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1 空海の首

(1)



 ――クゥカイのクビを、


 その人はそう言ってから僕の耳元で囁いた。


「…探してくれませんか」


 週末の立ち立ち呑み屋の喧噪がぐるりと僕の鼓膜奥で卍状に渦巻くと、やがて肉体の内にポツリと落ちた。

 落ちるとそれは蜘蛛の巣状に広がり、天井で唸る扇風機の中に吸い込まれて、音鳴く消えた。

 そんな気がした程、その人――つまり彼が言った意味が分からなかった。だから僕は彼を振り返り訊いた。

「クゥカィ…ですか?」

「ええ」

 彼ははっきりと答えて続けて言った。

「空海です」

 はっきりとした漢音にも僕はその言葉の意味が何を指すのが分からなかった。

 だが不明と言う蜘蛛の巣がまた僕の肉体から広がろうとするのを彼はむんずと掴み取って、僕へ僅かに苛立ちを浮かべながら地面に投げつけるように言った。

「空海――そう、弘法大師とでも言えばいいですかね?」

 彼の強い口調に僕は流石にはっとして意味を掴み、その『人名』を思い浮かべた刹那、今度はまたしても意味不可解な感覚が(よぎ)ってまごついた。

 何故なら、彼はこう言わなかったか。


 ――空海の首を探してくれませんか


 …と。

  (どういう…意味だ?)


 当然だ。

 弘法大師空海。

 彼は高野山で遥か昔、没している。それを今彼が僕にその人物の首を探してくれませんか、と言ったのだ。

 悪い冗談だ。

 それも彼独自の諧謔(ユーモア)なのだろう。


 僕は彼の名を「御厨(オズ)さん」と知っていて、互いに大阪場末の立ち呑み屋『得一』の馴染である。

 歳の頃も同じで三十代後半。

 最初は互いに離れて一人で飲んでいたのだが、いつの頃だろうか…彼自身、古文書集めが趣味だという事を漏らし聞いて、自分自身も古書…、まぁ僕の場合は古い小説なのだが、互いに蒐集家の性格(タチ)であることを知り、どちらからともなく酒場で声を掛け、やがて格好の呑み友達になった。


 酒を飲む回を増やす内に彼が古い時代について相当見識が深いことが良く分かった。古文書集めが趣味だというが、それにしても堂々とした深い見識を持っている。

 彼はそうした見識を眉間に皺寄せる様に語らず酒を飲みながら陽気に時にユーモラスたっぷりに論を交えて僕に教えてくれる。

 それを聞くのが僕の楽しみになったのは言うまでもなく、先程も古今和歌集の事や日本霊異記の事などを聞いていたところなのだ。


 酒の盃を置けば僕はそんな彼について思う。

 確かに現在の彼は市井の一人として言えるかもしれないが、然しながら彼の学識はきっとどこかの大学の教授は勤まるくらいはあるだろう。

 だからこそ、そんな彼が唐突に柄にもなく奇妙な事を言ったのだから、僕自身、その意味が明瞭になるにつれ驚いたのは無理もない。

 だが、彼は非常にユーモラスな性格だ。

 …だから、僕は


「御厨さん」

 と彼の名を呼んで、やや口元に微笑を浮かべて言った。

「中々諧謔(ユーモア)たっぷりの冗談ですね」

「そうですか?」

 言うと彼は箸を伸ばして烏賊の一夜干しを取り、マヨネーズをつけてから飲み込み、咀嚼した。


 ――それも少し失望した表情を見せて。


(えっ?…)

 その彼の表情を見るにつけ、僕は何とも言えない苛まされるような胸騒ぎを覚えた。

 それは何というか…何か大事な事を言われて自分だけが気づいていない、まるでミステリー小説に出て来る凡人の様な登場人物の気持ち。

 だから僕は慌てて彼の失望に手を伸ばして、振り向かす様に声を掛けた。

「いや、だって御厨さん。空海でしょう?彼はもう、遥か昔に亡くなって、確か高野山に祀られているじゃないですか?」

「祀られてませんよ、彼は神仏じゃない。入定したのです」

「ええ、まぁそうかもしれませんが、意味は同じでしょう」

「まぁそうですね。現代においては。但し精神世界においての意味は天と地の隔たり程違う」

「ですがね、御厨さん。そんな五体満足で亡くなった人物の首を探すなんて、戦国時代の義元じゃあるまいし」

「まぁ、阿刀(アト)さん」

 彼は僕の名を言ってから、笑みを向けた。

「諧謔に…しておきましょう。先程の事は、まぁ僕の戯言という事で」

 だが…、と僕は食い下がる。


 ――何故そうなら、あの時…僕に失望の表情を見せたのか


 それを口に出そうとした時、彼が遮る様に言った。

「いえね。どうも阿刀さんが冴えない顔つきをしてらっしゃる。どうやら、お仕事でも上手くいっていないのか、何処か魂が半分抜けたような表情ですからね。…少し、意味不明な事でも言って、背筋をピンとさせたやろうかと思ったのです」

 彼の声が僕の鼓膜奥に響いた時、再びその声が肉体の内に落ちて蜘蛛の巣状に広がると、やがて先程と同じ様に天井で唸る扇風機の中に吸い込まれていった。


 猛暑の夏夜に訊いた奇妙な言葉。

 それが扇風機の唸りと共にやがて僕を卍上に世界に落とすとは露ほども知らず、僕は酒をぐっと呑み干した。








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