3話 神より我が子 前編
朝食後の午前9時くらいに事務所のインターホンが鳴った。多山さんも紗良さんも雑務で手が離せないようだったので僕が扉を開けて出ると、母子が立っていた。見たところ普通の親子である。母親は薄めのベージュのワンピースに白いつばひろ帽子、娘は空色のスカートという一見清潔な格好だった。母親はアラフォー、娘は小学校の高学年ほどと見えた。帽子の下から覗く母親の瞳はあまりに光なく、洞窟の遥か奥を見つめているような不気味な心地がした。
当然僕が会ったことなどはない。ちょうど多山さんが「今日は依頼がある」と言っていたので、その客ではないだろうかと思っていたところ、母親の方が不気味な笑顔を浮かべながら話し出した。
「突然の訪問ですみません。わたくしたち、大政修道会の者です。」
なるほど、そういった話か。大政修道会の名前は聞いたことがある。目立つことは少なく、時たまテレビやネットなどで話題にあがるくらいのカルト宗教だ。この親子はそこの信者なのだろう。早い話、これはよくある訪問式の宗教勧誘なのだ。
母親は続けた。
「早速ですがあなたは生きるうえで心の拠り所をお持ちになっておりますでしょうか。見たところあまり救われてないように思えるのですが。」
初対面でいきなり失敬な。確かについこの間までは物理的な意味で拠り所を失っていたわけだが、なにも救いがないわけじゃない。全く宗教というのは人のデリカシーを吹き飛ばしてしまうのだろうか。
こちらとしても朝から声を荒げて怒りたくもないので適当にあしらおうと思い言葉を返した。
「いえいえ、特に不自由なく生きてられてるから僕は十分に救われてます。なにも心配はないっすよ。」
そう言うと何故か母親は一層憐れむような目を向けてきた。
「無理なさってはいけませんよ。あなたはもっと救われなくてはなりません。『信じるものは救われる』とよく聞くでしょう。あなたも我らが神を共に信じませんか?」
さっきから救われないだの無理してるだの決めつけが激しい人だ。貧乏くさい格好をしている奴は全員不幸だと思ってやがる。神を信じる?あり得ない話だ。神なんているのなら僕の家は燃えなかったはずだし、路頭にも迷わなかったはずだ。まあ僕を拾ってくれた多山さんや紗良さんはある意味僕の神様なのかもしれないが。
僕は無学なりに歴史は知っているが、神を信じて救われた人間より、神を信じて殺された人間のほうがよほど多いはずだ。ともかく、いちいち癪なこの宗教に入信しないことは断言しよう。
先程から母親の隣で黙りこくっていた娘がこちらに寄ってきて、僕を上目遣いで見ながら照れ臭そうにはにかんだ。
「これ、どうぞ。よろしくお願いします。」
子供特有の言わされてる感が強い機械的な口調でそう言って、一枚の紙を渡してきた。大政修道会のパンフレットだった。
「わたくしたちはあなたの入信を心待ちにしております。どうかあなたの心が救われますように。」
母親はそう言い残すと娘を引き連れて帰っていった。
大部屋に戻ると紗良さんがいた。
「何だったの?」
「宗教勧誘でした。」
「ああ、胡散臭いやつね。もっと思いっきり追い返してやればよかったのに。そんなパンフレットまで貰っちゃって。」
子供が手渡してくるのを断るのは忍びなかった。そこまでちゃんと計算しているのだろうが、全く巧妙である。
紗良さんは何か気づいたようである。
「あれ、このパンフレット見たわよ。多山さんの机の上にあったわ。あの人宗教なんて興味なさそうだから不思議だったのよ。」
二人で多山さんの机のところまで行くと、確かに卓上に同じ大政修道会のパンフレットが置いてあった。
「ああ、それかい。今日の依頼人に関係しているんだよ。決して私が入信しようというんじゃないよ。」
後ろから多山さんの声が聞こえてきたので、少し後ろめたさを感じてしまった。
依頼人も大政修道会の関係者なのだろうか。だとしたらさっきの勧誘といい、不思議な偶然である。
依頼人の来訪は午前11時すぎのことであった。五十過ぎくらいの中年の女性だった。赤基調の花柄のロングスカートと、ケバケバしくファンデーションが降ってきそうな厚化粧がどうも悪趣味に映ってしまっている。彼女は細身の体を慇懃に折りたたみながら挨拶をしてきた。多山さんは彼女を出迎えるとそのまま大部屋へと案内した。
女性は多山さんの向かいに座ると桃色のハンカチで額を撫でた。多山さんが事務的に話を始めた。
「確認ですが、三島恵理子さんで間違いないですか?」
「ええ、間違いありません。」
「あらかじめ電話で大体の話は伺っておりますが、詳しいところをお聞かせ願えますか。」
