110. なぜ?
マギはひとつ願いを叶えることができた。
記憶を取り戻すことはできた。
しかし、彼女にはもう一つの願いが残っている。
愚かな自分を殺すという願いが――。
マギは愚かな自分を殺すという目的のために、生きることを選んだ。
目的がなければ彼女は生きることができなかった。
生きる意味がなかった。
人は誰しも消したい記憶、黒歴史というものが存在する。
人は誰しも憎い存在がいる。
その中に、殺したいほど憎い存在がいたっておかしくはないだろう。
それがマギにとっては、自分自身というだけのことだった。
だからマギは、自分自身であるマギサを殺そうとした。
もちろん、憎しみだけが理由ではない。
マギサの体はヘルの器になりうる。
マギサがいれば前の世界のように世界が崩壊してしまう危険性がある。
殺すための理由は、十分あった。
自分を正当化するための理由はたしかにあった。
「本当に殺すつもりなら手段はいくらでもあったでしょう?」
かつて、マギがエムブラに言われた言葉だ。
それは図星だった。
エムブラを使えば、いやエムブラを使わなくともマギサを殺す手段などいくらでもあった。
しかし、それはしなかった。
できなかった。
2年前の演習で、マギはマギサに刺客を放った。
黒ゴーレムたちだ。
本気で殺すようプログラムしたゴーレムたちだ。
殺したいのはマギサだけだったが、カモフラージュのために多数の黒ゴーレムを配置した。
あの瞬間は、マギは本気でマギサを殺そうと考えていた。
どれだけ犠牲が出ても良いと思っていた。
当時、マギは自分が消えていくことに対して強い焦りを感じていた。
自分が世界から排除される前に、マギサを殺そうと考えた。
しかし、その考えはヴェニスを機に徐々に薄れていった。
アークと出会ってしまったからだ。
マギのかつての記憶の中にアークという人物は存在する。
もうひとつの世界、つまり別の世界線でマギは少しだけアークと話をしたことがある。
そのときのマギのアークに対する印象は、”取るに足りない人物”というものだ。
自分勝手で傲慢。
他者を重んじることはなく見下し、世界の中心が常に自分だと考えている人物。
才能もないくせに、権利や権力を好き勝手に振る舞う貴族。
お世辞にも良い性格とはいえず、嫌われ者であったことを記憶している。
それがアークに対して憶えている、わずかな内容だった。
だが、この世界でのアークはまったく対象的な人間だった。
マギがこの世界に来たことで、人々の運命が変わってしまうことはある。
たとえばスルトだ。
スルトはマギたちの世界では英雄であった。
実際、マギを討ったのはスルトだった。
しかしこの世界でのスルトは、勇敢な学生とは言えるものの、英雄というには少し物足りない。
マギが世界線を渡ったせいで、変わってしまうこともある。
だが、それにしてもアークの変容はあまりにも大きすぎた。
違う人物と言われたほうがまだ納得できる。
記憶の中の旅で、アークは手を震わせながらマギサにこう言った。
「私はもう我慢できません。こんな世界見ているだけなんて」
怒りで震えていたのだろうか。
悲しみで震えていたのだろうか。
マギはアークの心情を推し量ることはできなかったが、アークが優しい人物であることはわかった。
「想定内です」
アークはマギにそう言った。
ヘルがマギの記憶の中に乗り込んできたときにも、アークはまったく動じていなかった。
聡明さと冷静さを、この世界でのアークは持ち合わせていた。
と、マギは思っていた。
この世界でのマギサが惚れる気持ちも、マギは理解できた。
なぜなら、同じマギサであるからだ。
この世界のマギサが好きになるなら、同じようにマギもアークを好きになる。
好きになってしまったのだ。
優しく、高い理想をもち、それを可能にする力がある。
どんな困難にも打ち克つ強さがある。
ああ、ならば……、と。
マギは願わずにいられない。
ならば、なぜマギの世界に今のアークはいないのだろうか?
もしも、この世界のアークがマギの世界にいれば、マギは魔女にならなくてもすんだのかもしれない。
魔女になったとしても、マギを助け出してくれたのかもしれない。
そんな”たられば”の話に意味がないことをマギは理解している。
それでも思わずにいられない。
なぜ、マギの側にアークがいなかったのか?
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……。
「なぜ、私ではなかったの?」
マギは願わずにいられない。
もしもこの世界のマギサの代わりに自分がそこにいられたら、どれだけ幸せだっただろう。
この記憶の旅で過ごした時間をもっともっと味わえるなら、どれだけ幸せなことだろう。
しかし、もうマギに時間はない。
もう彼女は長くない。
もうクリスタル・エーテルでもマギの体を保つことはできない。
ようやく幸せを知れたというのに、神は実に残酷であった。
マギの目の前には、眠っているアークがいる。
アークが仰向けになって倒れている。
「ねえ、アーク様。私を覚えていてくださいね。私は……絶対に忘れませんから」
マギはアークの唇に自身の唇を押し付けた。
すると、アークがゆっくりと目を開けた。