第三十一章 炎の傍ら
翌朝、ミカは夜明け前に目が覚めた。
眠れなかったわけではない。ただ自然に目が覚めた。ジンジュードでの疲れが抜けてきたせいかもしれない。
着替えて、一階に降りた。
食堂はまだ暗かった。ルーナもまだ起きていない。ミカは厨房から水を一杯もらって、窓際の席に座った。
夜明け前のガンドランドは静かだ。石畳に人影がなくて、遠くで鳥が鳴いている。
扉が開いた。
ヴェロニカだった。
深紅のドレスではなく、シンプルな濃い色の上着を着ていた。髪も昨夜より緩く、まとめていない。化粧も薄い。
昨夜とは別人のように見えた。
ヴェロニカがミカに気づいて、少し止まった。
「早いですね」
「眠れなかったわけじゃないんですけど、目が覚めて」
「そうですか」
ヴェロニカが窓際の、ミカから少し離れた席に座った。外を見た。視線が遠い。
しばらく二人で黙っていた。
気まずいわけではなかった。ただ静かだった。
ミカが口を開いた。
「ヴェロニカさん、ガンドランドに来るまで、一人で動いていたんですか」
「ソーン家の者を連れていることもあります。でも今回はアーティだけで来ました」
「なぜ」
「余計な者に知られたくなかったので」
「ソーン家の中にも、信頼できない人がいるんですか」
ヴェロニカが少し間を置いた。
「どこの組織にも、そういう者はいます」
答えになっているようで、なっていない答えだった。でもミカはそれ以上聞かなかった。
外が少しずつ明るくなってきた。夜明けが近い。
扉がまた開いた。
アーティだった。
赤と金の髪が、薄明かりの中で燃えるように見える。アーティがヴェロニカを見つけて、静かに微笑んだ。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「眠れなかった」
「そうですか」
アーティがヴェロニカの隣に座った。何も言わずに、ただ隣にいた。
その距離が、絶妙だった。近すぎず、遠すぎず。ヴェロニカの空間を侵さないけれど、確かにそこにいる。
ミカはその様子をそっと眺めた。
アーティがヴェロニカを見る目は、主に向ける目だった。でもそれだけではなかった。何か別のものが混じっていた。
心配、というより、案じている感じだ。
「アーティさんって、ずっとヴェロニカさんの傍にいるんですか」
アーティがミカを見た。
「契約を結んでからは、ずっと」
「どのくらいになりますか」
「ヴェロニカ様がソーン家の当主になられた時からですから、十年ほどになります」
「十年」
「神獣にとっては短い時間ですが」アーティが静かに言った。「濃い十年でした」
ヴェロニカが窓の外を向いたまま言った。
「アーティ、余計なことを言わなくていい」
「余計なことは言っていません」
「そうですか」
「はい」
アーティが涼しい顔で答えた。ヴェロニカが小さく息をついた。
ミカはその掛け合いを見て、少し笑いそうになった。バナージュとトフィーに似ている、と思った。主と神獣の間には、こういう空気が流れるのかもしれない。
「ヴェロニカさんってずっと一人で抱えてきたんですか、色々と」
ヴェロニカがミカを見た。
その目が、少し鋭くなった。探るような目だ。
「どうしてそう思うんですか」
「昨夜、領民のことを話した時の顔が、一人で抱えてきた人の顔に見えて」
「……買いかぶりすぎです」
「そうかな」
ヴェロニカが視線を外した。
窓の外が、橙色に染まり始めていた。夜明けだ。
「ソーン家の当主というのは、孤独な立場です」ヴェロニカが静かに言った。「全てを知って、全てを管理して、誰にも全部は話せない。それがこの家の在り方です」
「誰にも」
「情報は力です。全部話した瞬間に、力を失う」
「アーティさんにも?」
ヴェロニカが少し止まった。
アーティが静かに言った。
「私には話してくださいます。ただ」
「ただ?」
「話してくださっても、表情が変わらないことが多い」アーティがヴェロニカを見た。「一人で抱えることに慣れすぎているのだと思います」
「アーティ」
「事実を申し上げています」
ヴェロニカがまた小さく息をついた。
ミカはヴェロニカを見た。
孤独、という言葉が合う人だと思った。全てを知って、全てを管理して、誰にも全部は話せない。そういう場所に、ずっと一人でいる。
「私には全部話さなくていいです」ミカが言った。「でも一つだけ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「あの村の人たちのことが、本当に大事なんですよね」
ヴェロニカが少し間を置いた。
「……そうです」
「なら十分です」
ヴェロニカがミカを見た。
底の見えない瞳が、昨夜よりも少しだけ、和らいでいた。
アーティが静かに微笑んだ。その目が、安堵しているように見えた。
しばらく三人で黙って、夜明けを眺めた。
空が橙から薄い青に変わっていく。ガンドランドの石畳が、朝の光を受けて輝き始めた。
二階からトフィーの念話が飛んできた。
『ミカちゃん、朝ごはんまだ? お腹すいた』
「ルーナさんがまだ起きてないよ」
『バナージュが起きてる。何か作ってくれないかな』
「バナージュが料理するわけないでしょ」
『やってみなきゃ分からない』
「分かるよ」
ヴェロニカが、小さく噴き出した。
本当に小さな、ほとんど音のない笑いだった。でも確かに笑っていた。
ミカが振り返ると、ヴェロニカが口元を手で押さえていた。
「すみません」
「笑っていいですよ」
「……失礼しました」
アーティが嬉しそうに、でも静かに目を細めた。
ヴェロニカが咳払いをして、また窓の外を向いた。でもその横顔が、昨夜より少しだけ柔らかかった。
ミカはそれを見て、胸の中で思った。
この人はきっと、もっと笑える人だ。
ただそのための場所が、今まであまりなかっただけで。
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