第六十六章 滲む影
クレアマシスがオルヴェン領に滞在するようになって、数日が経った。
昼間はバナージュが感じた方角を中心に魔力の流れを調べて、夜はミカと情報を整理する。そんな日々が続いた。エルフ直轄領にも定期的に戻って、向こうの調査網と照合してくる。
その間もミカの日課は変わらなかった。
朝の修行、領主の仕事、パランとマオの稽古。
ただ、バナージュが感じる邪竜の匂いは少しずつ濃くなっていた。
「また強くなってる?」
朝の修行の後、ミカがバナージュに聞いた。
「昨日より少し」バナージュは山の方を向いたまま言った。「じわじわと、じゃ。急に強くなるわけではない」
「どこから来てるか分かった?」
「北西……エルフ直轄領を越えた先、ギエルの方角かもしれん。まだ確信はないが」
その日の夕方、クレアマシスが直轄領から戻ってきた。いつもより少し早い。
「調べが進んだ」
縁側に全員が集まった。エリカもくうを抱えて混ざった。クレアマシスの話を聞く時はいつもそうだ。エリカは言葉が全部分かるわけではないが、じっと聞いている。
「各国で魔力が変質した貴族は今のところ七人確認できた。ギエルに三人、リセイゴスに二人、ジンジュードとソロニスに一人ずつ」
「全部の国に」パランが眉を寄せた。
「ええ。ランダムではない。各国の中枢に近い位置にいる人間が選ばれている。王に近い者、軍を動かせる者、情報を持つ者」
「ヴェロニカさんの情報と一致する」ミカが言った。
「そう。ヴェロニカとも情報を共有した。ソーンの網と合わせると、接触した人物は一人に絞られてきた」
「誰?」
「まだ名前は掴めていない。でも各国を自由に行き来できる立場にいる。商人か、あるいは外交に関わる人間」クレアマシスは静かに続けた。「そしてその人物が最後に確認されたのは、ギエル北部よ」
バナージュが低く唸った。
「やはりギエルの方角か」
「可能性が高い。邪竜の残滓がどこかに眠っているとしたら、ギエルの北部、あるいはその近辺」
ミカは地図を思い浮かべた。ギエルの北部。クリスタルマウンテンがある方角だ。
「クリスタルマウンテンには関係ない?」
「バナージュ、あなたの縄張りに異変は?」
「クリスタルマウンテン自体は正常じゃ」バナージュはきっぱりと言った。「われが感じているのはもっと西、山脈の向こうの方角から流れてくる」
「なら別の場所ね」
トフィーが静かに言った。
『ギエルの北西に、古い遺跡があったはずよ。エルフの時代より前の、もっと古い時代の』
クレアマシスの目が動いた。
「……それは私も調べていた。古代の遺跡、邪竜の力が最初に大陸に現れた場所とされている。封印の七か所よりずっと古い」
「そこに残滓が?」ミカが聞いた。
「断言はできない。でも可能性は高い」
沈黙があった。
エリカがくうを抱え直した。くうが金色の目でゆっくりと瞬きをした。
エリカがミカを見た。
「ミカ、こわい?」
ミカは少し驚いた。エリカがそんなことを聞くとは思っていなかった。
「……少し」
「うん」エリカは頷いた。「でもみんないる」
それだけ言って、また前を向いた。
パランが小さく笑った。マオが「エリカすごい」と呟いた。
クレアマシスが立ち上がった。
「もう少し調べる。動くのはその後よ。ただ」
少し間があった。
「備えておいて。向こうも私たちの動きに気づいている可能性がある」
その夜、バナージュがミカのそばを離れなかった。
いつもは山で見張っているのに、この夜だけは縁側のすぐ外に座っていた。
ミカが声をかけると、バナージュは前を向いたまま言った。
「気のせいかもしれんが」
「何?」
「今夜、匂いが違う。遠くからではなく……もっと近い」
ミカは銀鞭を手に取った。
「どのくらい?」
「分からん。まだ遠い。でも」バナージュの瞳が細くなった。「動いている」
風が止んだ。
春の夜が、息を潜めた。
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