第六十三章 影の気配
春が深まるにつれて、イルタの村は活気づいていた。
交易路の分岐点にある村だけあって、暖かくなると商人の往来が増える。朝の市には見知らぬ顔が並んで、広場は一日中賑やかだ。ミカはここ数日、陳情の合間に窓から外を眺めては、この景色が好きだと思っていた。
領主になって半年。最初は戸惑うことばかりだった。
井戸の修繕に幾らかかるのか、街道の補修はどこに頼めばいいのか、隣村との水利の相談はどう進めればいいのか。ガッツ爺さんが丁寧に教えてくれなければ、どこから手をつけていいか分からなかっただろう。
でも今は少し、分かるようになってきた。
領民の顔が、少しずつ覚えられるようになってきた。
「ミカ様、今日の陳情はこれで全部です」
ガッツが書類の束を差し出した。ドワーフらしい頑丈な手つきで、ぱんと揃えて置く。
「ありがとう、ガッツさん」
ミカは受け取って、一枚一枚丁寧に目を通した。
東の農家から、今年の種まきに使う水路の整備を頼みたいという申請。村の外れに住む鍛冶師から、炉の建て直しの許可を求める書類。子供たちが遊ぶ広場の木が古くなったので、新しく植えたいという村長からの相談。
どれも小さなことだ。でもどれも、誰かにとって大事なことだ。
「水路の整備は来月頭に手配する。鍛冶師の炉は許可する。広場の木は……村長と一緒に選びたいな。何の木がいいか聞いてみて」
「承知しました」ガッツは満足そうに頷いた。「ミカ様、半年前とは見違えるようになられましたな」
「そうかな」
「最初はずいぶん緊張しておられましたから」
ミカは苦笑した。
「今でも緊張してるよ」
「それでよろしいのです」ガッツは皺だらけの顔で笑った。「緊張しなくなったら、慢心が始まりますから」
ガッツが部屋を出ていった後、ミカは窓の外を見た。
広場に市が立っている。子供たちが走り回って、犬が吠えている。商人が声を張り上げて、笑い声が響いている。
ルクス師匠がこの景色を見たら、何て言うだろう。
きっと何も言わない。ただ腕を組んで、少し目を細めるだけだ。
それでいい。それで十分だ。
「ミカー!」
窓の外から声が飛んできた。
エリカだった。広場の向こうから両手を振っている。くうを胸に抱えて、顔も手も泥だらけだ。また畑仕事をしていたらしい。くうは相変わらず揺られながら、静かにしている。
「何してるの!」
「はたけ!にんじんもうすぐとれる!」
「報告しなくていいよ!」
「えー!」
エリカはにこっと笑って、また畑の方へ駆けていった。その後ろをゾラが無言でついていく。半年経っても、ゾラはエリカのそばから離れなかった。それがゾラなりの生き方なのだと、今はミカも分かっていた。
トフィーが窓枠からエリカを眺めた。
『言葉、増えたね』
「うん。最近は長い文も話せるようになってきた」
『すごいね、エリカちゃんは』
「本当に」
くうの力のおかげか、エリカが育てる畑は驚くほどよく実る。ニンジンもカブも、普通の倍近い速さで育つ。村の人たちがエリカの畑を見に来るようになって、エリカはそれが嬉しくてたまらない様子だった。
夕食を終えて、村が静かになった頃。
ミカが書類の最後の一枚に目を通していると、山の方からどすんと重い音がした。
いつもと違う。
速い。乱暴だ。
バナージュが降りてきた。翼を畳む動作がいつもより荒くて、薄紫の瞳が鋭く細くなっていた。
「バナージュ?」
「ミカ」
その一言だけで、ミカは立ち上がった。バナージュがこんな声を出す時は、普通ではない。
「どうしたの」
「山の気配がおかしい」バナージュは低く言った。「三日前から薄く漂っておったが……今夜は強くなった」
「何の気配?」
「邪竜の匂いじゃ」
部屋が静かになった。
書類を持ったままミカは固まった。邪竜。封印は補強した。あの時、全七か所を確認した。なのに。
トフィーがミカの肩の上でぴんと耳を立てた。
『私も感じてた。ここ数日、なんとなく変な感じがして。でも気のせいかと思って言わなかった』
「言ってよ」
『ごめん』
「……封印は補強したのに」
「封印とは別の力かもしれん」バナージュは眉間に皺を寄せた。「大陸のどこかに、封じきれなかった力が残っておるとしたら」
ミカは窓の外を見た。夜の山が暗く沈んでいる。穏やかな夜のはずなのに、その奥に何か滲んでいる気がした。
静かな領地だ。エリカが毎日畑を耕して、パランとマオと修行して、ガッツ爺さんが書類を持ってくる。そんな日々が続いていた。
まだここを守れていない、とミカは思った。
いや、まだ何も起きていない。でも。
その時、水晶球が光った。
夜にヴェロニカから連絡が来るのは珍しい。ミカは急いで水晶球に手を当てた。
「ヴェロニカさん」
「ミカ、起きてた?」
いつもの涼やかな声だったが、その奥に何か張り詰めたものがあった。
「起きてます。どうしましたか」
「少し、気になる情報があって」ヴェロニカは静かに言った。「各国の貴族の間で、不審な動きがある。表向きは通常の外交なのだけれど、ソーンの情報網が引っかかった。複数の国の上位貴族が、同じ人物と接触している形跡がある」
「同じ人物?」
「まだ素性は掴めていない。でも……接触した後の貴族たちの様子が変わっているという報告が複数来ている。目の色が少し違う、と」
ミカはバナージュと目を合わせた。
目の色が変わる。魔人化の初期症状に似ている。
「ヴェロニカさん、バナージュが三日前から山に邪竜の匂いを感じてる。今夜は強くなったって」
水晶球の向こうで、ヴェロニカがしばらく黙った。
「……やはり」
「やはり、って」
「動きが出てくるとしたら、そろそろかと思っていた。ザルフが口封じされてから半年。黒幕が次の手を打ち始めてもおかしくない頃合いよ」
ミカは銀鞭を握った。聖炎の感覚が、手の奥に静かにある。
「どうすればいいですか」
「今すぐ動く必要はない」ヴェロニカは落ち着いた声で言った。「ただ、準備はしておいて。情報が揃ったら連絡する。ソーンの網を全力で動かすから」
「分かりました」
「ミカ」
「はい」
「一人で抱え込まないで」
ミカは少し驚いた。ヴェロニカがそんなことを言うとは思っていなかった。
「……はい」
水晶球の光が消えた。
部屋が静かになった。バナージュが山の方を向いたまま、じっと立っている。トフィーがミカの肩で丸くなった。
「バナージュ」
「何だ」
「今夜、見張っておいてくれる?」
「言われるまでもない」
ミカはしばらく窓の外を見ていた。
エリカが眠っている。パランとマオが眠っている。ゾラが眠っている。この村の領民たちが眠っている。
守りたいものがある。
だから、また立つ。
「トフィー」
『うん?』
「明日、パランに話す」
『そうしよう』トフィーは穏やかに言った。『でも今夜は寝て。ちゃんと寝ないと動けないから』
「うん」
バナージュの尾がゆっくりと揺れた。
夜が、静かに深まっていった。




