第三十二章 南へ
出発は翌朝だった。
幸運の尻尾亭の前に、馬車が止まっていた。
黒塗りの落ち着いた馬車だ。ソーン家の紋章は入っていない。御者台に座っているのも、地味な旅装をした男だ。ヴェロニカが目立たないよう気を遣っているのが分かった。
ルーナとココルが見送りに出てきた。
ココルがミカの手を握った。
「また帰ってくるよね」
「帰ってくる。約束する」
「お土産はソロニスのやつで」
「覚えておく」
ルーナがミカの肩を軽く叩いた。
「気をつけてね」
「はい」
ヴェロニカがルーナに向かって、静かに頭を下げた。
「お世話になりました」
「またいつでも来てください」ルーナが微笑んだ。「ソーンさんも」
ヴェロニカが少し意外そうな顔をした。それからゆっくりと、柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
一行が馬車に乗り込んだ。ミカ、カリナ、ヴェロニカ、アーティが馬車の中へ。バナージュとトフィーは別だ。
「バナージュは?」
「上空から追う」バナージュが言った。「竜が馬車と並んで飛んでいては目立つ。街道を外れた高度を保って追いかける」
「トフィーは?」
「われが運ぶ」
トフィーがバナージュの肩に乗った。
「よろしくね、バナージュ」
「……重いぞ」
「失礼な」
カリナがそれを見て笑いながら馬車に乗り込んだ。
扉が閉まって、馬車が動き出した。
ガンドランドの石畳から、街道の土の道に変わった。
馬車の揺れが変わる。窓から見える景色が、街から野原に変わっていく。
馬車の中は、最初しばらく静かだった。
向かい合わせに座って、ヴェロニカが窓の外を見ている。カリナは目を閉じて、眠っているのか考えているのか分からない。アーティが静かに座っている。
ミカが口を開いた。
「ヴェロニカさん、ソロニスの南部ってどんな場所ですか」
ヴェロニカが視線を戻した。
「農業が盛んな地域です。大きな川が流れていて、土地が肥えている。ソロニスの穀倉地帯と呼ばれています」
「豊かな場所なんですね」
「農業は豊かです。でも南部の端、神殿に近い場所は少し違う。川から遠くて、土地が痩せている。小さな村が点在しているだけです」
「ヴェロニカさんのご領地は、その辺りですか」
「ソーン家の本領はソロン近くにあります。南部の村々はいわば飛び地のようなものですが、代々守ってきた土地です」
「なぜ守ってきたんですか、飛び地なら手放すこともできたでしょう」
ヴェロニカが少し間を置いた。
「先代当主、私の母が守ると決めた土地だからです」
「お母さんが」
「南部の村を救ったことがある。昔、大きな魔物の群れが出た時に、ソーン家が単独で討伐した。それ以来、あの村の人たちはソーン家を信じてくれています」
「お母さんはもう」
「十二年前に亡くなりました」ヴェロニカが静かに言った。「それで私が当主になった」
「若くして当主になったんですね」
「二十代前半でした」ヴェロニカが窓の外を見た。「慌ただしかった」
それ以上は言わなかった。
ミカも聞かなかった。
カリナが目を閉じたまま言った。
「ソーン家の当主は歴代、孤独な仕事じゃったと聞いたことがある」
「カリナさんはソーン家をご存知なんですか」
「百年以上生きておると、色々知っておるもんじゃよ」カリナが目を開けた。「ソロニスの目、という呼び名は、少なくとも百年前にはすでにあった。長い歴史じゃな」
「ご存知でしたか」
「知っておった。でも直接話したのは初めてじゃ」カリナがヴェロニカを見た。「お母さんとも面識はなかった。ソーン家は表に出ない一族じゃからのう」
ヴェロニカが少し目を細めた。
「そうです。表に出ない。それがこの家の在り方です」
「でも今回は表に出た」
「……仕方のない事情がありましたから」
アーティが静かに言った。
「一人で抱えるには、限界もありました」
ヴェロニカがアーティを見た。
「アーティ」
「事実です」
「……そうですね」
ヴェロニカが珍しく、あっさりと認めた。
ミカはその様子を見ながら、窓の外を眺めた。街道沿いに畑が広がっている。麦の穂が風に揺れている。のどかな景色だ。
「ヴェロニカさん」
「なんでしょう」
「封印を補強したら、村の魔物は減りますか」
「そう思っています。呪具が除去されれば、黒い靄を纏った個体は消えるはずです」
「なら急ぎましょう」
ヴェロニカがミカを見た。
「急ぐのは構いませんが、無理はしないでください。あなたに倒れられては困る」
「倒れません」
「ジンジュードで相当力を使ったと聞いています」
「聞いてたんですか」
「情報収集はソーン家の仕事ですから」ヴェロニカが静かに言った。「あなたが封印の補強をするたびに体力を消耗しているのは分かっています。ソロニスでは私も動きます。一人で全部背負わなくていい」
ミカは少し驚いた。
「ヴェロニカさんが戦えるんですか」
「ソーン家の当主として、一通りのことはできます」ヴェロニカが手袋をした右手を見た。「それがこの家に生まれた者の義務ですから」
アーティが補足した。
「ヴェロニカ様は特に剣が得意です。ソーン家の中でも屈指の腕前と言われています」
「アーティ、余計なことを」
「余計ではありません。ミカさんに知っておいていただく方が、作戦を立てやすいでしょう」
ヴェロニカが小さく息をついた。カリナがくすくすと笑った。
二日目の昼過ぎ、ギエルとソロニスの国境を越えた。
大きな川があった。川幅が広くて、水量が多い。橋の上を馬車がゆっくりと渡る。
川を越えると、景色が変わった。
平らな土地が広がっている。畑が続いて、農家の建物が点在している。空が広い。ガンドランドの山がちな景色とは全然違う。
「ソロニスに入りました」ヴェロニカが言った。
「広いですね」
「農業国ですから、平地が多い」
街道を南に向かって進んだ。大きな街をいくつか通り過ぎた。ヴェロニカが御者に指示を出して、街の中心を避けるように進んだ。目立たないための工夫だ。
三日目の朝、街道が細くなってきた。
畑が少なくなって、草地が増えた。土の色が変わって、少し赤みがかっている。川から遠い土地の色だ。
「もうすぐです」ヴェロニカが言った。「あの丘の向こうに村があります」
馬車が丘を越えた。
小さな村が見えた。
家が二十軒ほど。畑が広がっていて、井戸が一つある。こじんまりとした、静かな村だ。
でも静かすぎた。
人が少ない。昼間なのに、外に出ている人がほとんどいない。
「様子がおかしい」
「そうですね」ヴェロニカの顔が険しくなった。
馬車が村の入口で止まった。
降りると、空気が変わった。
かすかに邪気が混じっている。
老人が一人、家の陰から顔を出した。ヴェロニカを見て、目を細めた。
「ソーン家の……」
「はい。状況を聞かせてください」
老人が疲れた顔で言った。
「三日前から、また出るんです。黒い靄の魔物が。夜になると村の周りをうろついて、昨夜は畑を荒らされました。今は皆、家に閉じこもっています」
ヴェロニカの目が、鋭くなった。
「神殿の方向から来ますか」
「そうです。南から」
ヴェロニカがミカを見た。
「急ぎましょう」
「はい」
ミカは銀白の鞭を確かめた。
村の南に、古い神殿の輪郭が見えた。木々に半分隠れた、灰色の石造りの建物だ。
夕暮れが近かった。
空が赤く染まっていた。
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