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銀色のクマ

作者: リューク

 こんなに長い間ゴミ箱に手を突っ込んでいるのは、生まれて初めてだ。


 木下茜は左手でふちを抑え、右手で紙くずや短い色鉛筆をかき回す。おととい社会科見学で行ったパン工場で、生地をこねていたおじさんの姿を思い出した。よくこねるほど空気が混じり、パンがふっくらと仕上がるそうだ。おじさんが腕を力強く動かしながら説明している間、美味しそうな香りにみんながウットリしていた。今は何とも言えない臭いが鼻をつく。お婆さんのように腰を曲げながら、顔だけ後ろに向けて新鮮な空気を鼻に送る。


 三時間目が終わった後の休憩時間。みんなはおしゃべりをしたり、スマホをいじったりしている。数人の男子がこちらをニヤニヤしながら見ているのに気がついた。ハッとしてごみ箱から腕を素早く引き抜き、傍にどかしていた蓋を被せて席に戻った。駅のホームでゴミをあさっている人達って、こんな気持ちなのかな。ショートヘアの頭をポリポリかくと、横にはねたくせ毛が手をなぞった。


 あたしはこの三日間、ずっとスマホのストラップを探していた。一ヵ月ほど前、仲良しの住永奈美と人気のテーマパークで遊んだ日に、自分の誕生日プレゼントとして買ってもらったストラップだ。その日の売店はたくさんの家族連れやカップルで賑わっていたが、人混みの中を奈美はズイズイと進んでいった。しばらくして戻ってくると、息を弾ませながらストラップをプレゼントしてくれた。テーマパークのマスコットキャラクターであるクマがペアになっていて、奈美の持っている方と組み合わせると、カチッと愛らしく肩を組む。普通は茶色をしているが、期間限定のそれは銀色で光っていた。


 二人の宝物にしようと決めたお揃いのストラップだったが、それを三日前に失くしてしまった。ずっとスマホにつけていたが、何かの拍子に取れてしまったらしい。どこで落としたのか全く思い出せないが、考えられる場所は学校・通学路・家の三つしかない。自分の席でスマホを手にしながら、神経を集中させて必死に記憶をたどる。


「茜、どうかしたの?」


 声に驚いてバッと見上げる。奈美が心配そうな顔をして横に立っていた。いつも可愛いシュシュで結ってあるポニーテールは、同じ女子のあたしでも見とれてしまう。今日は水玉模様のボンボンが、明るい黄色のシャツにとても良く似合っている。


「ううん、何でもないよ」

「大丈夫ー? なんかすごい考え込んでる顔してたよ?」


 奈美はそう言いながら安心した笑顔を見せると、頭をポンと軽く撫でてくれた。横にはねた自分の髪が揺れる。


 三年生で同じクラスになってからは、いつも一緒だった。憧れるくらい可愛いし、何より優しい。奈美みたいになれたらなぁ、とよく思った。あたしなんか生まれつきのくせ毛で、いつも髪の先が横に広がっている。昔いたずらで男子に引っ張られた時、助けてもらったこともある。「男子には茜の良さが分からない」と怒る奈美に、「あたし、もし男だったら奈美に告白してたと思う」と呟いたら笑われた。思い返すと恥ずかしいが、正直な気持ちだった。

奈美が両手を机の上につき、顔をぐうっと寄せてきた。


「ねぇ今日さ、新しくできたパン屋行ってみない?」

「新しいパン屋? へー、知らなかった。どこにあるの?」

「公園から少し歩いた所だよ。この前の工場と同じで、酵母パン作ってるんだって」


 その公園は放課後によく一緒に遊ぶ場所だった。


「ホント? やったぁ、あれすごく美味しかったもん」

「茜は十個くらい食べてたもんねー」

「やだ! そんな食べてないし!」


 あたしの反応に笑っている奈美を見ながら、楽しかった工場見学を思い出す。ベルトコンベアで運ばれていく生地を二人で眺め、焼きたてでキツネ色のパンをハフハフ言いながら食べた。奈美はスマホを取り出し、パン屋のホームページを見せてくれた。美味しそうなメニューが並んでいるが、その横で輝く銀色のクマについ目がいってしまう。


「ちょっと、聞いてる?」

「え、うん、聞いてるよ」

「ホントにー? なんか、最近元気ないよ」

「大丈夫、大丈夫。へへへ」

「なら……いいけど。あれ、それ新しいストラップだね」


 しまった……。自分の体が内側から凍っていくのを感じる。話している間にさりげなくポケットへしまえば良かった。しかし、もう遅い。


「え、あぁ。うん、気分転換で変えてみたんだ」

「そうなんだ……。うん、それも可愛いね」


 臨時でつけていたストラップは、へた付きのトマトに顔が描かれたシンプルなものだった。クマの方が何百倍も可愛いよ、と思ったが、今そんなことは言えない。


 話を切り替えようと口を開いたが、それを制するように四時間目のチャイムが鳴った。


「あ、算数の準備しなきゃ。じゃあ後でね」


 奈美はそう言うと、自分の席に戻っていった。ポニーテールの髪と銀色のクマが同じリズムで揺れる。


 今日中に見つけなきゃ。


 本物のトマトを潰すように、臨時のストラップを強く握りしめた。


 学校で落としたとしたら、まず間違いなくこの教室だ。学校にはスマホを持ってきても良いことになっているが、校内での使用は禁止されている。「帰り道で何かあった時のために」というPTAの意見で決まったルールだ。だから廊下や校庭でスマホをいじったりはしない。休み時間も大抵は奈美や他の友達と教室にいる。しかし、教室なら尚更早く見つけないといけない。奈美が拾ったりしたら、言い訳出来なくなる。


 ストラップの心配で、先生が読み上げる計算式が全く頭に入らない。斜め前の席の子が、こっそりとスマホをいじっている。普段は気にならないのに、先生にこっそり言いつけてやろうかと、意地悪な気持ちが湧いてくる。


 四時間目が終わると、給食係が白い割ぽう着をまとってワゴンを教室に運んできた。班ごとで食べるため、みんなが席を動かし始める。ガタガタ踊る机や椅子の合間を縫うように、ストラップが落ちていないか見てみたが駄目だった。教室全体を見回すには時間が短すぎる。


 献立なんて気にならない。工場のベルトコンベアが機械的に食べ物を運ぶように、味を感じる間もなく給食が口に入れられる。十分に噛まずに飲み込んでしまい、何度もむせる。自由に行動できない時間。早く過ぎてほしいと思う分、異様に長く感じた。


 毎日恒例、給食後の掃除。六年生は教室や廊下だけでなく、校庭やトイレも掃除する。今週教室を担当するのは、あたしや奈美のいる班だった。


 それぞれが分担された仕事をする。ホウキ・チリトリ・雑巾・黒板消しが、みんなの手に従って教室を綺麗にしていく。


 奈美と一緒にホウキで埃をせっせと掃いているふりをしながら、ストラップが落ちていないか必死に探した。椅子の間、窓のさん、金魚の水槽の後ろ……。一見すれば掃除熱心な優等生だろう。ロッカーの裏側を探していると、ホウキに布が絡まった。手に取って見ると、それは青いハンカチだった。


「あ、それ俺のだ」


 落とし主の男子は「サンキュー。うえぇ、きったな」と言いながらハンカチをあたしの手から取った。誰かの上履きで踏まれた跡を、手で叩き落とし始める。それを見て、大事なことを思い出した。


「ねえ、落し物届ってどこだっけ?」


 学校には落し物が集まる場所がある。もしかしたら誰かが拾ってそこに届けているかもしれない。その可能性をすっかり忘れていた。湧き上がる期待に、自然と足踏みを始める。


「んー、確か一階の事務室だったと思うけど」


 「ありがとう」と言いながら教室の時計を見た。一時二十六分。やばい、五時間目まで四分しかない。しかも今日は十月三十一日だ。落し物は落とし主が現れないと、たしか月の最後にまとめて処分される。


