2話 ジレンマの果てに 中編
紗良さんはゴーグルから伸びたコードを近くの母体と思われる巨大な機械に接続した。人が入れそうなほどの大きさで、部屋の半分ほどを占めていたので圧迫感がある。
僕も同じようにゴーグルと機械を接続し、それを確認した紗良さんは母体のスイッチを押した。母体の機械はその見た目に相応しい重い機械音をあげながら唸りだした。
「ちょっと時間がかかるから待ってようか。」
そう言って紗良さんは脇にあるベージュ色のソファに座ったので僕も隣に腰を下ろした。足の踏み場もないほど機械に埋め尽くされた部屋なのでこんなソファがあるのはかなり不自然だった。はっきり言って浮いている。
しばらくして機械音が鳴り止んだ。
「準備が出来たようね。じゃあそろそろ行きましょうか。お客さんもすでに向こうへ行ってるはずよ。」
紗良さんは手元にゴーグルがあったが、僕は機械の上に置きっぱなしだったので立ち上がってゴーグルを取りに行った。
「これってどうやって使うんすか?」
「簡単よ、スイッチを押すだけ。右の側面に楕円形のやつがあるでしょ?」
見えないが、感触があった。ああ、これのことかと思い軽率にも僕はそのままの勢いで押してしまった。
「あ!立ったままじゃ危な......」
紗良さんが何かを言い切る前に僕の視界が、いや、意識そのものが切り替わった。
立っていたのは、かなりの広さの空間だった。四面の壁はどれもねずみ色で、床だけ深緑である。明かりに乏しく、酷く陰気である。薄暗く、そのくせ天井の高い大空間を頼りない蛍光灯が懸命に照らしていた。
鼻をツンと刺すような悪臭も不愉快だ。おそらくは機械に使われているオイルの臭いだろう。油断すると吐き気だって催しそうである。
何が何だか分からないうちに、隣から声が聞こえてきた。少しの遅れで紗良さんが入ってきたのである。
「あら、こっちにはちゃんと来れたみたいね。でもちょっと早とちりだったよ、君。立ったままスイッチを押すとそのまま倒れちゃうから危ないのよ。」
さっき微かに聞こえたのはそういうことだったか。なるほど、幻の持ち主と同じように現実の意識が途絶えるわけだ。
「すいません、そそっかしくて。」
「次から気をつけなさいよ。君の体は私がソファに座らせておいたわ。」
「それは...... ありがとうございます。」
運ばれる僕の姿はどれほど情けなかっただろうかと想像して赤面するのも束の間、閉じた青銅色の大扉の向こうから重なった大量の足音が聞こえてきた。見つかったらまずいのではなかろうか。今僕たちが金山の幻の中にいるとすれば、ここは九州車輌製造の敷地内である。はたから見れば部外者二人が一企業の施設内に侵入している状態なのだ。
「隠れましょう!紗良さん。」
「いいえ、そんな必要はないよ。」
「どうしてそんなことが!」
言い合ううちに、扉は開いてしまった。
扉の向こうは一面の逆光でよく見えなかったが、その光の中から一人、また一人と作業着にヘルメットの男たちが吐き出されてきた。今この時まで突っ返すように冷然としていた空間がにわかに騒々しさで埋められたので、いよいよ僕は焦った。
しかし僕の心境とは裏腹に、男たちは一向に僕たち二人を気にしていないように見えた。
「あれ......?」
「ほら、大丈夫でしょ。私たちは向こうからは見えてないのよ。」
紗良さんは悪戯っぽく笑った。
「知ってて僕のことからかったんですか?」
聞いても彼女は意味ありげな顔をするだけである。僕ら二人がいた隅の方には外光の一筋も届かずに、紗良さんの顔も朧げではあったが、指を絡めた黒髪がしなやかに蛍光灯の明かりを照り返しているのだけは涼やかに映えていた。
男たちの最後尾から金山が入ってきた。やはり僕らには気がついていないようである。こちらからは聞き取ることができないが、彼は男たちに指示して何やら準備を始めた。
