01.運命の出会い
――紅鏡墜つ。
その報を聞いた時、アストリンデの世界はまさしく太陽を喪ったように、漆黒に塗りつぶされた。
小国パルシアと、大国ゼファー。
このたび、その二国間で縁談が結ばれることとなった。
パルシアは、決して大国というわけではない。
むしろ周辺諸国に比べると、吹けば飛ぶような小国だ。
にもかかわらずこの縁談が成り立ったのは、時の王同士が若き頃からの親友であったこと。そして、パルシアが希少な鉱石を産出する鉱山を有していたからだ。
ティティアと呼ばれるその不思議な鉱石は、あらゆる物の動力となる魔石だ。
長い年月の中で大地や空気中にある魔素を取り込み、蓄積し、それらを放出することで魔道具を動かす。
ティティアは非常に貴重な石で、採掘できる鉱山の数も限られている。
にも関わらずパルシアがこれまで侵略を受けずに済んだのは、王国の先祖である賢者たちのかけた防衛魔法のおかげだ。
遙か昔、この大地には大勢の魔法使いが存在した。
しかしその数は年月とともに減っていき、今となってはほとんどおとぎ話のような存在だ。
中でも一番有名なのは、パルシアの祖、偉大なる女王にして大魔女イヴレインだろう。彼女はティティアを狙う周辺諸国から祖国を守るため、自らの命と引き換えに国の周囲に大規模な魔法防御壁を張り巡らせた――といわれている。
しかし、イヴレインの逝去から三百年。
賢者と呼ばれた魔法使いたちが都度、強化はしてきたものの、今や防御壁はいつ消滅するかもわからない砂上の楼閣だ。長きにわたるパルシアの平穏な日々は、いつ来るかもわからぬ終わりを前に揺らいでいた。
そのため、現パルシア国王はかねてより親交のあった強国ゼファーに庇護を求めた。
見返りは年に一度、ゼファー帝国に三千ブラムのティティアを提供すること。そして友好の証に、第一王女アストリンデを皇太子の花嫁として送り出すこと。
大国の皇太子妃など、望んでなれるものではない。
ましてや、パルシアのような小国の王女にとっては夢のような話だ。
その上ゼファーの現皇帝は大層立派な人徳者で、息子である皇太子も聡明にして志高。眉目秀麗という評判そのままに、肖像画には月すらも嫉妬するような美少年が描かれていた。
しかし、そんなものはお決まりの誇張表現に決まっている。
現に宮廷画家がアストリンデを描いた際は、本人とは似ても似つかない大人の美女を描いていた。
アストリンデはまだ、十歳だ。
相手方には正確な年齢が伝わっているはずなのに、なぜそんな馬鹿げたことをするのか理解に苦しむ。
アストリンデは年のわりにませていて、家庭教師も舌を巻くほど賢い子供だ。しかしそれでも、自身の将来に関わるできごとを『王族の重要な役目』なのだと割り切るには、あまりに幼すぎた。
祖父王が勝手に決めた、本人の意思など一切介入しない結婚を、喜べるはずもない。
花嫁修業の名目でゼファー帝国に送り込まれることが決まった際。
ドレスや宝石に化粧道具、大量の積荷と共に馬車で祖国を離れる際。
道中、侍女のレダと共に旅籠で過ごした際。
アストリンデは身も世もなく泣き続け、ゼファー帝国に到着する頃には手持ちのハンカチをすべて使い切る勢いだった。
そうして城門を潜った後、皇帝夫妻に謁見するためにと、腫れた瞼を氷で冷やされ、赤くなった肌を隠すように大量の白粉まではたかれた。
重い盛装を引きずって謁見するアストリンデを、皇帝夫妻は優しく歓迎してくれたが、だからなんだというのだ。
「こんなところ、来たくなかった」
やさぐれながら足下の小石を蹴り飛ばす。
謁見を終えたアストリンデは、堅苦しい盛装をすぐさま脱ぎ捨て、気に入りのたんぽぽ色のドレスに着替えた。そしてレダの隙をついてひとりで部屋を抜け出し、庭園を勝手に散策していた。
ゼファー帝国の宮殿は白く、どこもかしこも美しく磨き上げられ、庭園には色とりどりの花が咲き誇っている。
小国であるパルシアとは比ぶべくもない豪奢さで、平時のアストリンデであれば大はしゃぎしたことだろう。
しかし今は、そのどれもが灰色に見える。
「おじいさまの意地悪、へんなヒゲ、わからずや……!」
誰も見ていないのをいいことに、少ない語彙を駆使して祖父王への悪態をついてみる。だが、そんなことをしても少しも気分が晴れない。
「お父さまとお母さまのところに帰りたい……」
故郷を遠く離れた今、両親はもちろん、祖父のあの変な形の巻きヒゲすら懐かしい。
とうとう木陰でうずくまり、再び涙を流し始めたその時だった。
「――君、どこの子? こんなところでどうしたの?」
突然に声をかけられ、驚いてぱっと背後を振り向くと、そこにはアストリンデより少し年上と思しき少年が不思議そうな顔をして立っていた。
