第二十一章 封印の傷
クリスタルマウンテンの登山道は、庵から上に向かってしばらく続いてから、一般の登山者が立ち入れない領域に入る。
その境界は目に見えるものではない。ただ空気が変わる。澄んで、冷たくて、何か別の力が満ちている感じがする。
ミカは子供の頃から何度もここまで来ていたが、この先に進んだことはなかった。師匠が「まだ早い」と言っていたから。
バナージュが先を歩いていた。
「ここから先は、われの守護領域に入る。人間が踏み込むと通常は体に障るが、お前たちはわれの連れだから問題ない」
「体に障るって、どんなふうに」
「眩暈、幻覚、最悪気絶する。聖地の核心部に近づくほど強くなる」
カリナが平然と歩いていた。
「わしは以前来たことがあるからのう。懐かしいわ」
「カリナ殿は昔からそういうものを気にしないからな」バナージュが言った。「頑丈なことは認める」
「褒めてくれるじゃないか」
道が急になってきた。岩場を登って、細い沢を渡って、低木の間をかき分けて進む。高度が上がるにつれて、空気の質が変わっていく。
透明度が増していく、という感じだ。普通の空気より純粋で、一息吸うたびに体の奥まで届くような清らかさがある。
それと同時に、何か重いものが混じり始めた。
「……この感じ」
ミカは足を止めた。
空気の中に、清らかさとは正反対の何かが、糸のように混じっている。細くて、でも確かにある。
「気づいたか」バナージュが振り返った。「それが問題だ」
「邪竜の気配ですか」
「そうだ。聖地の中にこれが混じっているのは、異常なことだ」
一行はさらに登り続けた。
やがて岩壁が開けて、小さな広場のような場所に出た。
中央に、大きな岩があった。
高さはミカの背丈の三倍ほど。表面に複雑な紋様が刻まれていて、薄い光を放っている。岩の周囲の地面にも紋様が続いていて、広場全体が一つの魔法陣のようになっていた。
「これが封印か」
「表の封印だ」バナージュが岩に近づいた。「ここはまだ無事だが……」
バナージュが岩に手を当てた。
薄紫の光が、バナージュの手から岩に流れ込んだ。岩の紋様が一瞬強く輝いて、それからゆっくりと落ち着いた。
バナージュの表情が変わった。
いつも無表情なのに、その顔に何かが浮かんだ。険しさ、というより、深刻さだった。
「バナージュ、どうだった?」
「……思ったより進んでいる」
バナージュが手を離して、振り返った。
「説明する。聞け」
全員がバナージュを見た。
「邪竜の封印は、この大陸に全部で七か所ある。それぞれが連動していて、一か所が弱まると全体に影響が出る仕組みだ」
「七か所」カリナが繰り返した。「全部で七か所に呪具が置かれておるということかい」
「少なくとも四か所には置かれておると思われる。この封印を通じて、他の封印の状態が分かる。今現在、七か所のうち四か所が著しく弱まっておる」
ミカは息をのんだ。
「四か所が弱まってるということは」
「封印の強度が全体で半分以下になっておる。このままのペースで進めば、半年から一年以内に全ての封印が限界を迎える」
「半年から一年」
カリナが腕を組んだ。その顔が、珍しく険しかった。
「早いのう。もっと時間があると思っておったが」
「呪具の強度が上がっておる。ガンドランド近郊で遭遇した大型個体、あれが呪具を直接取り込んでいたのも、強度が上がった証拠だ」
「弱まっている四か所というのは、どこですか」
ミカが聞くと、バナージュが答えた。
「正確な場所は分からん。ただ方角は分かる。南西、北西、東南、そして真東だ」
「ソロニス、ジンジュード、リセイゴス方面、それとエルフ直轄領に近い場所」
カリナが地理を当てはめながら言った。
「ギエルとエルフ直轄領以外の全方位じゃな。組織的に動いておる」
「この封印は今のところ無事です。ここに呪具が置かれていない理由はなんですか」
ミカが聞くと、バナージュが少し間を置いた。
「われがいるからだ。守護者がいる場所には近づけない。しかし他の封印の場所には守護者がいない」
「じゃあバナージュがいなくなったら、ここも狙われる」
「そうなる。だからわれはここを離れることを本来するべきではなかった」
バナージュが静かにミカを見た。
「しかしお前についてきた。その選択は変えない」
ミカは少し胸が痛くなった。
「ごめん、私のせいで」
「謝るな」バナージュがきっぱりと言った。「われが決めたことだ。それに、お前がいなければ封印の危機に気づくのが遅れておった。聖魔術師が動いていることの方が、今は大事だ」
トフィーが念話を飛ばしてきた。
『この封印は今は無事なんだよね。バナージュがいなくても、しばらくは大丈夫?』
「どのくらい持つ?」
「半年は持つ。ただし呪具が置かれれば話は別だ。その前に決着をつける必要がある」
カリナが空を見上げた。
夏の空が青い。雲が白くて、風が清らかだ。こんなに穏やかなのに、その下で封印が静かに削られていると思うと、なんともいえない気持ちになった。
「半年以内に呪具を全部回収して、組織を潰さないといけない」
「大変じゃな」カリナがあっさり言った。「でもやるしかないじゃろ」
「カリナはなんでそんなに落ち着いてるんですか」
「長く生きておると、大変なことに慣れるんじゃよ。銀嶺の覇者の頃も、いつも大変だったからのう」
「師匠もそういう目に遭ってたんだ」
「毎回じゃったよ」カリナが笑った。「ルクスはいつも仕方ないという顔をしておった。でも誰より先に動いておった」
ミカは封印の岩を見た。
紋様が静かに光っている。今はまだ無事だ。でもこの光がいつか消えるかもしれない。
「何から動けばいいですか」
「まず弱まっておる四か所の封印に、呪具が置かれているかを確認する必要がある」バナージュが言った。「場所の特定ができれば、呪具を回収できる」
「四か所全部回らないといけない」
「一か所ずつだ。急ぎながらも確実に動く必要がある」
カリナが頷いた。
「まずジルワンドに全部報告じゃな。情報を整理してから動いた方がいい。それとクレアマシスにも知らせる必要がある。エルフ直轄領に近い封印が弱まっておるなら、向こうにも関係してくる」
「クレアマシスへの連絡はどうするんですか」
「魔術師同士の連絡手段がある。ジル坊に頼めば繋いでくれるじゃろ」
ミカは封印の岩に近づいた。
手を伸ばして、表面に触れた。
冷たかった。しかし冷たさの奥に、温かいものが残っていた。長い年月、この場所を守り続けてきた何かの温もりが。
「守ります」
ミカは小さく言った。
封印に向けて言ったのか、師匠に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
風が吹いた。
山の頂から来る、清らかな風だ。
バナージュが静かに言った。
「行くぞ。ガンドランドに戻って、作戦を立てる」
「はい」
ミカは封印の岩から手を離した。
銀白の鞭を確かめて、山道を下り始めた。
空は青くて、頂は白くて、風は清らかだった。
でも急がなければならない。
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