3話 神より我が子 中編
二回目となるゴーグルの準備を手早く済ませてスイッチを入れると、目の前は一面の白菊であった。
所々で黒服の男女がすすり泣いており、嗚咽が聞こえて来る。子供も多くいた。中でも幼い子たちは何のことやら分からずにきょとんとしている。
「よりによって葬式から始まるのね。」
紗良さんがそうこぼした。
周りから見えない僕らは中央の道を歩いて前の方に行った。中央には笑顔の遺影、何かをこちらに語りかけている瞬間を切り取ったものだろうか。夭折のために当然正式な遺影が用意されていなかったのである。これが話に聞いた謙太郎君だろう。
中央最前には坊主がいてお経をあげていた。一層雰囲気を暗くしているように思えるこのリズムも死んでみれば心地よく聞こえるようになるのかしら。坊主のさらに奥からは紫がかった焼香の煙が揺らめき立ち昇っていた。
見えないとはいえずっと通路に立っているのも不躾だと思い、僕たちは椅子を探して振り返った。一番前の一列には遺族が座っていた。僕たちから向かって一番左、通路のすぐ脇に三島が座っていた。すでに涙は枯れたとみえて、ただ呆然としているようだった。よくこの辛い場面にもう一度臨もうと思ったものだ。
膝に鏡花ちゃんだろう女の子を抱えていた。黒服は急仕立ててつんつらてんになっている。まだあまりに幼くわけがわからないようである。隣には夫と思われる男性が座っていた。黒縁メガネの奥の目が苦々しく曇っている。彼も父親だから悲しみは底を知らないのだろう。独り身で、まして子供などいない僕には想像することしかできないが。
「たまらないわね。こういうの。」
そういうと紗良さんは坊主の脇をすり抜けて焼香をあげた。
僕も正しい作法はよく覚えていないが続いて行った。焼香の煙が少し太った。
謙太郎くんの同級生やその家族が大挙しているらしく、席が全然空いていなかったので仕方なく後ろで立っておくことにした。後ろには立って参加している人も多くいた。そこで気になる光景を目にした。僕たちは入り口に入って左側にいたのだが、右側には他と少し毛色が違う連中が四、五人立っていたのだ。黒い服に身を包んではいたのだが、喪服とは言い難い見た目である。何より表情が不気味だった。全員驚くほど同じ顔をしているのである。皆それぞれ俯いたりすすり泣いたりしているのにその連中だけは終始冷然といている。脇には深緑のカバーに包まれた洋書風の分厚い本を抱えていた。
葬式は特段滞ることなく進行し、やがて出棺の時刻となった。持ち上げられた棺はおもちゃかと思うほど小さい。
「もうずっと前のことだけど、切ないわね。」
と紗良さん。人の命は皆等しいと言うかもしれないけど、それは無責任な偽善だと思う。老人が天寿を全うして亡くなるのは確かに遺族は悲しむかもしれないが、納得がいくだろう。でも子供はどうだ?納得できるか?そんなことあるはずがない。幼い子が亡くなるのは、それがたとえ自分と無関係でもたまらなく哀しいものである。
霊柩車は黒艶を輝かせていた。もうそれを見ることさえ叶わない者のために立派な車を用意するのは、無宗教の視点から見れば中々の皮肉だ。参列者が左右から霊柩車を送り出した。走り出した黒い車体はやがて小さくなり、日常の中へと吸い込まれていった。
葬式が終わり、参列者たちは各々三島家族に挨拶だけして帰っていった。最後に残ったのはあの宗教団体だった。
「この度はご愁傷様でした。」
団体の中の女が三島と旦那さんにそう話しかけた。三島の顔が途端に引き攣った。二回目なので当然女の正体をお見通しというわけだ。
「どうも。あの、ところであなた方はどちら様でしょうか?」
何も知らない旦那さんが尋ねると、
「名乗りが遅れました。我々大政修道会の者です。今回は三島家の方々にお話があって参りました。」
「はて、どのような?」
女は病的に微笑むと脇の本を取り出した。
女はまるで遠慮することなく宗教云々の話をし出した。旦那さんがちんぷんかんぷんといった様子で聞いているそばで三島はまるで死刑宣告を受けているような顔をしていた。
