第四十八章 わたしのはたけ
ガンドランドに戻ったのは、夕暮れ時だった。
幸運の尻尾亭の扉を開けると、エリカがすっ飛んできた。
「ミカ!」
「ただいま」
ミカはエリカを抱き上げた。エリカがぎゅっとしがみついてくる。小さな体が温かい。
「おかえり」
耳元で小さく言った。それだけで、疲れが少し溶けた気がした。
ゾラが奥から出てきて、無言でミカたちを見回した。全員無事だと確認してから、短く頷いた。それだけだったが、十分だった。
ルーナが笑顔でお茶を出してくれた。
「お疲れ様。とりあえずゆっくりしていって」
久しぶりに、本当にゆっくりした夜だった。
三日ほど経った朝のことだった。
エリカが幸運の尻尾亭の裏庭をじっと見ていた。しゃがんで、土を指でつついている。
「エリカ、何してるの?」
「つち、いいにおい」
「そう?」
「ここ、はたけにしたい」
ミカはルーナに目を向けた。ルーナは笑って頷いた。
「いいわよ。裏庭、空いてるから」
エリカの目が輝いた。
「つくっていい?」
「もちろん」
エリカはしばらく裏庭を眺めていた。それから振り返って、真剣な顔でミカを見た。
「ヴェロニカさまに、きてほしい」
「え?」
「はたけ、みてほしい」
ミカは少し驚いた。エリカがヴェロニカを名指しで呼ぶとは思っていなかった。
「……ヴェロニカさん、今ソロニスで忙しいと思うけど」
「よぶ」
エリカはそう言って、ミカの手を引っ張った。魔術連絡の水晶球のある部屋へ。
「エリカが?」
「うん」
ミカは苦笑しながら水晶球の前に連れて行った。繋ぎ方を教えると、エリカは真剣な顔で水晶球を両手で包んだ。
しばらくして、水晶球がぼんやりと光った。
ヴェロニカの顔が映った。執務中らしく、書類を手にしていた。
「……誰かと思えば」
ヴェロニカが目を細めた。エリカを見て、わずかに表情が緩む。
「エリカ、どうしたの」
エリカは水晶球に顔を近づけて、はっきりと言った。
「わたしのはたけ、みにきて」
沈黙があった。
水晶球の向こうで、ヴェロニカが瞬きをした。それからアーティの笑い声が小さく聞こえた。
「……畑」
「うん。つくるの。みにきてほしい」
またしばらく沈黙があった。
「……分かったわ。都合をつける」
エリカはぱあっと笑った。
「やった!まってる!」
水晶球の光が消えた。
ミカはしばらく呆然としてから、笑い出した。
「エリカ、すごいね」
「ヴェロニカさま、くる?」
「来るよ、絶対」
ヴェロニカが到着したのは、五日後だった。
馬車から降りた瞬間、エリカが駆け寄った。
「きた!」
「来たわよ」
ヴェロニカは普段と変わらない涼やかな顔をしていた。でも馬車から降りる時、アーティがこっそりミカに耳打ちした。
「出発前から楽しみにしてたよ」
「言わないでくれ」
ヴェロニカが低い声で言った。
アーティは笑った。
エリカがヴェロニカの手を引っ張った。
「こっち、こっち」
裏庭に連れて行く。小さな区画に、エリカとココルが数日かけて耕した土が広がっていた。まだ何も植わっていない、ほかほかの畑だ。
「ここ」
エリカは誇らしげに言った。
「わたしの、はたけ」
ヴェロニカは畑を見た。それからエリカを見た。
「……よく耕せたわね」
「ココルもてつだってくれた」
「そう」
ヴェロニカはしゃがんだ。指先で土に触れた。しばらく、無言で土を見ていた。
「何を植えるの?」
「かぶと、にんじん。あとね」エリカは指を折りながら数えた。「トマトも、いちごも」
「欲張りね」
「うん」
エリカは全く悪びれなかった。ヴェロニカは小さく、本当に小さく笑った。
ミカはそれを遠くから見ていた。カリナが隣に並んだ。
「ええのう」
「うん」
「エリカちゃんはすごいね。あのヴェロニカさんを引っ張り出すんじゃから」
ミカは頷いた。
エリカがヴェロニカの手を取って、土の感触を触らせていた。ヴェロニカは最初少し戸惑った顔をしていたが、やがてそのまま土に手を埋めた。
「つちって、あったかいね」
エリカが言った。
「……そうね」
ヴェロニカの声が、少し柔らかかった。
アーティがミカの隣にそっと並んだ。
「ね」
「うん」
言葉はそれだけで十分だった。
夕暮れの光の中で、エリカの小さな畑が金色に輝いていた。
エリカの畑作りは、思ったより本格的だった。
朝早くから裏庭に出て、土を耕し、石を拾い、畝を作る。ココルが隣で手伝い、ルーナが時々顔を出して見守っている。エリカは一言も文句を言わず、ただひたすら土と向き合っていた。
「楽しそうだね」
ミカが縁側から眺めていると、トフィーが隣に座った。金色の毛並みが朝日を受けてきらきらしている。
『うん。でもね、ミカ』
「うん?」
『エリカちゃんの畑、少しおかしい』
ミカは目を細めた。
「おかしいって?」
『見てて』
トフィーが言った直後だった。
エリカが小さな手で土を撫でた。その瞬間、土がほんのりと輝いた。金色とも緑色ともつかない、淡い光だ。一瞬だけ。エリカは気づいていない様子で、そのまま鼻歌を歌いながら畝を整えている。
ミカは息を呑んだ。
「……今のって」
『アポロスの祝福じゃないよ』
トフィーの声が静かだった。
『もっと古くて、もっと深いもの。土に根ざした祝福。私には詳しく分からないけど……神獣として感じる。あれは地の力だよ』
ミカはしばらく黙ってエリカを見ていた。
エリカはまだ鼻歌を歌っている。土を触るたびに、ごくわずかに光が滲む。本人は全く気づいていない。
「カリナさん」
ミカは縁側の奥に声をかけた。
カリナがお茶を持って出てきた。
「なんじゃ」
「ちょっと見てて」
カリナはエリカの畑に目を向けた。しばらく眺めていた。エリカが土を撫でるたびに滲む淡い光を見て、カリナの目がすうっと細くなった。
「……ほう」
静かな声だった。
「トフィーが、アポロスの祝福じゃないって」
「そうじゃな」カリナはお茶を一口飲んだ。「これはテラじゃろ」
「テラ?」
「地母神テラ。土と実りを司る神様じゃ。レオニドス大陸では一番古い神の一柱と言われておる」カリナは目を細めたままエリカを見た。「ソロニスに本拠を置く、静かな神様じゃよ」
「エリカが土好きなのって、もしかして……」
「祝福のせいかもしれんな」
カリナはそれだけ言って、お茶を置いた。
「クレアマシスに連絡してみるかい。あの子なら詳しく調べられるじゃろ」
「お願いできますか?」
「任せておき」
カリナは立ち上がった。それからエリカの方をもう一度見た。
エリカはちょうど畝の端に座り込んで、両手で土を掬っていた。さらさらと指の間から零れ落ちる土を、嬉しそうに眺めながら。
「不思議な子じゃのう」
カリナの声は柔らかかった。
「うん」
ミカも頷いた。
裏庭に、朝の光が満ちていた。
よろしければ、評価、ブックマークよろしくお願いします。




