10.揺らぐ運命、ふたつの求婚
背筋を走る冷たいものに、思わず身震いした。
防御壁の綻びとは、すなわちパルシア王国の危機だ。
タリクは応急処置とはいえ、それを修復してみせた――。つまり、彼はパルシアに大き恩を売ったことになる。
『国を守るために何が必要か。陛下はすでにご理解なさっているでしょう』
あの言葉によって、彼は言外に匂わせた。
――ザハル・カルナにはパルシアを守る力がある。だから見返りとして、己とアストリンデとの婚姻を承諾しろと。
先ほどまでアストリンデの意思を尊重しようとしていた父王とて、国家の危機が具体性を帯びたことによって、考えを変えるかもしれない。
(嫌よ、そんなことは絶対に嫌)
タリクに嫁げば、ヴェスカルドを側で守ることも、将来彼との間に産まれてくるはずの子が宿ることもない。
せっかく時を戻ったというのに。
今度こそ、ヴェスカルドとの未来を守れると思ったのに。
どうしてこんなことに。
(わたくしが塔の魔女に弟子入りしたせいで、起こりえないはずの出来事が起こったというの……?)
だとすれば、運命の神はあまりにも残酷だ。
最愛の人を守る力を得ようとしたために、再びアストリンデから彼を奪おうとするなんて。
耳の奥で、潮騒のような音が響く。
全身の血の気が引き、瞬く間に景色が歪んだ。
意識が遠のき、沈みゆく中。
アストリンデは、誰かの優しいぬくもりが自身を抱き留めるのを感じていた。
§
「ヴェス兄さま、早く! 苺飴を食べましょう」
どこか遠くで、幼い自分の声が響いている。
声のするほうに視線を巡らせると、水を張ったようなぼやけた膜の向こう側に、ふたりの人影が見えた。
(幼い頃のわたしと……ヴェスカルド)
――ああ、これは夢だと、すぐにわかった。
まだふたりが婚約者同士だった頃。
ヴェスカルドはよく、アストリンデのために小さな贈り物をしてくれた。
この日の贈り物は苺飴。
皇宮のティールームで、アストリンデは彼が持ってきた苺飴に興味津々だった。
「わかったわかった、そんなに慌てないで」
興奮したアストリンデに手を引かれ、椅子に腰掛けたヴェスカルドは、小さく笑いながら苺飴の乗った皿を差し出す。
「ほら、どうぞ。飴が硬いから、口の中を怪我しないようにね」
「ええ!」
白い皿の上に並べられた苺は、飴を纏ってキラキラと輝き、宝石のようだ。
(よく覚えているわ。早く食べようと急かしたくせに、食べるのがもったいないとさえ思ったのよね)
ひとしきりその美しさを堪能した後、幼いアストリンデがフォークで刺した苺飴に思い切ってかじりつく。
飴と苺。どちらも珍しいものではない。
だけど、なぜ母国ではこの組み合わせを誰も思いつかなかったのかと、当時少しだけ悔しい思いをしたことも覚えている。
「とっても美味しいわ!」
「気に入ってくれてよかった。夏になったら、ラズベリーやブルーベリー、秋になったら林檎の飴も食べられるよ」
――秋になったら。
夏が過ぎ、秋になっても、こうしてヴェスカルドと共に過ごせる。
そのことを、当時のアストリンデは妙に面映ゆく感じたものだ。
けれど当時のヴェスカルドは、まさかアストリンデが彼の言葉に、それほど特別な思いを抱いていたとは知るよしもなかっただろう。
彼はアストリンデの喜びをよそに、蜂蜜を紅茶にひと匙、落としていた。
ああ、なんて美しい人なのだろう。
スプーンを持つ姿も、カップに口を付ける姿も、ただ椅子に座っているだけでさえ様になる。
「ヴェス兄さまは本当に素敵ね」
「んっ……、ごほっごほっ」
思わず本音を口にしてしまった幼いアストリンデに、ヴェスカルドは飲んだばかりの紅茶で少しむせたようだった。
膜の向こうの光景を傍観者として見つめながら、アストリンデは思わず苦笑してしまう。この頃の自分は本当に浅はかで、思ったことをすぐ口に出してしまったものだ。
「いきなりどうしたんだい?」
数度咳き込んだヴェスカルドが、困ったようにアストリンデを見る。