 しかしホウキ係は最後にゴミをまとめ、ゴミ袋を校舎の遠い裏まで運ばなければならなかった。他の子は分担された掃除で忙しい。でも迷っている時間はない。頼みづらいが、今回は緊急事態だ。


「ねぇ奈美。ちょっとお願いがあるんだけど」


 チリトリに集まったものをゴミ箱に入れている奈美に、後ろから声をかけた。


「え? どうしたの?」と奈美が振り向く。

「あたしね、掃除の時に職員室へ来るよう先生に言われたの忘れててさ。もう五時間目始まっちゃうから、悪いんだけど一人でゴミ袋持ってってくれないかな?」

「えー、しょうがないなぁ。分かった、いいよ」


 少しだけ怒ったように見えた。重いゴミ袋を運ぶ係なんて、奈美一人に押しつけたくなかった。でも今は理由を説明出来ない。「ありがとう、ごめんね」と言いながら、走って教室を出た。


 階段をズンズン駆け下りていく。徒競争でもこんなに早く走ったことがない。すぐに事務室までたどり着き、乱れた呼吸を整える間もなく扉を叩いた。


「茜ちゃん、五時間目始まるよ」


 肩を落として事務室を出たところで、校庭の掃除が終わったクラスメイトの牧ちゃんに声をかけられた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「ううん、何でもないよ。教室行こっか」


 意識的に頬を動かして口元を引き上げ、一緒に階段を上り始めた。


 あっという間に五時間目が過ぎ、帰りの会が始まった。どうしよう。落し物届にもないとなると、あとは通学路と家しか考えられない。でも念のためだ。全部の教室から集められたゴミ袋をこれから見てみよう。


 ゴミが一斉に収集されるのは明日の早朝だ。朝に探そうかと思ったが、そんなところを誰かに見られたら噂になり、ストラップを失くしたことがばれてしまう。今日一緒にパン屋へ行くのは断ろう。食べたとしても、せっかくの酵母パンも味わえない気がする。


「起立。気をつけ。さようなら」


 日直の号令を合図にクラス全員が礼をすると、一気に教室が賑やかになる。唐突に大声をあげて走り回る男子。好きなアイドルの話をしてはしゃぐ女子。その中をかき分けて奈美に近寄った。


「奈美。お母さんにさっきお使い頼まれてさ。一緒にパン屋行けなくなっちゃったんだ。ごめんね」


 振り返った奈美の表情は、あまり驚きを浮かべていなかった。


「……いいよ、あたしも用事できたし」


 何か凍りつくような間を置いてから奈美は呟き、さっとランドセルを背負って教室を出た。クラスメイトはまだたくさんいたのに、さっきまでのガヤガヤが急に聞こえなくなった。


 無数の雑草が生い茂る校舎の裏の奥。五十センチほど高さのあるレンガに囲われたゴミ捨て場は、校内であることを忘れるほど人の気配がなかった。様々な大きさのゴミ袋が、満員電車みたく窮屈そうにしている。意を決して乗車するかのように、深い息を吐きながら足を運んだ。


 順にゴミ袋の口を開いて中を調べていく。教室にあるゴミ箱の三倍以上入りそうな大きさの袋。腕をめいっぱい入れないと、奥の方までは届かない。


 キラッと光るものが視界に入る度、ストラップが見つかったと胸が弾む。破れかけたアニメキャラクターのシール。流行っているらしい、バトルカードのラメ。錆ついたパチンコの玉。学校に関係ないものを持ち込むことに口うるさい先生を鬱陶しく思っていたが、今は賛成派に転じた。


 ゴムがくたびれて切れたヘアゴムを見つけると、さっきの奈美の変わった様子が気になった。急にパン屋に行けなくなったから、怒ったのかもしれない。でも奈美も用事ができたと言っていた。何か別に嫌なことがあったのか。魚の小骨がいつまでも喉に引っかかっている感じがする。そういえば今日の給食はサバの味噌煮だったかと、今更ながら味を思い出した。


 なかなか集中できない。それでもカラスが食べ物を探すように、ガサガサとゴミ袋の中を調べていった。

五時半を町中に知らせる「赤とんぼ」のメロディーが響き渡り、驚いて肩がビクッと震えた。見上げると、夕日を照らした校舎が鈍いオレンジ色に染まっている。


 ずっとしゃがんで痺れてしまった足を休めようと、近くのレンガの塀に座る。本当にカラスがイタズラしたような光景を見回すと同時に、手が発する異様な臭いに気がつく。今まで嗅いだことがないくらい独特で、何て言い表せばよいか分からない。額に汗が垂れてきたが、手でぬぐおうとはしなかった。


 ゴミ袋の口を閉じて腕をこまめに洗い、帰りながら通学路を探すことにした。コンクリートに敷かれた落ち葉を蹴り散らしながら、光り物がないかと目を凝らす。好き放題変色した枯葉が、カサカサと音を立てて地面から飛び上がる。たまに虫が潜んでいると、小さく悲鳴をあげてしまった。しばらく歩き、曲がり角の脇に誰かが掃き集めた落ち葉の山を見つけた。足を棒の替わりにゆっくりと突っ込んで探していると、通りがかりのお爺さんに叱られた。


 拾われていない限り、もう学校にはない。そしてストラップを失くした日から、通学路も調べている。日が経つほどに見つかる可能性が低くなる。もう、家しかない。


 はねた毛先をいじりながら、柵越しに公園へ目をやる。小さい時はお母さんとしょっちゅう来ていたが、三年生からは奈美と遊ぶ庭になった。滑り台・ブランコ・鉄棒が囲む中、まだ帰りたくないと叫ぶ男の子を前に、母親らしき人が困った表情を浮かべている。


 今日は珍しく、クラスの女子が公園に集まっていることに気がついた。早くストラップを見つけて、奈美と何も気にせず遊びたい。そう思いながら地面を探そうとした時、何かが視界に引っかかった。再び顔をグンと公園の方へ向ける。


「奈美……」


 思わず口に漏らした。奈美が他の女子とスマホを片手におしゃべりしている。


 いいよ、あたしも用事できたし。


 渇いた言葉が頭で再生された。用事って他の子と遊ぶ約束? いや、別におかしくはない。今日あたしが一緒に帰れなくなって、違う人と遊んでいる。ただそれだけだ。うん、ただそれだけ。


 おまじないの様にそう繰り返していると、一人の女子と目が合いそうになった。思わずビクッとして顔をそむけてしゃがみ、見つからないように小走りを始めた。


 なんで? なんであたし逃げなきゃいけないの?


