第三十四章 村の夜
村に戻ると、老人が入口で待っていた。
一行の姿を見て、それから神殿の方向を見た。いつも黒い靄が漂っていた南の空が、今夜は澄んでいる。
「終わったのかい」
「はい」ヴェロニカが答えた。「しばらく魔物は出ないはずです」
老人が深く息をついた。
「そうか……」
その一言に、長い疲労が滲んでいた。
「村長はいますか」ヴェロニカが聞いた。「皆さんに伝えたいことがあります」
「すぐ呼ぶ」
村の集会所に、村人たちが集まった。
二十人ほどだ。老人が多いが、若い夫婦や子供もいる。皆、疲れた顔をしていた。三日間、家に閉じこもっていたらしい。
村長が老人よりさらに年配の、腰の曲がった女性だった。ヴェロニカを見て、目を細めた。
「ソーン家のお嬢さんか。久しぶりだね」
「ご無沙汰しています」
「お母さんに似てきた」
ヴェロニカが少し止まった。
「そうでしょうか」
「そうだよ。目の強さがそっくりだ」村長が集会所を見回した。「皆、聞いてくれ。神殿の魔物は片付いたそうだ」
どよめきが起きた。
「本当かい」
「しばらくは大丈夫だ」
安堵の声が広がった。子供が母親にしがみついて、老人が目を閉じた。
ミカはその様子を、入口の近くから眺めていた。
トフィーが念話を飛ばしてきた。
『よかったね』
「うん」
魔物に怯えていた村人たちが、少しずつ表情を取り戻していく。それだけのことだった。でもそれだけのことが、今日ここまで来た意味だと思った。
ヴェロニカが村長と話していた。
静かな声で、丁寧に話していた。昨夜の幸運の尻尾亭での、底の見えない貴族の顔ではなかった。もっと素に近い顔だ。
アーティがミカの隣に来た。
「ミカさん、体は大丈夫ですか」
「力は使い果たしましたけど、痛みはないので」
「それは良かった」アーティが静かに集会所を見渡した。「ヴェロニカ様は、この村の人たちのためならどんなことでもします」
「そう見えます」
「当主になってから、ずっとそうです」アーティが言った。「自分のことは後回しにして、領民のことを先に考える。それがこの人の在り方です」
「後回しにしすぎて、孤独になったんですね」
アーティが少し間を置いた。
「……そうかもしれません」
「アーティさんは、ずっとそれを見てきたんですね」
「はい」アーティが静かに言った。「私にできることは限られています。傍にいること、正直に言うこと、それくらいしかできない」
「十分だと思います」
アーティがミカを見た。
「そう思いますか」
「傍にいてくれる人がいるって、大事なことだから」
アーティが静かに微笑んだ。
その笑みが、アーティの炎のように温かかった。
村長が宿を用意してくれた。
村に宿屋はない。村長の家の離れだ。広くはないが、清潔で温かかった。
夕飯も用意してくれた。素朴な料理だったが、村人たちが持ち寄った食材で作ったと聞いた。
「こんなに気を遣っていただかなくていいのに」ミカが言うと、村長が笑った。
「ソーン家のお嬢さんが連れてきた子たちじゃないか。もてなすのは当然だよ」
食卓を囲んだ。
バナージュは部屋の隅に座って、黙って食べていた。その皿がまた、いつの間にか空になっていた。村長が嬉しそうにおかわりを盛った。バナージュが一瞬だけ戸惑った顔をして、それから静かに受け取った。
トフィーが村の子供たちに囲まれていた。
金色の毛並みをめずらしそうに撫でる子供に、トフィーが念話を飛ばしていた。当然子供には届かないが、トフィーは満足そうにしていた。
カリナが村長と酒を飲んでいた。
「百年前にここへ来たことがあってのう」
「百年前?」村長が目を丸くした。
「わしは不老じゃから」カリナがあっさり言った。「その頃はまだ小さな集落だったが、今は立派な村になっておるのう」
村長が笑った。
「百年前から見ていてくれたのかい」
「たまにじゃがな」
ヴェロニカが村長の隣で、静かに食事をしていた。
