だが、師は違った。
アストリンデがどれだけ勧めても、菓子ひとつ口にすることはなかった。
飲み物ですら、ほとんど手をつけたところを見たことはない。
(この方は、本当に……)
一瞬、背筋を冷たいものがなぞる。
だが、すぐにその思いを振り払った。
(いいえ、今はそんなことを考えている場合ではない。師匠の身体を温めないと)
薬湯を淹れるため急いで寝台を離れようとしたその時、不意に手首を掴まれた。
あまりの冷たさに、思わず肩が跳ねる。
振り返ると、師がヴェール越しにアストリンデを見つめていた。
『……アストリンデ』
『師匠……! よかった、目が覚めたのですね』
『少し、意識が途切れておっただけだ』
まるで他人事のように、師は淡々と言った。
『心配をかけたな。何やらそのせいで、騒動もあったようだが――』
『いいえ、ご無事でよかったです。今すぐ、薬湯を淹れてまいります』
踵を返そうとするが、師はアストリンデの手を離すことはなかった。
彼女はアストリンデを見つめたまま、わずかに声を和らげる。
『大したことではない。それより、ヴェスカルド……皇子との婚約が決まったのだろう。めでたいことだ』
『ご存じだったのですか?』
驚きに、何度か瞬きを繰り返す。
気を失っていたはずの師が、一体どこでそれを知ったのだろう。
師はかすかな吐息に笑みを滲ませる。感情を滅多に表に出さない彼女にしては、非常に珍しいことだった。
『私には過去も現在も未来も、全てお見通しだ』
そして、そのような冗談を口にすることも。
何かを、はぐらかされているような気がした。
『師匠……。本当に、お身体は大丈夫なのですか? 何か、わたくしに隠しているのでは――』
師がいくつかはわからないが、相当な高齢であることは間違いない。
それなのにアストリンデを含めパルシア王国は、これまで防御壁の維持を彼女に頼りきりだった。
本当は、相当無理をしていたのではないだろうか。
疲労だけではない。もし何か病に侵されているのだとすれば、早急に治療が必要だろう。
しかし、不安に駆られたアストリンデの言葉を遮ったのは他でもない師だった。
『――四年前』
静かな声音に、アストリンデは思わず口を噤む。
『そなたは、私の弟子になりたいと言った。〝今度こそ、愛する者を守るための力が欲しい〟と。――願いは叶えられそうか?』
思わぬ問いかけに、アストリンデは押し黙った。
まさかあの時の言葉を、今も師が覚えてくれているとは思わなかった。
普通ならば、子供の戯れ言と笑い飛ばされるような言葉。だけど思い返せば当時から、師はアストリンデの決意を笑うことはしなかった。
真正面から受け止め、その技術の全てを余すことなく伝授してくれた。
しばし沈黙した末、アストリンデはしっかりと頷く。
『――はい。わたくしは師匠の教えを胸に、この力で大切な人を守ってみせます』
『守れるとよいな。きっと、今度こそは……』
師は、しばしアストリンデを見つめていた。
ヴェール越しに、その瞳の色まではわからない。けれどきっと、優しい眼差しをしているのだろうと、アストリンデは思った。
『今日はもう休む。長く話しすぎたようだ』
ふっと力を抜くように、師は言った。
『ですが――』
医者を呼ばなくてもいいのだろうか。
思わず口にしかけた言葉を、師はわずかに首を振って制した。
『よい。そなたも、色々と多忙になるだろう。無用なことに心をわずらわせるな』
その声音は穏やかで、どこか突き放すようでもあった。
『案ずるな。そなたが旅立つ日まで、魔法の修行は続ける』
『……わかりました。ではどうぞ、お体おいといくださいませ』
これ以上踏み入ってはいけない空気を感じ、アストリンデはドレスをつまんで一礼する。
『アストリンデ』
名を呼ばれ、思わず顔を上げたその瞬間。
師の指先が、そっとアストリンデの額に触れた。
ひやりとした感触が、一瞬だけ熱を帯びる。だが、その正体を探るより早く、師が言葉を重ねた。
『そなたの未来が明るいものであることを、切に願っておる』
それは祈りにも似た響きで、深くアストリンデの胸に残った。
――青い匂いを孕んだ風が、オパール色の髪を撫でる。
簡素なドレスを軽くからげながら、アストリンデは一歩一歩と草の上を踏みしめた。
城外には既に両親を始め大勢の人々がおり、他国へ赴く第二王女の見送りのため待機していた。
兵士たちは国旗を掲げ、鼓笛隊が賑やかに音楽を奏でる――。
その中に、師の姿はない。
歩みを進めたアストリンデは、両親の目の前で立ち止まり、静かに腰を落とした。
「お父さま、お母さま。そして――お姉さま。これまでお世話になりました。本日、わたくしはゼファー帝国へ旅立ちます」
「リンディ……。ゼファーでも、息災でな。落ち着いたら、手紙をよこしなさい」
父は、かすかに目を潤ませながらアストリンデの肩を優しく叩いた。
母もまた、鼻の頭を赤くしたまま、あえて厳しい口調で言う。
「あちらの方々にご迷惑をおかけしないように。王女として、常に恥ずかしくない振る舞いを心がけなさい」
「心配だわ。あなたは末っ子で甘やかされてきたから。天才魔女なんて呼ばれてるからって、調子に乗らないようにね?」
相変わらずの嫌みに、アストリンデは微笑を返す。
「ご助言ありがとうございます。そんな……才気溢れるお姉さまに比べれば、わたくしはまだ慢心するほどの身ではございませんので」
勝ち誇ったようなジルヴェナの笑みが、僅かに引きつる。
普段であれば癇癪を起こしていただろうが、さすがにこれだけ大勢の人々の手前、見苦しい姿を見せるわけにはいかないと思ったのだろう。
彼女は悔しげな顔をしながら、不満そうに口を噤んだ。
一通り見送りの人々と言葉を交わしたアストリンデに、レダが手を差し出す。
「アストリンデさま、そろそろ――」
アストリンデのもっともお気に入りの侍女である彼女は、前の人生同様、ゼファーでも身の回りの世話を焼いてくれることになっている。
だが、アストリンデはすぐには彼女の手を取らなかった。
代わりに、誰もいない方向に向けて深々と頭を下げ、静かに元の姿勢に戻る。
「行きましょう、レダ」
「は、はい」
優雅な礼に見とれていた誰もが、そのやりとりで我に返り――ふと、アストリンデの礼の先に何があったのだろうかと視線を巡らせる。
――そこにはただ、古く白い塔が、何事もなかったかのように静かに聳え立っていた。




