第三十三章 古い神殿
村を出て、南に向かった。
草地を踏み分けて進む。夕暮れの赤い光が、前方の木々を染めている。風が出てきて、草が波のように揺れた。
ヴェロニカが先頭を歩いていた。迷いのない足取りだ。この場所を知っている者の歩き方だ。
「神殿には以前来たことがあるんですか」
「一度だけ。当主になった直後に、母の記録を辿って来ました」ヴェロニカが答えた。「その時は何も異常はありませんでした」
「ソーン家は封印のことを知っていたんですか」
「記録には残っていました。ただ詳しい性質までは分からなかった。古い神殿の地下に、触れてはいけない場所がある、という程度の記述で」
「それがまさか邪竜の封印だったとは」
「ええ。バナージュ殿に説明してもらうまで、そこまでは分かりませんでした」
上空からバナージュが降りてきた。人型に戻って、一行に並んだ。
「気配を探った。神殿の周囲に黒い靄の個体が七匹。神殿の中にも気配がある」
「中にも」
「二人分の人の気配がする。神殿の奥だ」
ヴェロニカが目を細めた。
「配置者が中にいるということですね」
「そうだ。しかも」バナージュが静かに言った。「封印の気配が、今まで見てきた中で一番弱まっている。ほとんど残っていない」
「急がないと」
「ただし焦りは禁物だ」バナージュがミカを見た。「今まで通り、順番に片付けろ」
「分かりました」
木々が開けた。
神殿が姿を現した。
石造りの建物が、草木に半分飲み込まれていた。壁に蔦が絡まって、屋根の一部が崩れている。かなり古い建物だ。でも基礎はしっかりしていて、まだ形を保っている。
入口の石段の前に、黒い靄を纏った魔物がいた。
ウルフ型が三匹、ボア型が二匹、そして見たことのない形が二匹。鳥のような翼を持った、黒い靄だらけの個体だ。
「あの翼の個体は?」
「呪具の影響が強い個体だ」バナージュが言った。「普通の魔物が変質している。気をつけろ」
ヴェロニカが右手の手袋を外した。
その手が剣の柄を握った。いつの間に抜いたのか、細身の剣が夕暮れの光を受けて輝いていた。
「私が外の個体を引き受けます。ミカさんは中へ」
「一人で七匹を?」
「アーティがいます」
アーティが静かに一歩前に出た。
その瞬間、アーティの姿が変わった。
人型のままだが、纏う空気が変わった。背中から炎が溢れた。赤と金の炎が、翼のように広がっていく。
イモータルフレイムだ。
ミカは息をのんだ。
赤と金の炎が、夕暮れの空に映えている。熱が伝わってくる。でも焼けつくような熱ではなく、深くて、力強くて、生命に満ちた炎だ。
「行きましょう、ヴェロニカ様」
「ええ」
ヴェロニカとアーティが動いた。
流れるような動きだった。ヴェロニカの剣が弧を描いて、一番手前のウルフ型の靄を払う。アーティのイモータルフレイムが翼の個体に向かった。赤と金の炎が、黒い靄を一瞬で焼き払った。
「行くぞ、嬢ちゃん」カリナが言った。
「はい」
ミカはカリナと共に神殿の入口へ走った。
石段を駆け上がって、崩れかけた扉を押し開ける。
中は暗かった。
でも奥から、黒い光が滲んでいた。
神殿の中は広かった。
かつては礼拝堂だったらしい場所を抜けて、奥へ進む。石の床に埃が積もっていて、足音が響いた。
壁に古い彫刻が並んでいた。人の形をした像が、両手を広げている。どの宗教の神殿かは分からないが、邪竜とは関係がなさそうだ。もっと古い時代の建物だ。
「地下はどこでしょう」
「奥に階段があるはずです」カリナが言った。「封印は地下に作られることが多い。地の力を借りるためじゃ」
奥に進むと、床に向かって降りる石段があった。
黒い光がそこから漏れていた。
ミカは銀白の鞭を構えた。カリナが鞭をしまって、素手の構えを取った。
石段を降りた。
地下は、礼拝堂より低い天井の、狭い部屋だった。
中央に台座があった。
これまで見てきた封印の台座とは違う。大きさが倍以上ある。紋様が複雑で、何重にも重なっている。そしてその台座が、完全に黒く染まっていた。
光が、一切見えなかった。
台座の前に二人の人影があった。
黒いローブだ。一人は呪具を手に持っていて、もう一人は台座に向かって何かをしていた。
「止まれ」
ミカが言うと、二人が振り返った。
一人は今まで見てきた配置者と同じような顔をしていた。でももう一人が違った。
四十代くらいの男だ。顔に自信が漲っていて、ローブの胸に刺繍が入っている。ただの末端ではない。
「聖魔術師か」男が言った。声が落ち着いていた。「思ったより早く来たな」
「あなたは」
「ソロニス支部の指導者だ」
カリナが静かに言った。
「末端ではなく、指導者が直接動いているとは。それだけここが大事な場所ということじゃな」
「そうだ」男が台座を見た。「ここが最後の要だからな。ここの封印さえ崩れれば、あとは時間の問題だ」
「させません」
ミカが銀白の鞭に聖魔術を乗せた。
光が鞭を包む。男がそれを見て、少し目を細めた。
「聖魔術師が本当にいたとは。しかし間に合わない。封印はもう限界だ」