昨日までの貴族の顔ではなかった。でもくつろいでいるわけでもない。どこか、落ち着いた場所に戻ってきたような顔だ。
ミカが隣に座った。
「美味しいですね」
「そうですね」ヴェロニカが答えた。「この村の料理は、いつ来ても温かい」
「よく来るんですか」
「年に一度か二度。視察という名目ですが」ヴェロニカが静かに言った。「来ると、少し楽になります」
「なぜですか」
「ここの人たちは、私をソーン家の当主としてではなく、ヴェロニカとして見てくれるので」
ミカはその言葉を、少し考えた。
当主として見られ続けることの重さ。ソーン家の当主、諜報の一族の頭。そういう目で見られ続けると、自分がどこにいるか分からなくなるのかもしれない。
「この村が、唯一ヴェロニカさんでいられる場所なんですね」
ヴェロニカが少し止まった。
「……そういう言い方をされたのは初めてです」
「違いましたか」
「違いません」ヴェロニカが静かに言った。「正確すぎて、少し驚きました」
アーティが向かいの席から、静かに二人を見ていた。その目が、温かかった。
食事が終わって、村人たちが帰り始めた。
子供たちがトフィーに別れを惜しんでいた。一人の女の子がトフィーをぎゅっと抱きしめて、トフィーが念話で何かを言っていた。当然届かないが、女の子が笑った。
バナージュが外に出た。
夜風に当たっているらしい。ミカも外に出た。
村の夜は静かだった。虫の声がして、遠くで川の音がする。空に星が多い。
バナージュが空を見上げていた。
「バナージュ」
「なんだ」
「今回の旅、どうだった?」
「どう、とは」
「初めての遠出。クリスタルマウンテンから離れて、色々な場所に行って」
バナージュが少し間を置いた。
「悪くなかった」
「それだけ?」
「……思ったより、外は広い」
ミカは少し笑った。
「そうだね」
「守護者として山に留まることが全てだと思っていたが」バナージュが静かに言った。「外に出て動くことも、守ることに繋がると分かった」
「よかった」
「お前がいなければ外に出なかった」
「トフィーがいなければ私もここにいなかったよ」
トフィーが離れから念話を飛ばしてきた。
『呼んだ?』
「呼んでない」
『そっか』
バナージュが鼻を鳴らした。
後ろから足音がした。
ヴェロニカだった。
外の空気を吸いに来たらしい。ミカとバナージュに気づいて、少し止まった。
「邪魔でしたか」
「いいえ」
ヴェロニカが並んで、空を見上げた。
三人で、しばらく黙って星を見た。
「ミカさん」
「はい」
「今日、ありがとうございました」
「お礼を言うのはこっちです。ヴェロニカさんが来てくれなければ、ここまで来られなかった」
「私が訪ねたのは、利用しようと思ったからです」
「知ってます」
「それでも、ですか」
「それでも」ミカが答えた。「来てくれたことは本当のことだから」
ヴェロニカが少し黙った。
「……あなたは不思議な人ですね」
「よく言われます」
「そういう意味ではなく」ヴェロニカが静かに言った。「底が見えない、という意味です。私が言えた義理ではありませんが」
バナージュが静かに言った。
「この子はそういう子だ」
ヴェロニカがバナージュを見た。
「守護者がそう言うのですか」
「われが認めた人間だ」
ヴェロニカが少し目を丸くした。それから静かに笑った。
昨日の幸運の尻尾亭で見た、素に近い笑みだった。
「そうですか」
星が流れた。
三人が同時に見た。
「流れ星」ミカが言った。
「珍しい」ヴェロニカが静かに言った。
バナージュが黙って見ていた。
トフィーが離れから念話を飛ばしてきた。
『見えた!幸運が来るよ』
「幸運の神獣が言うなら本当だね」
『本当だよ』
ヴェロニカが夜空を見上げたまま、静かに言った。
「幸運、か」
その声が、いつもより少しだけ柔らかかった
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