「要するに、私たちはあなた方をただ今の不幸の中から救い出すべく参った次第なのです。」
旦那さんはまだ要領を得ない様子だった。
三島は重苦しい口をようやく開いて
「あの、申し訳ありませんが私どもはすでに仏教徒なので」
と断り文句を述べた。仏教徒というのは嘘っぱちだろう。ただ坊主のいる葬式会場においては結構都合のいい嘘である。
しかし女は引き下がらなかった。慣れているのだろう。三島の言葉を聞いても少しも気にする様子がなかった。
「ですが奥様、仏教を信じた末にあなた方は救われましたか?そうでないでしょう?仏教の仏さまはついぞ息子さんをお救いにはなられなかった。」
大胆で不躾な物言いだが、このくらいの押しの強さの方がうまく行くのだろう。不謹慎でも、確かにそうだと思わせてしまうような巧妙な言い草だ。おそらくはここですでに三島の心は半分囚われてしまったのだろう。
しかし、今回は三島にとって二度目である。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「だったらそちらの神様なら息子を救えたのかしら?そんなこと分かるの?あなたたちに。」
逆に三島が問うと
「ええ、間違いなく。」
女は即答した。愚策である。女はすでに信者で、大政修道会の神に信奉しきっている。「救える」と断言するに決まっているのだ。三島が何と言おうと神以外を信じない連中には響かない。今朝僕が会った母親のように。三島が宗教との決別を決めた今となってはこの問答自体が無駄なのだろう。
「ですが私たちにはあなた方のところに入信するつもりは毛頭ありません。ご足労いただいたところ申し訳ないですが。」
三島が確固としてそう言うと、連中は「そうですか、残念です。」とだけ言って意外とあっさり帰っていった。
「あら、もっとしつこく迫るものだと思ってたわ。」
隣で紗良さんが呟いた。確かにそこは今朝の親子とは違っていた。何かありそうでかえって不気味である。
連中が去ったあとも旦那さんはまだ飲み込めずにいる。
「一体何だったんだ?あの人たち。」
「宗教の勧誘よ。カルト宗教っていうのかしらね、怪しいやつ。」
「へえ」とだけ呟いて旦那さんは連中が去り際に渡していった大政修道会のパンフレットをまじまじと眺めていた。
連中が見えなくなるところまで行ってしまうと三島はほっと胸を撫で下ろした。しかしこれで終わるのだろうか?ほんの少しの不安のざわつきが僕の心に残る。確かに三島は宗教を跳ね除けて脱したはずなのだが、これだけで終わらないような気がする。根拠はないのだけれど。
にわかに焼香が強く香った。紫の煙は渦をまくと式場一杯に駆け巡り、それに呼応するように菊の花弁が舞い始めた。
「とりあえずここは終わりのようね。」
紗良さんの言葉の意味が分からないうちに僕の体は白菊にすっぽり包まれて、その花の流れが纏う香りを嗅いだ途端に沈むように眠ってしまった。
次に目を開けると、僕らは一軒家の中にいた。
「これってどういうことなんですか?」
と紗良さんに聞いた。
「場面が分かれているのよ。君のときや前回はターニングポイントが一つしかなかったから、一場面での選択を変えるだけでどうにかなったようだけど、今回はそうも行かないみたい。選択を変えた先にもう一つ選択があったという感じね。」
胸につっかえるような不安はこれだったのか。
三島が階段から降りてきた。普段着のなりであったので、ここは三島宅なのだろう。三島が降りてきたのを感じ取って鏡花ちゃんが奥の部屋から出てきた。
「おはよう、お母さん。」
「おはよう。朝ごはん、ちょっと待っててね。」
葬式のときは緊張している様子で分からなかったけど、笑うと年相応の可愛らしい女の子である。鏡花ちゃんの笑顔を見て少し安心した。
最初に違和感を覚えたのは他でもない三島本人らしかった。三島は怪訝そうな顔になると振り返って鏡花ちゃんに尋ねた。
「あれ、鏡花、お父さんは?」