 汗がじっとりと首筋を伝った。すぐに息があがり始める。夕日に作られた長い影が、小走りを続ける体にピッタリとついていく。


 その夜も、家の隅々までストラップを探した。お母さんに聞いても知らないと言われ、ついでに「もう遅いから寝なさい」と怒られた。


 仕方なく二階へ上がり、自分の部屋に戻る。見慣れた居場所をざっと見回してみた。ドアの真正面に勉強机があり、その横に木製のクローゼット。机に向かって右側の窓の下には、クリーム色のシーツが敷かれたベッドがある。枕の傍には、幾つかのぬいぐるみが仲良くお座りしている。その中でも、あのテーマパークのクマだけベッタリと枕へ寄り添っていた。期間限定品とは違い普通の茶色をしているが、モコモコと柔らかい感触が可愛い。ゲームセンターのUFOキャッチャーで、奈美と協力して勝ち取った戦利品だ。


 まだ起きていると親に気づかれないよう、なるべく静かに机を動かして裏を覗き込んだ。埃が不気味に舞い踊る中、見えたのはだらしなく伸びきった輪ゴムと緑色のビー玉だけだった。三十センチ物差しを使い、腕を伸ばして床の隅からかき出す。手に取ってゴミ箱の上で埃を叩いていると、昼間の青いハンカチを思い出した。


 結局落し物届にもなかった。教室にもゴミ袋の中にもなかった。通学路や自分の家でも見つからない。このままだったら、どうしよう。椅子にグッタリと座りながら体をよじり、クマに目をやった。


 奈美とは九歳の時からお絵描きをしたり、プールに行ったりして遊ぶようになった。六年生になってからは、親にねだって買ってもらったスマホのアプリで、メッセージを毎日送り合っている。初めの月はよく電話をかけていたが、請求書を見てお母さんが顔を真っ赤にした。それからは、お金が掛かりにくいメッセージのやり取りが中心になった。たいして中身のない内容でも、変な冗談やカラフルな絵文字で飾られたメッセージは、送るのも受け取るのも楽しい。


 そういえば、今日はメッセージを確認していない。ランドセルの中からスマホを取り出し、画面を開いた。


 新着メッセージなし。


 スマホに操られたかのように指が動き、メッセージの作成画面を表示した。点滅するカーソルをグッと見つめながら、色々な言葉を思い浮かべる。でも上手い切り出し方が見つからない。いつもは三十秒も掛からず文章ができあがるのに。気がつくと画面の時計は日付を変えようとしていた。


 あんまり夜遅いと迷惑かもしれないな、と自分に言い聞かせ、スマホを机の上に置いた。ベッドに入ってさっさと寝ようとしたが、公園で見た風景が瞼の内側のスクリーンで再生される。なかなか眠りにたどり着けず、何度も体の向きを変える。家の近くのお店は明かりを消し、空には一つも星が見えない。窓越しの景色が見えないよう、クマのぬいぐるみを顔に近寄せた。


 ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、カチ。


 体がだるい。昨日の放課後にずっと探していた疲れが残っているのだろうか。それでも掛け布団から腕を伸ばし、やっとの思いで目覚まし時計を黙らせた。二度寝しないようギリギリの意識を保ちながら、ベッドから這い出る。そしてザァッと部屋のカーテンを開けた。今日も晴れだ。向かいの家の木にはほとんど葉が残っていない。風に吹かれると、「ここにいるよ」と言わんばかりに激しく揺れていた。


 眩しさで片目をつぶりながら後ろを向くと、スマホが目にとまった。一呼吸おき、手にとって画面を開いてみる。特に新しい通知はなかった。


 朝食を済ませ、歯を磨き始める。口をゆすいで洗面台の鏡を見た。顔全体がむくんでいる。それをからかうように、くせ毛がピンと横にはねていた。少し濡らしてクシでとかしてみたが直らない。むくみだけでもしっかり洗い落そうと、蛇口を多めにひねる。滝のような勢いのついた水で、ゴシゴシと顔をこする。


 よし、今日も頑張って探さないと。


 仕度を済ませて家を出た。日差しは眩しかったが、十月らしい肌寒さを感じた。道には淋しい色になった葉っぱがたくさん落ち、踏むとクシャクシャと乾いた音がした。


 寒風摩擦のように両手で腕をこすっていると、牧ちゃんが前を歩いているのが見えた。小走りで追いつき、後ろから肩をポンと叩きながら「牧ちゃん、おはよー」と声をかける。牧ちゃんはあたしの顔を見ると、少しこわばった表情をして挨拶を返した。気になったのでどうしたのか聞いてみたが、「ううん、何でもないよ」と明るく否定された。


 学校まで並んで歩く間、牧ちゃんは何かを確かめるように度々後ろへ振り向いた。こちらが話していても、相槌こそ打っていたが、どこか上の空だった。そして校舎の階段を上って教室が見えてくると、「あ、あたしトイレ行ってくるね」と言いながら一人で走っていった。


 変なの。教室は目の前なんだから、ランドセルを置いてから行けばいいのに。


 教室に入ると同時に、妙な視線が向けられているのに気づいた。後ろの席の方に集まっておしゃべりをしていた女子が、こちらをチラチラと見始めた。昨日ゴミ箱に腕を突っ込んでいた時の男子の目つきより冷ややかに見える。肌が外の寒さをウソみたいに忘れ、じんわりと汗を出し始めた。自分の周りだけ空気が薄くなったように息苦しい。


 一時間目は社会だった。先日パン工場で一緒に行動したグループごとに、質問したことや感想を発表する。奈美や牧ちゃんもいた。自分達で決められるグループ分けでは、いつも奈美と一緒になった。三年生の時からずっとそうだ。


 六つの机を長方形に並べ、わら半紙を広げてカラーペンを用意する。準備が整ったグループから、司会を決めて順番に発表していった。


「工場の人が機械でどんどん作られていくパンを一個ずつ点検するのは、すごい大変な作業だと思いました」


 みんなの意見を牧ちゃんがわら半紙に箇条書きにしていく。これから工場見学に向かうバスの中のように、クラスが賑やかになっていった。


 順番が最後のあたしも発言する。


「できたてのパンの中でも、酵母パンが一番美味しかったです。食べ物を作るのにも、色々な知識や研究が必要なんだと学びました」


 前に座っている男子二人が「あー、あれ超うまかった」「えー、俺はクリームパンの方が好き」とおしゃべりをする中、他の女子は誰も口を開かなかった。隣の男子や散らばったカラーペンなど、あたし以外に目を向けていた。


「あのパンすごい美味しかったよね? 奈美?」


 椅子から少し腰を浮かして、飛びつくように聞いた。すると奈美は「うん……、そうだったね」と、持っていた消しゴムを見つめながら呟いた。


「あ。書くスペースなくなったから、ここまでにしよっか」

「そうだねー、もうすぐ発表の時間だし」


 そう言った他の女子が、せっせとカラーペンを片づけ始める。口を半開きにしたまま、わら半紙を見てみる。空白が埋まるように、一番下の意見が牧ちゃんの大きい文字で書かれていた。


 その後の授業や休み時間、どの女子にも話しかけづらさを感じた。チラリと周りを見ると、目が合いそうになった子が急に顔をそらす。まるで昨日公園を柵越しに見ていた自分のようだ。でも、違う。みんなはそれを楽しんでいる。


 顔をわずかに後ろへ向けて、奈美の席に目をやった。近い席の友達に囲まれ、楽しそうにおしゃべりをしている。いつもは自分も楽しくしてくれる笑顔なのに、今日は見ると息苦しくなる。体の向きを戻して机の上で腕を組み、トマトのストラップを見つめ続けた。


 先生が明日の連絡事項を黒板に書き、みんながランドセルに教科書やノートをしまっている。いつの間にか帰りの会の時間になっていた。そうだ、まだ何の帰り仕度もしていない。ごちゃごちゃになったプリントや体育着と格闘し始めると、日直が号令をかけて帰りの会が終了した。急いで持ち物をまとめ、ワイワイざわめく教室を見渡す。すると奈美がランドセルを背負い、さっさと廊下に向かっていた。


 学校の正門前の通学路には、まだ大勢の生徒がいた。犯人を尾行する刑事のように、距離を保って奈美の後ろを歩いた。いつも傍にいたせいか、こうしてじっくり後ろ姿を眺めるのは初めてかもしれない。