「いきなりじゃないわ。初めてお会いした時から思っていたのよ」
お世辞ではなかった。
今も昔も、アストリンデは彼を前にするといつだって、まるで一幅の絵画を見ているような心地になるのだから。
「……どうして――君はそう思うのかな?」
「どうして? ヴェス兄さまが素敵だからよ。静かな夜の色みたいな髪も、琥珀みたいな色のおめめも、レモンの匂いも、優しいところも全部素敵!」
「――そうか……。ありがとう、リンディ。君は、優しい子なんだね」
何かを言いかけ、そして別の言葉に言い換えたような妙な間があったことに、当時のアストリンデは気づけなかった。
だけど後年、彼はこう言っていた。
『無邪気な幼い婚約者の言葉が、確かに私の心の傷を癒やしてくれたんだよ』
――生母譲りの黒髪も、琥珀色の瞳も。
その瞬間まで、ヴェスカルドにとってそれらの色は、自身が『卑しい愛妾の子』であることを証明するものでしかなかったのだ――と。
だからこそ彼はあの時、わずかに言葉を詰まらせたのだ。
(ねえ、小さなアストリンデ。わたくしはあなたを、誇りに思うわ)
幼いアストリンデの無邪気な称賛が、孤独な彼の心をどれほど救ったのか。今の自分には、痛いほどわかる。
(運命の神よ。本当にいるのなら、どうかわたくしにもう一度、この人を救わせて」)
祈りが胸の奥で強く膨らんだ、その瞬間だった。
景色が、揺らぐ。
(待って……)
手を伸ばす。
声を上げる。
けれど、届かない。
きらめいていた苺飴の光も、紅茶の湯気も、絵の具に水を垂らしたように混ざり合って溶けてゆく。
ヴェスカルドの姿も、音も、すべてが光の中へ吸い込まれるように遠ざかっていった。
――次の瞬間。
意識がゆっくりと浮上する。
目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。
どうやら意識を失った後、自室の寝台へ運ばれたらしい。
天蓋布に覆われた寝台の中で起き上がろうとしたその時、低く抑えた声がアストリンデの耳を打った。
「……あのような皇子に、娘を嫁がせるなど……」
「……ですが、もはや我が国に……」
聞き慣れた声だった。
(お父さまと、お母さま……?)
天蓋布で隔たれ、ふたりの表情は見えない。
それでも、声からでも伝わってくる深刻な様子に、アストリンデは起き上がる機会を失い、眠ったふりをしたまま耳を澄ませた。
「防御壁が不安定な以上、我々はザハル・カルナの提案にすがりつく他ないかと――」
「王妃の気持ちもわかる。しかし、いかに大国の皇太子とはいえ、あの男は危うい。防御壁の綻びとて、あの男が仕組んだ茶番かもしれぬ」
「ですが……王宮魔法使いたちも、不審な細工などはなかったと申しております。タリク殿は確かに強硬ですが、まだ若く才気に溢れた皇太子。小国の王女に過ぎないアストリンデが嫁すには、申し分ない相手かと」
どうやらふたりは本格的に、タリクからの申し出について検討しているようだ。
現実的に考えて、母の言っていることには一理ある。
タリクとの縁談に二の足を踏んでいる父も、彼女の言葉に反論することができず、押し黙ってしまった。
「……提案がございます」
沈黙を破るように、控えめな声が上がる。
その時になってようやく、室内に両親以外の気配があることに気づいた。
(ヴェスカルド……)
天蓋布の向こうに目を凝らすと、確かに三人分の人影が確認できた。
意識を完全に失う直前、誰かに抱き留められた気がしたのだが、あれは彼だったのだろうか。
だが、今はまだ他国からの客人に過ぎない彼が、一体なぜここに。そして両親に、何を言おうというのだろう。
息を殺し、逸る鼓動を胸の上から押さえながら、彼の言葉をただ待つ。
ヴェスカルドは静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「アストリンデ王女を、私にお預けいただけませんか」




