第五十五章 子爵の称号
リセイゴスから使者が来たのは、ガンドランドに戻って十日ほど経った頃だった。
幸運の尻尾亭の扉を叩いた使者は、丁寧に頭を下げてから言った。
「リセイゴス国王陛下より、ミカ殿にご連絡がございます。王都レイウォールへお越しいただきたいとのことです」
ミカは首を傾げた。
「私に?」
「はい。詳しくはお会いしてからとのことですが……パラン殿もご一緒にとのことです」
パランがミカを見た。その目が、何かを知っていそうな顔をしていた。
「パラン、知ってる?」
「……少し」
「少し?」
「行けば分かる」
パランは笑って視線を逸らした。
レイウォールの王宮は、夜に忍び込んだ時とは全く違う顔をしていた。
昼の光の中で見ると、石造りの壁が白く輝いて、庭の木々が風に揺れている。あの夜の緊張が嘘のようだ。
謁見の間に通されると、リセイゴス国王が玉座に座っていた。事件の後改めて見た。その表情は落ち着いていた。少しうれしそうな顔をしている。
「ミカ殿、よく来てくれた」
「はい、陛下」
「先日の件、改めて礼を言いたい。国王である私を救い出してくれた上に、大陸全土を脅かしていた教会の狂信者一派まで討伐してくれた。リセイゴスとして、それ相応の礼をしたい」
ミカは少し緊張した。
「お礼は結構です。やるべきことをしただけですから」
「それでも、だ」国王は静かに言った。「ミカ殿、あなたに子爵位を授けたい。領地はリセイゴス北部、パランの家族が住む村とその周辺を」
ミカは目を見開いた。
「子爵……」
「苗字もない一介の魔術師に爵位を与えることを、不思議に思う者もいるかもしれない。しかしそれ以上の働きをしてくれた。それは誰もが認めるところだ」
ミカはしばらく黙っていた。
苗字がない。苗字持ちは貴族の証。ルクスも、ミカも、苗字を持たない。それが当たり前だと思っていた。
「……パランの村が、領地に」
「そうだ。パランの家族もあの村にいる。あなたが領主になれば、パランも安心だろう」
パランが隣で頭を下げた。
「ミカ、受けてくれ。あの村の人たちも、きっと喜ぶ」
ミカは深く息をついた。
ルクスは苗字を持たなかった。でもルクスはミカに、自分の足で立てと言っていた。自分の力で、自分の道を切り開けと。
「……謹んでお受けします」
国王が笑った。
「では、ミカ・オルヴェン子爵として、よろしく頼む」
オルヴェン。
ミカは心の中でその名前を繰り返した。師匠の庵があったクリスタルマウンテンの麓、マモーラ村の古い言葉で「銀の光」を意味するとパランが後で教えてくれた。国王が選んでくれた名前だった。
レイウォールから戻ると、ガンドランドの面々が待っていた。
「どうじゃった?」
カリナが聞くと、ミカは少し照れながら答えた。
「子爵になりました」
一瞬の沈黙の後、カリナが破顔した。
「まあ!ルクスが聞いたら腰抜かすじゃろうな!」
「そんなことないと思いますけど」
「いやいや、あの子がのう」カリナは目を細めた。「苗字までもらって、りっぱになったのう、ミカちゃん」
ヴェロニカが静かに笑った。
「オルヴェン、か。いい名前ね」
「ありがとうございます」
エリカがミカの服を引っ張った。
「しゃくしょく?」
「子爵ね」
「なに?」
「えっと……偉い人のことかな」
エリカはしばらく考えた。
「ミカ、えらいの?」
「そういうことになったみたい」
エリカはふうんと頷いた。それから笑った。
「でもミカはミカだよ」
ミカは思わず笑った。
「そうだね。ミカはミカだよ」
バナージュが鼻を鳴らした。
「われはとっくに知っておった」
「何を?」
「お前が大したやつだということじゃ」
照れ隠しのような言い方だったが、ミカには十分だった。
その夜は久しぶりに賑やかな夜になった。ルーナが腕を振るって料理を並べ、パランが故郷の歌を歌い、カリナが昔話を語り、バナージュがおかわりを三度頼んだ。
エリカはヴェロニカの隣に座って、楽しそうに笑っていた。ヴェロニカはエリカの話を静かに聞きながら、時折小さく笑った。
いい夜だった。
その翌日だった。
ヴェロニカの元に、ソロニスからの伝令が届いた。
ヴェロニカが伝令を読む顔が、すうっと変わった。
「どうしました?」
ミカが聞くと、ヴェロニカはしばらく黙ってから言った。
「ザルフが死んだ」
部屋が静かになった。
「……裁判前に?」
「ええ。今朝、拘禁中に。毒だと思われる」
カリナの顔が引き締まった。
「口封じじゃな」
「そういうことね」ヴェロニカは伝令を畳んだ。「ザルフの口から何かが漏れる前に、誰かが動いた」
「つまり」パランが低く言った。「まだ上がいる」
誰も答えなかった。でも全員が同じことを考えていた。
教会の狂信者一派を動かしていた力。邪竜の力を呪具に変えていた技術。それはザルフ一人が作り上げたものではない。
もっと深いところに、何かがいる。
ミカは銀鞭を握った。
昨夜の温かさが、まだ胸に残っている。エリカの笑顔が、ヴェロニカの柔らかい表情が。
守りたいものがある。だからまだ終わっていなくても、立っていられる。
「今は」
ミカは静かに言った。
「今は、エリカのカブを食べよう。それから考える」
カリナが笑った。
「そうじゃな。腹が減っては戦はできんからのう」
ヴェロニカは少し間を置いてから、小さく頷いた。
「……そうね」
窓の外で、エリカとココルの笑い声が聞こえた。