 奈美はたまに振り返りそうなしぐさを見せた。その度にビキッと体をこわばらせる。それでも結局振り返りはしなかった。ポニーテールが三十メートルほど先で揺れ続ける。


 いつもの公園の道をそのまま過ぎて角を曲がると、見慣れないお店の看板が目に入った。クリーム色の背景に、ふっくらした幾つかのパンの絵が楕円上に並び、その中に店名が書いてある。奈美が教えてくれた、最近できたお店だった。ここしばらくは下を向いて歩いていたから、全く気がつかなかった。看板の前まで来ると、色々な種類のパンが並んでいるのがガラス窓越しに見えた。小さなお店だったが、中は多くの人で賑わっている。急に空腹感が襲ってきた。給食でおかずだけ食べ、パンに手をつけなかったせいだ。


 前を歩く奈美とすぐ近くのパン屋を交互に見つめた。一緒に行こうって話していたのに、今はこうして離れた所を歩いている。昨日のことでも、昔話を聞くみたいに遠く感じる。


 パン屋を過ぎると、同じ道を歩く生徒が徐々に減っていった。近づいて話しかけたい。「ねぇ、早くあそこの酵母パン食べようよ」と声をかけたい。しかし足は気持ちに反して、その動くテンポを上げなかった。むしろ枯葉を踏む音でばれないように、慎重な足取りで歩いている。


 俯きながらどうしようか迷っていると、いつの間にか家に着いてしまった。奈美は途中で道を曲がり、とっくに目の前からいなくなっていた。


 家の階段を重い足取りで上り、自分の部屋でランドセルを下ろす。枕元のぬいぐるみのように、しばらくベッドに腰掛けて動かずにいた。


 ふんわりと床を這って近づいてくるものが視界に入った。掃除をさぼって生まれた埃だ。少し開いた窓からの風で、たんすの隙間から追い出されたようだ。それを目で追っていると、順に学校での一日が思い出された。牧ちゃんと歩いた朝の道。奈美が冷たかった社会の時間。パン屋をそのまま通り過ぎた帰り道。くせ毛のあたりが急に痒くなり、地肌をえぐるように掻きむしった。抜けて指に絡みついた髪の毛を、足元まで到着した埃に向かって落とす。


 立ち上がってランドセルに手を突っ込み、スマホをバッと取りだした。腕を引き抜くのと同時に、乱暴に押し詰められていたプリントが床へ散らばる。再びベッドに座り、枕元のクマのぬいぐるみを膝の上に置いた。


 工場見学のグループのメンバーだった四人の女子宛てに、メッセージを作成する。普段よりも可愛い絵文字を多めに挿入し、「今日のグループワーク楽しかったね。また今度も同じメンバーで見学しようね」と文章を打ち込んだ。簡単な内容だが、間違いがないよう何度も読み返す。一斉送信ではなく、一人ひとりに少しずつ文の違うメッセージを送った。


 送信が終わると、再びストラップを探し始める。リュックサックの中、玄関の隅、便器の陰……。次々と場所を変えて体を動かし、頭で自動再生される一日を振り払おうとした。その間ずっと握りしめていたスマホは、手の汗で表面がベタベタになっていった。


 次の日の朝、起きると同時にアプリを起動した。メッセージはどれも既読になっていたが、返信はなかった。


 早めに家を出て教室に着いた。他には誰も来ていない。


 昨夜は一時くらいまで探したが、ストラップはまだ見つからない。登校中も地面を探していたが、目に入るのはコンクリートと落ち葉だけだった。学校に近づくにつれ心拍が速くなるのが分かっても、スマホの通知を知らせる振動は全く伝わってこなかった。


 メッセージを送信した子に、返信がなかった理由を自然な感じで聞いてみよう。正直、聞きづらい。でもこのままでは、奈美や他の友達がどんどん離れていく気がする。


 ぽつりぽつりとクラスメイトが登校する。廊下も段々賑やかになってきた。朝の会が始まるまで十五分ほどある。鼓動がどんどん早くなるのが分かった。ガラッとドアが開閉する度、胸が締めつけられるようになる。


 しばらくして、メッセージを送信した女子達が登校してきた。偶然なのか分からないが、四人同時に教室に入ってきた。奈美は昨日と同じように、楽しそうにおしゃべりしている。その中にいきなり割って入り、メッセージの話をする勇気はどうしても出せなかった。「待つしかないかな」と思った時、牧ちゃんがふと教室を出た。おそらくトイレだろうと思い、素早く静かに席を立った。


 廊下で牧ちゃんを見つけ、小走りで追いつく。隣に並ぶようにして「おはよう」と挨拶した。すると、牧ちゃんは悪戯が親に見つかった時のような顔をした。そして気まずそうに「お、はよう」とぎりぎり聞き取れるボリュームで呟いた。


「今日の体育はマラソンだって。やだよねー。外出るんだったら遠足とか何かの見学の方が楽しいし。あ、ねぇ昨日送ったメッセージ見た?」


 牧ちゃんの一瞬の沈黙が答えだった。しかし「あー見たかも。ごめん、昨日忙しくって」と引きつらせた口を動かしながら、トイレに小走りで向かって行った。


 自分が嫌になるほど後悔した。これのどこが自然な流れだ。緊張と焦りで、無理やりメッセージの話を持ち込もうとしたのがバレバレだった。


 トイレの入り口のドアが閉まり、牧ちゃんの背中が見えなくなる。ゆっくりと振り返り、教室に戻った。そして奈美があたしに気づくなり、持っていたスマホを素早くポケットにしまうのが見えた。もう、昨日のメッセージについて聞く気力を失った。


 朝のチャイムが鳴る。もうすぐ先生が来る。教室はみんなが登校して賑やかだったが、単に息苦しいのか本当に空気が薄くなったのか、周囲の音はどんどん遠ざかっていった。


 授業中も休み時間も、転校生の初日のように誰とも口をきかなかった。ただ掃除の時間だけ数人の女子に、「ねぇ茜。ホントごめんなんだけど、あたし達先生に用事で呼ばれたからさ。ゴミ袋持っていってくれない?」と言われた。「うん、分かった」と答えると、その子たちは満足そうに教室を出た。


 その後も誰かに話しかけられることはなく、五時間目と帰りの会が終わった。号令と同時にランドセルを背負い、トボトボと学校を出る。通学路で周りの生徒が楽しそうにおしゃべりをしている中、じっと地面のコンクリートと枯れた落ち葉を見つめ続けた。 


 聞こえる足音で周りを見なくても人数を数えられるほど、徐々に人の気配がなくなっていく。そして、後ろの方で同じような歩調を感じた。


 奈美?


 不思議にも、その内の一人が奈美だと分かった。でも振り返ることが出来ない。強張った表情をされるか。舌打ちされるか。無視されるか。どんな奈美を想像しても恐ろしかった。本当はそんな子じゃない。そう分かっているはずなのに。


 昨日とは反対に、自分が先に公園やパン屋を通り過ぎる。奈美はそれを見て、何か考えているだろうか。公園で遊ぶ小さな子やパン屋にいる女子校生を見て、昨日のあたしと同じように感じているだろうか。後ろの方でカシャカシャと鳴る枯葉は、自分に歩調を合わせて歩いていることを知らせている。


 大きい十字路が見えてきた。以前は角に何かの会社のビルが建っていたが、半年ほど前から鉄線に囲まれた荒れ地になっている。冒険心が働いて奈美と入ろうとしたこともあった。その時は、雑草から飛び出した犬に驚いて、笑いながら逃げ帰ったのを覚えている。何の変哲もない交差点が、今日は大きな十字架に見えた。


 喉の渇きを感じながら、そのまま歩き続けた。脇道を過ぎてしばらくすると、足音が斜め後ろへ逸れていった。やっぱり奈美だ。そう確信したと同時にバッと振り返った。


 荒れ地を斜めに挟んだ道路に奈美がいた。こちらを横目で見ている。あたしの急な行動に驚いたのか、全身を強張らせた。しかし、すぐ意を決したように走り出し、古い一軒家の塀の向こうへ姿を消した。


 あたしはしばらくそこに立っていた。たまに荒れ地の雑草が揺れた。弱い風なのに足元がふらつく。


 カァァァァァァァ!