「限界でも、まだ残っている」
ミカは台座を見た。
光が見えない。でも台座に手を当てれば分かるかもしれない。谷間の封印の時も、ほとんど光が残っていなかった。でも温もりがあった。
男がもう一人に向かって言った。
「抑えろ」
もう一人が呪具を構えた。黒い靄が膨れ上がって、部屋の中に広がってきた。
カリナが動いた。
鞭が呪具を叩いた。乾いた音が地下に響いて、呪具が吹き飛んだ。
男が剣を抜いた。
「私の相手はあなたですよ」カリナが静かに言った。「嬢ちゃんは台座へ」
「カリナ、一人で」
「二人相手でも問題ないじゃよ」カリナがにやりとした。「百年以上伊達に生きておらん」
ミカは一瞬迷った。でもカリナの目が真剣だった。
「分かりました」
ミカは台座に向かった。
男が叫んだ。
「邪魔をするな」
男がミカに向かってきた。でもカリナが間に割り込んだ。鞭が男の剣を弾いて、もう一人の動きを同時に封じた。
さすがだった。
ミカは台座に手を当てた。
冷たかった。
今まで感じてきた冷たさとは違う。温もりが、全く感じられなかった。
「……まずい」
焦りが来た。
でもカリナの言葉が頭に浮かんだ。焦りは判断を狂わせる。
深呼吸した。
目を閉じた。
もっと深く探る。谷間の時に踏み込んだ、あの深い場所を探す。封印の奥の奥、まだ残っているはずの何かを。
冷たさの奥に。
あった。
針の先ほどの、かすかな温もりだ。ほとんど消えかけている。でも確かにある。
「まだいる」
ミカは体の奥の一番深い場所から、力を引き上げた。
谷間の時に踏み込んだ深さより、さらに下。今まで触れたことのない場所だ。
力が溢れてきた。
鞭から光が滲み出した。体全体から、銀白の光が漏れ始めた。
髪が銀色に変わっていく感触があった。瞳が変わる感触がある。
台座に力を流し込んだ。
今まで経験したことのない量の力が、台座の紋様に流れ込んでいく。黒く染まった紋様が、内側から押し流されていく。
台座が震えた。
「な」
男の声が聞こえた。
光が、台座から溢れた。
銀白の光が地下の部屋を満たして、壁の石一つ一つを照らした。紋様が完全に輝いて、複雑な模様が鮮明に浮かび上がった。
どこかで聞いたことのない音がした。
低くて、深くて、地の底から来るような音だ。封印が、元の強さを取り戻した音だった。
ミカはその場に崩れ落ちた。
膝をついて、手を台座についた。
力を使い果たした。
「嬢ちゃん!」
カリナの声がした。
「大丈夫です。ちょっと……立てないだけで」
カリナが男たちを捕縛しながら、ミカを見た。
その目が、驚いていた。
「髪が」
「銀色になってますよね」
「ああ。今まで見た中で一番強く光っておった」
ミカは台座を見上げた。
銀白の光が、静かに輝いている。今まで補強した封印の中で、一番強い光だ。
「間に合った」
「間に合ったのう」カリナが静かに言った。
地下に静寂が戻った。
地上に出ると、夜の空気が冷たかった。
石段を上がって振り返ると、神殿の入口から銀白の光がかすかに漏れていた。
ヴェロニカが石段の下に立っていた。剣を鞘に収めたところで、その手にわずかに血が滲んでいた。
「終わりましたか」
「はい。封印を補強できました。配置者も、カリナが捕縛しています」
「……そうですか」
ヴェロニカが神殿の方を見た。光が漏れているのを確認して、小さく息をついた。
アーティが隣に立っていた。イモータルフレイムの余韻が、夜の空気の中にまだ漂っている。外の魔物は全て討伐されていた。
「アーティさん、怪我は」
「ございません」アーティが微笑んだ。「ヴェロニカ様も無事です」
その時、上空から風を切る音がした。
バナージュが降りてきた。大きな翼が夜の空気を押しのけて、草地に着地する。人型に戻りながら、ミカを見た。
「終わったか」
「終わりました」
「上から光が見えた。今まで見た中で一番強かった」
トフィーがバナージュの肩から飛び降りて、ミカの足元に駆け寄った。
『ミカちゃん、大丈夫? 髪が銀色になってるのが上からでもわかったよ』
「そんなに光ってたんだ」
『うん。すごく綺麗だった。でも心配した』
「大丈夫。ちょっと立てないだけで」
『それは大丈夫じゃない』
バナージュがミカの隣に来て、無言で肩を貸した。
「ありがとう」
「礼はいらん」
アーティがバナージュを見た。それからトフィーを見た。
「改めて言うが、神獣が三体揃うのは珍しいですね」
バナージュがアーティを見た。
「フェニックスは初めて見た」
「クリスタルドラゴンも初めてです」アーティが静かに言った。「聖銀の鞭の光、遠くからでも感じた」
「われの感知にもフェニックスの炎は届いた。強い炎だ」
「お褒めいただき光栄です」
トフィーが二体の神獣を見上げた。
『仲良くなれそう?』
バナージュが鼻を鳴らした。
「仲良くという言葉が合うかは分からんが、悪くはない」
アーティが微笑んだ。
「同じく」
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