第四十四章 聖炎ホーリーフレイム
男が呪具を握った瞬間、部屋の空気が変わった。
黒い靄が男の体を包み始める。ゆっくりと、しかし確実に。残りの二人が慌てて部屋の隅に退いた。
「止めて」
ミカは銀鞭を構えながら一歩踏み出した。
「その呪具を手放せば、まだ間に合う」
男は答えなかった。ただ静かに笑った。
「聖魔術師が直々に来るとは。教会本部も本気になるだろうな」
黒い靄が膨れ上がった。
男の輪郭が歪む。背が伸び、腕が太くなり、目の色が濁った黄金に変わっていく。声が低く、獣じみたものに変わっていった。
完全な魔人化だった。
「ヴェロニカさん、下がって!」
ミカは銀鞭を振った。聖魔術の光が走り、魔人の腕を弾く。しかし魔人は怯まなかった。そのまま壁を砕くような拳を叩きつけてくる。
ミカは転がって避けた。石の床に亀裂が走る。
「っ、硬い……!」
聖魔術の光が通っている。しかし魔人化が深すぎる。浄化が追いつかない。
「アーティ!」
ヴェロニカが叫んだ。
扉が弾け飛んだ。アーティが飛び込んできた。赤と金の炎が一気に部屋を満たす。イモータルフレイムが魔人を包んだ。
魔人が初めて怯んだ。
しかし次の瞬間、魔人の黒い靄がイモータルフレイムに対抗するように膨れ上がった。炎を押し返す。アーティが一歩、二歩と後退した。
「くっ……」
ミカは目を見開いた。
アーティが苦戦している。あのアーティが。
イモータルフレイムが揺れていた。赤と金の炎が黒い靄に侵食されながらも、それでも消えずに燃え続けている。必死に、燃え続けている。
その炎が、ミカの目に焼きついた。
消えない炎だ。
どれだけ押されても、どれだけ侵食されても、その芯だけは揺るがない。赤と金の、小さな核が、黒の中でまだ輝いている。
ミカの胸の奥で、何かが動いた。
熱い。
銀鞭を握る手が熱くなった。胸の奥から何かが込み上げてくる。聖魔術の光とは違う。もっと深いところから来る、別の何かだ。
『ミカ』
トフィーの念話が遠くから届いた。
『出してあげて。ずっとそこにいたんだよ』
ミカは目を閉じた。
あの炎の芯を思い浮かべた。消えない炎。どれだけ押されても燃え続ける炎。
私にも、ある。
ずっとここにあった。
目を開けた瞬間、銀鞭が白く輝いた。
銀白の炎だった。
目を開けた瞬間、ヴェロニカが息を呑んだ。
ミカの黒髪が、根元から銀白に染まっていく。黒い瞳が、静かに銀色へと変わっていった。いつもの銀の兆しとは違った。あの時よりも深く、あの時よりも長く、まるでそれが本来の色だったかのように。
銀鞭が白く輝いた。
銀白の炎だった。
聖魔術の光とは違う。もっと静かで、もっと深くて、しかし確かに燃えている炎。銀鞭の全体を包んで、静かに揺れている。
アーティがこちらを振り向いた。その赤い瞳が大きく見開かれた。
「……それは」
ミカは一歩踏み出した。
銀白の炎を纏った鞭を、大きく振りかぶる。
「ホーリーフレイムウィップ」
鞭が魔人を捉えた。
銀白の炎が黒い靄を包んだ瞬間、靄が悲鳴のように収縮した。浄化の炎が内側から広がっていく。魔人が膝をついた。黒い靄が剥がれ落ちるように消えていく。
やがて、男が床に倒れた。
呼吸している。生きている。
部屋が静かになった。
ヴェロニカが息をついた。アーティがゆっくりとミカに近づいてきた。その赤い瞳が、銀白の炎をじっと見つめている。
「……よく覚醒したね」
静かな、でも温かみのある声だった。
「アーティのおかげだよ」
アーティは少し目を細めた。何も言わなかったけれど、その表情が全てを言っていた気がした。
銀白の炎が、ゆっくりと静まっていった
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