 近くの鉄線に乗ったカラスだった。「さっさと帰れ」と怒鳴られた気がして、全速力で交差点から逃げ走った。


 それからは、なるべく教室で目立たないようにした。洋服は地味なものを着ていく。授業中は手を挙げない。休み時間には、尿意がなくてもトイレへ行くことが増えた。


 何かの拍子で奈美の姿が目に入ったり、声が聞こえたりする。その度に胸が重くなった。また仲良くしたい。そんな気持ちが一度だけ、自分の体を奈美の席に向かわせた。だが先日の帰り道のことが思い出され、足を止めてしまった。


 ずっと俯いているのは、やがてストラップを探すためではなくなっていた。


「あ、木下も『G―1レース・セカンド』やるんだな!」


 トイレへ行き過ぎるのも変に目立ってしまうと気づき、スマホのレースゲームをするようになった。それから十日ほど経った日、二時間目の後に三浦という男子が声をかけてきた。久しぶりにクラスメイトと話すせいか、全校集会で体育館の舞台に立つ時みたいに緊張した。


「え、うん……そうだけど」と言いながら、先生に告げ口されるのではないかと不安になる。先生に怒られるのも怖いが、それで目立って女子に何かされる方がもっと恐い。


「俺とかあいつらもハマってるんだけどさ、対戦やんない?」と三浦は何人か男子が集まっている辺りを指さした。


 急な誘いにきょとんとした。この『G―1レース・セカンド』は一人でも遊べるが、最大四名まで対戦が可能で、同じコースで順位を競うことが出来る。雨の日に家で奈美と遊んでいた時、そのゲームをたまにやっていた。その他にも色々楽しいゲームをして一緒に過ごしていた。


「きーのーしーたー、聞いてる?」


 三浦の手が目の前で往復する。「あ、ご、ごめん」と言いながら意識を今に戻した。


「対戦の方が楽しいよ、やろうぜ!」

「う、うん。いいけど」


 三浦は早速男子達に話し、次の休み時間でやることになった。遊びに誘ってもらうのは久しぶりだった。もちろん嬉しいが、それによって、さらに女子から嫌われないだろうか。男子と仲良く遊んでいる自分を見て、奈美はどう思うだろうか。不安を抱えながら、三時間目のチャイムと同時にスマホをランドセルにしまった。


 授業が終わり、あたしの机を三浦達が囲んだ。全員がゲームのアプリを起動し、対戦モードを選ぶ。男子があーだこーだ言いながらマシンを選んでいる一方で、自分が遠くから女子達にあーだこーだ言われていないか心配していた。


「木下、早くしろよー」

「あ、うん」と親指で画面を進める。すると指定されたコースのスタートラインに、四人が選んだマシンが並んだ。コースの端には大勢の観客が並ぶスタンドがあった。画面ではゾロゾロ動いている小さな粒にしか見えないが、まるでクラスの女子が並んで自分達のレースを眺めているように見えた。なんでだろう、この対戦で負けたくない。そう思うと同時にスタートのカウントダウンが始まった。画面のシグナルと指に神経を集中させる。


 『GO!』の合図と共に、四人のマシンが走り出した。この対戦モードではコースを一番早く三周した人が勝つ。相手の行く先を阻むため、四つの機体がガンガン音を立てながらぶつかり合う。


「あー、くそっ」

「へへ、よーし」


 アイテムを使えば相手を攻撃して邪魔をしたり、自分のマシンを一時的にスピードアップさせたり出来る。始めはころころと順位が入れ替わったが、最後の三周目に入る頃には一人ひとりの差が開いてきた。あたしの順位は二位で、前には三浦のマシンが走っていた。


「このままなら俺一位ー!」


 追いついてみせる、と闘争心に火がついた。上手くコーナーを曲がってアイテムを使えば追い越せる!


 レースは終盤に差し掛かった。全員の目と手の神経が研ぎ澄まされる。最近の休み時間で養ったテクニックで、徐々に一位との距離を縮めていった。そしてゴール直前の最終コーナーを曲がり終えた時、スピードアップのアイテムを使った。二人のマシンがぶつかり、ほぼ同時にゴールラインをきった。


「おぉぉぉぉぁぁぁぁ」


 男子たちの声が重なる。0.2秒差であたしが先にゴールしていた。


「あー、なんでだよー」

「いやぁ、ギリギリだったね」

「木下結構上手いな!」


 男子が熱い対戦の余韻に浸っていた傍らで、あたしもこっそり爽快感に満たされていた。まるで本当にF1レースを走り終えた出場者が、互いの健闘を讃え合っているみたいだった。


 次の授業のチャイムが鳴る。また後でやろうぜー、と三浦が言いながら席に戻り、先生に見つからないようスマホをポケットに入れる。授業が始まっても、鼓動がすぐに収まらなかった。机の下でスマホ画面を見ると、まだ観客がワーワーとざわめいている。あたしはゲームアプリを終了しないまま、ランドセルにスマホをしまった。


 それからは休み時間の度に集まり、『G―1レース・セカンド』で対戦をした。


「やった一位!」

「またかよー。木下つえーな」


 得意なゲームだったし、色々なコースもあって楽しかった。次第に自分からゲームをやろうと男子に話しかけるようになった。奈美達との距離は縮まらず、学校に行くのは億劫だったが、三浦達と遊ぶと忘れることが出来た。その時だけは、何も気にせず遊んでいた昔に戻ったようだった。


 奈美と話さなくなってから三週間ほどが過ぎた。もしこのままずっと女の子と話せなかったらどうしよう。そう不安に思いつつ、モヤモヤを振り払おうと「なーにやってんの。早くゲームしようよ」と三浦に声をかけた。


 すると「あーわりぃ、俺達サッカーやるんだ」と言って、教室を出て行ってしまった。最近ずっとゲームを一緒にやっていたから、急に取り残されたような気がした。しかし「男子なんだから、たまにはサッカーしたい日もあるかな」と思い、久しぶりに一人でレースゲームをやり始めた。ひたすら一位で色んなコースを独走する。変化があるのは、マシンの前に広がる景色だけだった。


 三浦達はそれから毎日サッカーをやり続けた。もしかしてあたしがずっと連勝していたからかな、と思った。だからつまらなくなって、サッカーをやり始めたのかもしれない。スマホを開いて、別のゲームアプリをダウンロードした。男子に人気があると聞いていたゲームだ。


 ある日の昼休み、ドキドキしながら三浦に近づいた。


「ねぇ三浦、このゲーム好きって言ってたよね。今日からこれやらない?」

「あ、ごめん。無理だわ」

「え? でも……」と言いかけた時、「おーい早くしろよー」と別の男子が廊下から呼んだ。三浦は「おーう」と言いながら席を立ち、ボールを持った男子を追いかける。三浦が離れていくにつれ、周りの空気も持っていかれるような感じがした。


 ゆっくりと教室の音が遠くなる。マンガを片手におしゃべりをする女子たち。カード交換やサッカーで盛り上がる男子たち。急にキーンと頭と耳が痛くなる。気がつくと、あたしはトイレの個室の中に立っていた。


 どうしてみんな離れていくの? あたし、何にもしていないよね?


