137. ブリュンヒルデ
ロット侯爵の敗北。
これは歴史的にも大きな意味を持つ。
それまで緊張状態にあった2つの勢力が本格的な戦争に突入するきっかけとなった戦いだ。
王派と王子・王女連合派。
拮抗していた2つの勢力だが、ロット侯爵が負けたことで勢力バランスが傾き始めた。
これ以上ガルム伯爵を放置することは、王派にとって危険極まりないことだ。
そのために王は最強の軍、第一軍を差し向けた。
こうしてロット侯爵の進軍から始まった小競り合いは、のちに国を大きく変える戦争のきっかけとなったのだ。
そして時を少し戻し。
アークが学園から出るよりも前のこと。
絢爛豪華な部屋――王室で一人の老人が座っていた。
否、年齢だけで言えば老人という言葉は似合わない。
だがしかし、その男は年齢以上に老けた顔をしており、げっそりとコケた頬はまるで骸骨のようだった。
全身から放たれる死の匂いは、余命一ヶ月と言われてもなんら違和感を覚えないだろう。
だが、しかし。
その目だけは異様なほどにギラギラとしていた。
死臭を伴いながら、目だけは生者のそれ。
そのアンバランスさがより一層不気味さを際立てている。
しゃがれた声で男は言う。
「どうやら目障りな犬がいるようだ。煩くてかなわん」
呟くような言葉は、しかし、目の前で頭を垂れる壮年の男性に向かって放たれた言葉だ。
「犬というのはな、もっと可愛げがなければならん。
可愛げのない犬など殺すしかなかろう。なあ、テュールよ」
テュールと呼ばれた男は頭を垂れながら、
「おっしゃるとおりです」
と、短く返答をする。
男はギロリとテュールを睨みつけた。
テュールが軽く捻れば簡単に折れてしまうほど、その男の体は脆い。
それなのに、その目だけは異様な力強さを持っていた。
「第一軍を使って、目障りなガルム伯爵を排除しろ」
「はっ」
第一軍、王国最強の矛――テュール。
個人の強さで言えば、北神騎士団トールのほうが上だろう。
だが組織を動かした戦いでは、国内でテュールの右に出るものはいない。
天才的な嗅覚を持つテュールは軍をまるで手足のように動かすことができた。
そのテュールが国王からの命を受け、立ち上がる。
そして、テュールの軍勢がガルム領に向かって進軍を開始したのだった。
◇ ◇ ◇
「ふふっ。無能だ無能だとは思っておりましたけど、まさかここまで無能だなんて。
むしろ感心してしまいますわ」
古城にある一室。
口元に手を当てながらあざ笑う少女がいる。
グリューン侯爵だ。
彼女の名はブリュンヒルデ。
アークとそう歳も変わらない。
フリフリの黒衣装をまとい、年相応の少女らしさを身にまとわせている。
「ねえ。ファバニール」
ブリュンヒルデは肩に載る竜の頭を撫でる。
「くぅん」
竜が小さく鳴く。
ブリュンヒルデは愛おしそうに、しきりにファバニールの頭を撫でた。
ファバニールもと気持ちよさげに鳴く。
「これだからプライド高いだけの無能貴族は困るのよ」
ロット侯爵の役割は、アーク軍を少しでも疲弊させること。
それ以上のことは求めていなかったが、ここまで予想を下回る動きをするとは……。
呆れを通り越して笑いがこみ上げてくる。
「アークの実力が想定以上だったということかしら?」
ファバニールはくーんと鳴く。
そもそもブリュンヒルデにしたら、ロット侯爵は捨て駒でしかない。
捨て駒が使い物にならなかったとして、特に困ることはない。
なぜなら、彼女にはブリュンヒルデがいるから。
「竜もやられちゃったわね。ごめんなさいね、ファバニール」
ファバニールはふるふると首を横に振る。
大丈夫だよ、とそう伝えているようだ。
ファバニールは、人間ごときに負ける弱い竜などいらない、と考えている。
「人間なんて信用ならないわ。それに比べ、あなたは最高よ」
ブリュンヒルデがファバニールを抱きかかえる。
「しょうがないけど……ガルム領に行くしかないわね。
久しぶりに会いにいきましょう。愛しのジークに」
ブリュンヒルデはファバニールを抱えたまま立ち上がり、口の端を歪めて笑った。
◇ ◇ ◇
アークたちを襲った竜の群れは、全体のほんの一部。
原作で主人公たちを襲った戦力の大部分は、未だに残されている。
グリューン侯爵による本格的な攻勢が始まろうとしていた。
空の覇者、竜。
地上最強の第一軍。
この最強の2つの勢力がガルム領に向かって動き出していた。
ロット侯爵との小競り合いとは違い、本格的な戦いが始まろうとしているのだった。