促されると三島は自らの身の上を語り始めた。
「生まれてからというもの私はいたって普通の女でした。普通の家庭に生まれ、普通の環境で育ち、普通の旦那を持ちました。子宝にも恵まれ、息子と娘が一人ずつおりまして、あの頃は人並みの幸せを手にしていたと自負しています。」
絵に描いたような普通ぶりだ。それなのにどうしてここに来るようなことになったのだろうか。
「私の人生が普通でなくなったのは今から十八年ほど前の話でした。息子が亡くなったのです。謙太郎という名前でした。あれはちょうど今日のような晩夏の一日でございました。謙太郎は小学三年で、夏休みの終わりがけでしたので、思い出を作ろうということで友達と海水浴に行ったのです。息子はそこで水死してしまいました。本当に前触れもなく、私や旦那に一言も別れを告げることなく逝ってしまったのです。愛する子供に先立たれるというのは親にとって最大の不幸でございます。当時の私は突然人生の目的を取り上げられて、生きていくための気力という気力がまるで抜けてしまいました。どうしようもなかったと頭では理解できても、後悔は絶えませんでした。願わくば私が謙太郎を助けたかった、代わってあげたかった。」
「一応お伝えしておきますが、謙太郎くんの生死は変更不可能ですよ。お辛い気持ちはお察ししますが。」
多山さんはちょっと冷たく釘を刺した。
「分かっております。私の真の過ちはそれではありませんもの。謙太郎が亡くなってから私は憔悴した日々を過ごしていました。旦那も、兄を亡くした幼な娘の鏡花も、自分が辛いはずなのに私のことを気遣ってくれました。今思えば大変な迷惑をかけてしまったように思います。そんな時でした。インターホンが鳴り、私の神が降りてきました。ごくごく普通の主婦だった今までの私は宗教勧誘など相手にはしておりませんでしたが、その時は情けないことに確かに心が救われてしまいました。弱い私はそのまま『大政修道会』に入信してしまいました。大政修道会については先日パンフレットをお送りしたのでそれで少しは知っていただけたと思います。」
ああ、ここで繋がったか。さっきはカルト宗教だのなんだのひどく悪いように言ってしまっていたが、そんなことが言えるのは僕が恵まれているからなのか。心が弱った人というのは神や仏に心惹かれてしまうらしい。
「何も宗教が全て悪かったということではありません。過ちはあくまで私自身のものでした。入信してからというもの、私はすっかり大政修道会の教えにのめり込んでしまったのです。生活は一変し、教えを守るために生きているような状態になってしまいました。最初の方は旦那も我慢してくれていましたが、私の信仰心がエスカレートしていき、ついに我慢できなくなって私から離れていってしまいました。結局まだ幼い子供の娘だけが私の元に残されました。」
結局この人は救われてないじゃないか。そこでおかしいと気づかなかったのだろうか。
「娘は私の宗教活動にもよくついてきてくれました。今思えば嫌々だったのだろうと思います。しかし宗教のことしか、神のことしか頭になかった私にはそれを察することが出来なかったのです。」
宗教二世という話か。聞いたことはある。
「今から六年前でした。鏡花は高校卒業の春、忽然と私の目の前から消えてしまいました。ただ家の机に書き置きだけが残されてありました。」
「そこには何と?」と多山さんが親身っぽく聞くと三島の表情が曇った。
「短い文章でした。『私はお母さんと違って神様のために生きているわけではありません。私は私だけの人生を歩むので悪しからず。親子の関係はここで終わりにしましょう。どうか私のことは探さないでください。』とだけありました。」
つくづく救われない人だ。この人も神に殺される側の人なのだろう。
「たまりませんでした。ついに私は天涯孤独の身になってしまったのです。愚かな私はそこでようやく自分の過ちに気づきました。私はたった一人の娘よりも不確かな神様を優先してしまったのです。そして何より、私の宗教に娘を巻き込んでしまいました。」
話を聞く限り娘の苦悩も十分すぎるほどに察せられた。きっと自分の意志に関係なく無理矢理やらされていたことも多いのだろう。ちょうど、今朝の母子のように。三島はあの親子の未来なのだろうか。そう思うと今朝の出来事がにわかに物哀しく思えてきてしまった。
「ですから宗教に出会った頃の幻を見せて欲しいのです。そこが私の人生の最大のターニングポイントだったと思うので。それが私の依頼です。どうか私を、ただの母親に戻してほしい......。」