 パジャマに着替えベッドの上で横になり、両手で持っているクマのぬいぐるみに心の中で問いかけた。クマは当然のように口をきいてくれない。みんなと一緒だ。指の力をフッと抜き、クマを枕元に落とした。窓の向こうには真っ

黒な夜が広がっている。お風呂上がりでほてった体が、徐々に冷やされていく。


 どうやっても元どおりに出来ないのかな。でも、それも小学校までかもしれない。もうすぐ中学生になる。中学校には今よりもたくさんの生徒がいる。新しい友達もきっとできる。今の小学校よりずっと楽しいはずだ。あと半年弱、それまでじっと待っていようかな。そう考えようとすれば、少し呼吸が楽になった。


 トイレに行きたくなり、体を起こしてスリッパを履いた。すると机の脚元で銀色に光るものが視界に入った。グウッと体が緊張する。探すのを諦めたのがいつだったか思い出せない。でも形や色ははっきりと覚えている。そろりそろりと机に近づいてしゃがみこむ。左手を胸に当て、右手を伸ばす。だんだん鼓動が速くなるのが分かる。そして何度も祈る。これは銀色のクマ。あのストラップの、銀色のクマ。


 親指と人差し指でつまんで、バッと目の前に持ち上げた。銀色のチェーンの下には、人気アニメのキャラクターである太った猫がブラブラと揺れていた。いつか奈美と一緒にキャラクターのグッズショップへ行った時、ポーチを買ったオマケでもらったキーホルダーだ。原作とあまりに顔が似ていなかったから、袋から開けた瞬間に二人で大笑いをした。大したことでもないのに、不思議とお腹が痛くなるまで笑えた。周りの人が怪訝な顔をしてこちらを見ていても気にならなかった。あたしが太った猫の顔のマネをすると、奈美はポニーテールを揺らしながら、口に手を当てて笑い声を必死に抑えていた。


 記憶が呼び起されるのと同時に、言いようのない息苦しさが襲ってきた。キーホルダーを机の上に放り投げる。だめだ、まだ苦しい。ランドセルをひっくり返して、スマホを取りだした。もう少し力を入れたら壊してしまいそうな勢いで画面を叩く。さっき窓越しに見た夜景のように真っ暗だった。いくらやっても光がつかない。充電が切れていた。レースゲームでずっと使っていたからだ。


 埃のついた電源ケーブルを差し込み、充電を始める。電源ボタンを長押しして起動させ、メッセージ作成画面を表示した。指の震えが止まらない。何度も打ち間違え、何度も打ち直す。


 『奈美。ごめんなさい。ゴミ係押しつけたり、一緒にパン屋に行くの断ったりして本当にごめんなさい。あたしのこと嫌いになったよね。あたし、他の女子が恐くて奈美に話しかけられないけど、やっぱり奈美と一緒じゃなきゃ淋しいよ。勝手なこと言っているのは分かってるけど、でもやっぱり奈美とまた遊びたいです。 茜』


 絵文字の全く無い、殺風景なメッセージを打ったのは初めてだった。深呼吸をしながら何度も読み直し、宛先が奈美であることを確認して送信ボタンを押した。


 スマホを机に置き、ストラップを探し始めた。引き出しの奥や棚の後ろにある物をどんどんかき出す。トイレに行きたかったのも忘れ、空き巣のように部屋を散らかしていった。


 何が「中学校に入ったら楽しくなる」だ。今と同じくらい、いや、今よりつらいに決まっている。他の小学校から上がってきた人に、クラスメイトがあたしのことを話すかもしれない。周りに大勢の生徒がいる中で、三年間ずっと一人ぼっちかもしれない。そしてそのまま大人になっていくかもしれない。だんだんと目が熱くなってきた。さっきドライヤーで落ち着かせたくせ毛を、くしゃくしゃになるまで掻きむしる。


 ヴーヴー。ヴーヴー。


 妙な音に驚いてビクッとした。振り返って机を見ると、スマホがピンク色の光を点滅させ振動している。そうだ、スマホのバイブレーションだ。久しぶりに聞く音だったから、気づくのに時間がかかった。


 返信がきた。


 ゆっくりと机に近づき、スマホを手に取る。もう振動はしていない。静かに画面をつけた。新着の通知を知らせるアイコンが表示されている。


 目をかたく閉じた。懐かしい奈美の言葉。恐かった。でも待ち遠しかった。充電のせいか、別の何かか、スマホが熱を帯びているように感じる。いつもの動作を思い出しながら指を動かし、長い深呼吸をした。まだ夜と同じで真っ暗だ。しかし瞼の力を緩めると、スマホの放つ白い光が感じられた。そしてそれに導かれるように、ゆっくりと目を開いた。


 メッセージを送信できませんでした。相手ユーザーがアカウントを削除したか、ブロックされている可能性があります。


 バンッ。


 画面を叩く音が部屋に響く。スマホが直線を描き、クマに叩きつけられた。


 昨日夜遅くまで起きていたため、今日は数えきれないあくびが出ている。授業中はぬいぐるみのように座り、休み時間はそれが前に倒れたようにうつ伏せて寝ていた。ぬいぐるみには誰も話しかけない。ぬいぐるみも口をきかない。


 気がつくと帰りの会の時間になっていた。みんなと同じように席を立つ。長いのか短いのか分からない一日。今日が何曜日かも思い出せない。周りを見ると、みんながワラワラと動き出した。いつの間にか日直の号令も終わっていたらしい。


「きーのーしーたー。何ボーッとしてんの?」


 久しぶりに目の前で往復する手。上手く焦点が定まらずぼやけている。


「どうかした?」

「三浦……」


 相手の名前が溜息のように口から漏れた。


「なぁ、この前おまえが言ってたゲームさぁ、あいつらも久しぶりにやりたいって」

「この前のゲーム……」

「そうそう。また明日から休み時間に」


 すると「おーい三浦、早く行こうぜ」と他の男子が声をかけた。「あぁ、分かった! じゃまた明日なー」と振り返ろうとした三浦の腕を、無意識に立ち上がりながらガシッと掴んでいた。


「いてっ! なんだよー」

「ねぇ、それってあたしと一緒にまたゲームするってこと?」

「はぁ? 当たり前じゃん」

「いいの? 一緒にゲームして」

「え、別にいいんじゃね? 先生に見つかんなきゃ」


 腕を握りしめたまま、ゆっくりと視線を三浦の上履きに落とす。少し沈黙が生まれた。ドアの近くで待っている男子達が、街で芸能人を見つけたような顔をしてこちらを眺めている。


「あたしさ……。あたしがずっと『G―1レース・セカンド』やりたいって言ってたから、三浦達が嫌になっちゃっのかなって。そう思ってたんだ」

「そんなことねぇよ。いつもサッカーやってる奴らに、五年生との試合で人数が足りないから来てほしい、って頼まれててさぁ。今日これから試合やって終わるから、明日からゲーム出来るぜ」


 三浦はドアの方から含みのある視線を感じたようで、微かに頬を赤らめた。そして少し乱暴にあたしの手を振りほどき、「じゃ、明日な」と走って行った。ギャーギャーと何かを騒ぎ立てる男子達の声が廊下で生まれ、それがやがて遠くなっていく。足の力が徐々に抜け、ゆっくりと椅子に座る。教室には、あたししか残っていなかった。


 同じ夜なのに、一日でこんなに違うんだ。


 そう不思議に思いながら、部屋の中を行ったり来たりしていた。少しぼーっとしているが、最近感じていた息苦しさが少し和らいでいる。窓の外はだいぶ暗かったが、いくつかの星が鈍く光っていた。


 三浦達はあたしを避けていたわけじゃない。ただサッカーに呼ばれ、一時的にゲームをする時間がなかっただけだった。三浦の腕を握っていた時は、頭の中で色々なものがごちゃごちゃと散らばっていた。でも今は、だいぶすっきりと整理されている。ふとベッドのぬいぐるみが目にとまった。


 どうしてみんな離れていくの? あたし、何にもしていないよね?