たっぷりの絹布を使った白い外套と、揃いの白い服に、真っ青な帯。そして金色の飾り紐が印象的な、帝国様式の衣装。
後頭部でひとくくりにした髪は、夜を煮詰めたような闇色。
朝焼けを切り取ったような琥珀色の瞳には、はっきりと聡明な光が宿っている。
綺麗な色だと思った。
そして、それと同じくらいに美しい人だと。
(神さまが一番大切にしていたお星さまを落っことして、それが人の姿になったんじゃないかしら)
夢を見ているような心地になり、自然と涙が止まる。
(……だけど、どこかで見たことがあるような)
それがどこだったのか思い出そうと首を傾げるアストリンデに、彼は目元を和らげ、唇を優しい笑みに形作った。
そして腰をかがめ、視線を同じ高さにする。
木漏れ日に照らされた彼の瞳は、間近で見るとますますきらめいていて、宝玉のようだ。
「泣いていたの? 可哀想に。どこか痛いところはある?」
俯いたアストリンデの頬に残る涙の跡に気づいたらしく、少年はハンカチを取り出し、そっと肌を拭った。砂糖菓子に触れるような、優しい手つきだった。
お星さまの化身のような少年は、心も美しいようだ。
気安い口調と穏やかな雰囲気に、自然とアストリンデの警戒も解ける。
静かに首を横に振ると、彼は様子を窺うように周囲に目を配った。
「お付きの人は? それともお父上か、お母上とはぐれた? 私が連れていってあげよう」
どうやら彼はアストリンデを、親と共に登城して迷子になった貴族の娘か何かと勘違いしているらしかった。
同じ年の子供と比べると明らかに小柄な身体をひょいと抱え上げると、まるでふらつく様子も見せず、軽やかな足取りで歩き始める。
急に視界が高くなり、驚いたアストリンデは慌てて彼の首根っこにしがみついた。
少年からは、まるで夏の太陽を燦々と浴びた、レモンやジャスミンのような爽やかな香りがしていた。
両親とも、侍女たちとも全然違う匂いが、すぐ間近で香っている。
子供とはいえ王女として育った身であり、家族以外の異性とこれほどまでに密着したのは初めての経験だ。
自分は今、なんだかとんでもない状況に置かれているのではないだろうか。
布に覆われていた時にはわからなかった逞しい腕の感触に、ふと頬が熱くなる。
彼の腕から逃げ出したいような、どこかに隠れてしまいたいような心地になり、アストリンデはもぞもぞと身じろぎをした。
「ほらほら、暴れると危ないよ」
「あの、あの。わたし、あの、ずっと遠い国からきたの……」
緊張して上手く説明できず、ようやく紡いだ言葉がそれだった。
おずおずと顔を上げると、再び彼と目が合う。
少年は琥珀色の瞳を大きくまたたかせた後、じっとアストリンデを見つめ、やがて噛みしめるように言った。
「君が、アストリンデ王女なんだね」
戸惑いながら頷くアストリンデに、彼は恭しく頭を下げた。
「初めまして、私はヴェスカルド・ザイン」
聞き覚えのある、ありすぎる名前に、アストリンデは改めて相手を見る。
そういえば、肖像画に描かれていた皇太子はこのような容貌ではなかったか。
――肖像画より実物のほうが、ずっとずっと端麗だけれど。
「……あなたがこの国の皇太子さま? じゃあ、わたしの婚約者なの?」
ならばなぜ、先ほど皇帝夫妻と共に謁見の間にいなかったのだろうか。
「――うん、そうだね」
それに、答えるのに少し間が空いたのはなぜだろうか。相手が一瞬だけ苦しそうな顔をしたような気がした。
けれどはっきりと確かめるより早く、彼が話題を変える。
「今日からよろしくね、アストリンデ王女……だとちょっと堅いかな。うーん、もし君さえよければ、愛称で呼んでもいい?」
「は、はい……」
アストリンデの返事に、ヴェスカルドは安堵したように目元を細めた。
「ご家族からは、なんて呼ばれていたの?」
「リンディ……」
「リンディか。素敵な愛称だね」
何度も耳にしてきたはずの愛称だというのに、この美しい皇子の形良い唇が紡いだというだけで、特別な響きを帯びるような気がした。
胸の奥が妙にむず痒くなり、口角が勝手に上がりそうになる。それを堪えようと変に力を込めたせいで、きっと、とても妙な表情になってしまったはずだ。
「改めて、ゼファー帝国へようこそ」
アストリンデを片腕で支えたまま、 ヴェスカルドがもう片方の手を差し出してくる。大きな手のひらには、麗しい外見からは想像もできないほど、たくさんの剣胼胝があった。
「婚約者だとか難しいことはあまり考えず、まずは友達として仲良くしてくれると嬉しいな」
親しげな口調からは、慣れぬ国に来て寂しい思いをしている、年下の婚約者への深い気遣いが伝わってくる。
「……うん」
小さく頷くと、アストリンデは相手の手を握りしめた。
少し硬いけれど優しく、温かな手のひらだった。