 昨日クマに向かって問いかけた自分の言葉を思い出した。


 確かにそうだ。あたし、何もしていない。


 奈美や三浦が離れていった時、嫌われたり避けられたりすることが恐くなった。そして「ゴミ袋係を押し付けたから」とか「同じゲームをしつこくやりたがったから」と勝手に理由を作り、本人がどう思っているのか考えようとしなくなった。だから三浦の事情も、話すまで分からないままだった。


 奈美の場合、やっぱりゴミ袋係を押し付けたり、一緒にパン屋に行くのを断ったことが原因かもしれない。それは自分が思っていた以上に、奈美を傷つけてしまった。知らない間に、メッセージをブロックされてしまうほど。


 それでも。嫌われたとしても。このままで終わりたくない。


 ベッドに座り、クマのぬいぐるみを持ってしばらく見つめた。頭を撫でながら、昨日スマホをぶつけてしまった傷を癒した。そしてスマホをクマに持たせるように置き、部屋の明かりを消した。


 次の日、一時間目は音楽だった。歴史を代表する音楽家の顔に後ろから見つめられる中、リコーダーや鍵盤ハーモニカなど、楽器のグループにまとまって合奏の練習をしている。木琴を叩きながら、リコーダーを吹いている奈美の方にちらちらと目をやった。ポニーテールだった髪が、いつの間にか切られてショートヘアになっている。さわやかに肩のラインでカットされた髪が、息継ぎをするたびに揺れていた。


 しばらくすると、リコーダーから口を離して一息つく奈美と目線が合った。周りの楽器の音が一瞬聞こえなくなる。木琴を打つ手を止め、しっかりと見つめた。以前の帰りの交差点とは違い、奈美は動揺して目を逸らせないようだった。やがてグループを順に回っていた先生に注意され、姿勢を直してリコーダーの練習に戻った。こんなに長い時間、目を合わせたのは久しぶりだった。


 授業が終わり、みんながぞろぞろと音楽室を出る。後ろから三浦が声をかけてきた。


「木下、ゲームやろうぜ。あれも得意なのか?」

「うん、バッチリだよ」


 一緒に廊下を走り始めて、早めに教室に戻る。ランドセルからスマホを取り出した。メンバーが集まり、アプリを起動する。これは画面上に出てくるモンスターを協力し合って倒していくゲームだ。それぞれのプレイヤーがこれまでゲットした武器を使い、次々と登場する敵を攻撃する。


「おっしゃー倒した!」

「やべぇ、こいつ強い。木下助けて」

「分かった、もうすぐそっち行くね!」


 銀色の鎧を纏ったキャラクターが、赤い眼をしたカラスのような巨大モンスターに向かっていった。羽を広げ口から炎を吐いてくるが、素早く盾で防御する。地面には火山灰のようなゴツゴツした岩が広がり、あちこちに異形の草が生えている。奥にはエアーズロックがそびえ立ち、遠い空には似たようなモンスターが飛び交っている。


 ふと向こうの席に集まっている女子の視線を感じた。何を話しているのか分からないが、あたしが男子とゲームをしているのが面白くないようだった。その中で、奈美もこちらを見ている。エアーズロックの壁に敵を追い詰めながら、ヒソヒソ話のする方に目をやる。奈美は複雑な表情を浮かべていたが、すぐに顔を背けて教室を出て行った。ショートヘアにしたせいだろうか、その後ろ姿は頻繁にトイレへ逃げ込んでいた自分と重なって見えた。


 今日、話そう。


 固く心に決めながら、画面を連打する。振り払った剣が白銀の光線を放ち、モンスターの首元を鋭く切り裂いた。


 刻々と帰りの会の終わりが近づいている。各係の発表や連絡が終わるごとに、鼓動は早くなっていった。時計の長針を見て、ぐっと唾を飲み込む。


 帰り支度は早めに済ませていた。そうすれば、何かの事情で奈美が急いで帰りだしたとしても、見失う心配はない。


 全員が起立し、日直が号令をかけた。それと同時に後ろを向く。奈美がランドセルを背負い、女子達と一緒に教室を出た。注意深く距離を保ち、見失わないように後を追いかけた。友達とおしゃべりを続ける奈美を見つめて歩く。いつも通り、学校付近では周りにたくさんの生徒が下校している。それでもあたしの目は、奈美をしっかりと捉えていた。


 やがてクラスメイトと別れ、奈美も一人で歩き始める。分かれ道が来る度に人が減っていった。無意識に枯葉を避けて足を運ぶ。もうじき十月も終わるというのに、じんわり背中に汗をかいていた。気持ちを落ちつけようとゆっくり深呼吸をした時、前を歩く低学年の子が脇道に入っていった。


 もう前を歩くのは一人だけになった。それを確認すると同時に走り出す。恐い。奈美の姿が大きくなるにつれて、息も出来なくなる。それでも足を動かす。気がつけば、そこは公園が柵越しに見える道だった。距離は五メートルもなくなった。


「奈美」


 奈美の足が止まった。荒い呼吸を整えながら反応を待つ。どうしようか迷っているのか、奈美はしばらく動かなかった。風に吹かれた髪だけが、ゆらゆらと揺れている。


 しかしもう一度名前を呼ぼうとした時、意を決したようにこちらを振り向いた。怒っているのか、緊張しているのか、悲しんでいるのか分からない。見る人によって印象が変わりそうな表情を浮かべていた。


 話をするには少し遠い。嫌な距離を感じると、ゆっくりと歩き始めた。崩れ落ちそうな地面を刺激せず、慎重に崖の近くを歩いているような足取りだった。


「なに?」


 怯えと緊張の入り混じった声で奈美が聞く。二人が手を伸ばしてもギリギリ届かない距離の所で、あたしは立ち止った。


 何か言わなくちゃ、と思ったが言葉が見つからない。社会のグループワークで無視された日の夜、メッセージを打とうとした時と同じだ。色々伝えたい気持ちは溢れていたが、口が動かない。ただならぬ雰囲気を察したのか、反対側の歩道を歩くお婆さんがチラチラとこちらを見ている。


 すると奈美がガサッと枯葉の音を立てて背を向けようとした。


「ごめんなさい!」


 頭を下げながら叫んだ。下を向いているから、奈美の姿は見えない。でも帰ろうとするのをやめて、まだそこに立っている気配があった。ゆっくりと顔を上げ、奈美をじっと見つめた。やっと自分の気持ちの一部を伝えられた。その思いから生まれるあたしの眼差しを避けるように、奈美が目線を地面に逸らせ、「何が?」と小さい声を吐く。あたしは拳を強く握り締めて言った。


「ゴミ袋係押しつけて、ごめんなさい。あと、急に一緒に帰るの断ったりしてごめん。今さらって思われるのは分かってるけど……でも、本当にごめんなさい。あたしのこと嫌いになったと思うけど、やっぱり友達でいたい。仲直りしたいんだ。前みたいに一緒に遊びたい。だから……本当に、今までのこと、本当にごめんなさい」


 つっかえながら滅茶苦茶に話しているのが分かった。でも、言葉を順序良く並べるなんて出来ない。色々な記憶や気持ちがごちゃ混ぜになり、口を勝手に動かした。奈美はまだじっと地面を見つめていた。さらに言い足そうか迷ったが、同じ言葉しか出てこない気がした。


「それって、本当にあたしと仲直りしたいから言ってるの?」と、奈美は足元の枯葉に話しかけるみたいに言った。


 そしてゆっくりと視線を上げ、あたしを見定めるように続けた。「他の女子に仲間外れにされるのが嫌だから言ってるんじゃないの?」


「そんな……違うよ! 本当に前みたいに仲良くしたいだけ!」


 すると奈美は、なぜか急にランドセルを脱いだ。それを胸元に抱えて蓋を開け、すごい勢いで右手を突っ込んだ。それは以前、夜中にスマホをランドセルから取りだそうとする自分を思い出させた。奈美は何かを掴んで手を引き抜くと、少し近づいてきて目の前にバッと拳を突き出した。


「じゃあ、これ何!?」


 叫び声が周りの家々にこだまする。気づくと奈美の右手は何か摘まんでいて、そこには光るものがぶら下がっていた。


 うそ……。


 目の前で二匹のクマが揺れている。どちらも銀色で、可愛い笑みを浮かべている。


 どれくらい歩き回っただろう。どれほど目を凝らしただろう。どんなに手を動かしただろう。探し続けて見つからなかった物が、今すぐそこにある。夢だと思った。奈美のことをもっと大好きにさせ、いつの間にかどこかへ去ってしまった、ずっと探していた大切なストラップだった。


「なんで……それ、持ってるの?」


 奈美の方に目を向けたが、ピントが合わない。クマがくっきり目に映り、奈美の顔がぼやけて見えた。


「自分が捨てたんじゃない」


 あたしが、捨てた?


「ゴミ袋に入ってたんだけど」


 聞こえてくることを理解しようとした。それでも先程の自分の言葉みたいに、上手く頭で整理できなかった。


「茜がゴミ袋係押しつけたあの日だよ。よく分かんない理由つけてさ。そしたらゴミ袋にこれが入ってて。しかも先生とじゃなく、牧ちゃんとおしゃべりしてたし」


 あの日のことを思い出した。休み時間にゴミ箱の中を丹念に探したが、見つからなかった。でも、それは見落としだった。もしかしたら、その後に誰かがゴミ箱に入れたのかもしれない。とにかく掃除の時間に教室や落し物届を探していたが、ストラップはもうゴミ袋の中に入っていた。それを運ぶ係を押しつけられた奈美が偶然見つけた。ゴミ袋は半透明だから、光るものは少し目立つし、ぼんやりと形も分かる。袋からストラップを取り出し、教室へ戻ろうとした時、事務室を出て牧ちゃんに話しかけられたあたしが目に入った。


 信じられない。でも今の話からは、それしか考えられない。


 奈美はあたしがストラップをわざと捨てたのだと思った。あたしが内緒でストラップを変えたことが、それを確信に至らせたのだろう。だから帰りの会の後に冷たい態度を取って、他の女子と公園で遊んでいた。たぶんその時に、あたしのことをみんなに打ち明けたんだ。


 ゴミ袋係を押しつけたことや、よそよそしい態度が理由で嫌われたんじゃない。原因はストラップだった。


 クマが夕日を反射して光ったのと同時に、意識が今に引き戻された。突風で枯葉が足にぶつかっていく。少しよろけたが、奈美は髪をなびかせたまま、しっかりと立って睨みつけている。宝物にするって約束した誕生日プレゼントをどうして捨てたの? と目が聞いている。


「違う! それは捨てたんじゃなくて、落としちゃったの!」とあたしは叫び、本当のいきさつを説明した。打ち明けられず、こっそりストラップを変えた朝。落し物届を確認するため、ゴミ袋係を押しつけた昼。家中をずっと探していた夜。伝えると同時に、後悔の気持ちが湧きあがる。どうしてもっと早く正直に言わなかったんだろう。


 奈美も驚きを隠せないでいた。風に吹かれた髪の毛先が、僅かにあいた唇に入り込む。ストラップを握り、その右手を下ろした。


「なにそれ……。なんでそれを初めから言わないわけ?」

「奈美だって言わなかったじゃん! あたしは一生懸命探してたのに」

「一生懸命探してるのに、なんで男子と平気な顔してゲームで遊んでたの?」

「そっちも他の子と仲良くしてたでしょ! メッセージだって……返信してくれなかったし」

「プレゼントを失くしたままで、メッセージの返信をしろだなんて、自分勝手じゃん!」


 大声で奈美が怒鳴るのは初めて見た。これは、あたしがしてしまったことの重みなんだ。さっき話しかけるまでは、怒られたり嫌われたりするのが恐かった。でも今は、プレゼントを失くしてしまったことの方が重くのしかかった。


 奈美は肩で息をしている。手の震えで、クマが喧嘩をするようにカチカチとぶつかり合っている。あたしはそれを見つめながら言った。


「ごめん……。誕生日プレゼントを失くしたなんて言ったら、絶対嫌われると思って。だから、言えなかった。でも最低だよね。本当に、最低。黙ってコソコソしないで、ちゃんと奈美に言って謝らなきゃいけなかったのに」


 小さい子たちの楽しそうな声が公園から聞こえた。ブランコの揺れる音も響いた。


「あたし、自分がどれだけ酷いことをしたのか、ちゃんと考えられなかった。奈美だって苦しかったのに、それを分かろうとしなかった。そうじゃなきゃ……、奈美が勝手にメッセージを……ブロックなんてしない」


 泣き声になりかけているのに気がつき、俯いて唇を噛んだ。ブロックされ、スマホを投げつけた夜を思い出す。傾いた夕日がさらに眩しく感じられた時、奈美が静かに口を開いた。


「ごめん。あたし……女子がブロックしなよって言うから。断ったら自分も何かされる気がして、やっちゃったんだ。でも、やっぱりあたしが他の子に言われるまんまで、茜に向き合わなかったのがいけなかったんだよね」

「奈美は悪くないよ! スマホで返事をもらおうとした、あたしが臆病だった」と顔を上げて叫んだ。

「あたしだって臆病だった。本当は茜にストラップのこと聞きたかったのに。周りの女子も怖くて。茜が男子と遊んでるのを見て、意地張っちゃって」


 あたしは体の震えを抑えるように、拳を強く握りしめた。そして奈美に近づき、目を見てはっきりと言った。


「あたし、男子と遊んで逃げてた。忘れようとしてた。でも無理。あたし、奈美とまた遊びたい。プレゼント失くしちゃって、自分勝手で臆病で、本当にごめんなさい。でも、奈美とずっと友達でいたいよ」


 奈美の頬に涙が伝う。指からぶら下がっていたクマがぶつかるのを止め、閉じた右手に包まれた。


「あたしも、ごめんなさい。あたし、ずっと茜と遊びたかった。離れて歩いたりしないで、一緒に帰りたかった」


 奈美がゆっくりと手を伸ばし、あたしのくせ毛を包んだ。胸の中の重みが消えていく。奈美の腕に、あたしのこぼした涙がはねる。夕日が眩しさを増し、お互いがよく見えなかった。それでもしっかりと寄り添い、肩に顔をうずめてしばらく泣き合った。


 公園から子供の声やブランコの音は聞こえなくなり、通りにはあたし達の声だけが響いている。ごみ箱をあさっていた日にしてもらったように、今度は自分が奈美の頭をポンと撫でた。ポニーテールはなくなっても、少しも変わらない大好きな奈美だった。


 約束していたお店で買ったパンを食べながら、久しぶりに奈美と並んで歩いた。噛む度に、色々なことを思い出す。パン工場の見学。グループワークをした社会の授業。奈美の後ろを歩きながら、お店をそのまま過ぎた帰り道。ベルトコンベアに運ばれたアツアツのフワフワではなかったが、今食べている酵母パンの方がずっと美味しかった。


 二人の影が長くなって重なり始めた頃、帰り道の分かれる空き地の交差点に着いた。奈美がストラップを目の高さにやりながら、あたしの分を返して合図する。気づいたあたしが受け取って同じように近づけると、カチッと音を立てながら銀色のクマが肩を組んだ。

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