奥から台車を使って四人がかりで運ばれてきたのは列車の動輪だった。おそらくは例の鉄道事故の原因になったものだろう。運ばれてきた動輪は空間のちょうど中央あたりにあるプレス機のような巨大マシンにセットされた。
万事整うと金山は全員に静粛を促した。彼は作業員たちをマシンの前に集合させると前置きをほとんど挟まずに号令をかけた。
「ではこれより、圧縮強度試験を始める。」
係らしき二、三人が機械を動かしはじめた。ウォーンウォーンと音を鳴らしながらプレスのようなものが降り始めた。この場の作業員全員が機械の周りを取り囲み、その様子を食い入るように見つめている。僕たちも隙間から覗いていた。
プレス板が動輪の上側に触れると降下が一旦止まった。マシンに表示されている数字がどんどん増えていくが、素人目には動輪に特段の変化は見られなかった。
目標値にどんどん近づいていくにつれて、作業員たちの顔に成功の色が浮かんできた。あと少しというところ、ただ一人金山だけが苦い顔をしていた。当然である。これから何が起こるのか、もうすでに「知っている」からだ。
弾けるような鋭い音が空間いっぱいに響いた。プレス機には半ば砕けざまに割れた動輪が横たわっていた。男たちはもちろん混乱していた。
これが後悔の元凶である。それを再び見せつけられて、金山の顔は青ざめていた。でもここからなんだ、この人の闘いは。ここから何かを変えなくちゃならない。
男たちは騒々しかった。「これヤバくないか?」やら、「設計ミスか」やら、「三週間後には納品なんだぞ」やら、ところどころから聞こえてくる。数人が金山の方へ寄っていった。
「主任、どう報告しますか?」
「ひ、ひとまず私に預けてほしい。」
金山はくるりと背を向けると足早に大扉から出て行ってしまった。
僕は目まぐるしく動く状況に呆然としていた。ところどころでワーワー言っている真ん中で、壊れた動輪だけが静かである。紗良さんは僕の手を強く引いた。
「なにボーッとしてるの!ついていくわよ。」
大扉の向こうは屋外であった。突然の明るさで一瞬何も見えなくなり、緑色にチカチカした。金山は施設の事務所らしきところに立ち寄って自分の荷物を回収してから車へと向かった。僕たちもそれに続いたのだが、車に乗り込むのが一苦労だった。金山がカバンを置くために助手席のドアを開いた隙に紗良さん、僕の順で入り込んで、そのまま後部座席へと移ったのだ。紗良さんは割とスルスル入り込めたが、体のかたい僕は四苦八苦する羽目になったのである。
金山はすぐには発車せずに電話をかけ始めた。一人目には繋がらなかった。怪訝そうな表情になりながらも彼は二人目にかけたが、こちらはすぐに繋がった。
「もしもし、金山くんか。どうかしたかい?」
声はこちらまで微かに聞こえてきたが、野太い男の声だった。
「はい、部長。動輪の件なんですが。」
上司への電話だ。不測の事態に対する行動としてはごくごく自然だ。では一人目は他の上司といったところか。
「動輪がなんだね?」
「試験で壊れてしまいました。」
それを聞いた向こうは随分驚いている様子だった。少々混乱していたようだが、
「とりあえず、こちらへ来なさい。今すぐに。」
と低い声音で伝えてきた。
「は、はい。分かりました。今から向かいます。」
そう金山が言い終える前に電話は切られた。
金山は震える手でエンジンキーを差そうとしたがなかなか上手く差し込めずにカチャカチャと音を鳴らしていた。息遣いも荒く、かなり動転しているようである。一度体験したことでも、いや、一度体験しているだけにトラウマの再生を予感しているのだろう。
車が発進したのはいいが、かなり不安定な運転であった。金山の手が小刻みに震えるせいで、車が右へ左へとよれてしまう。
「紗良さん、これ事故ったらどうなるんすか?」
「幻の中で魂だけ死んで、現実世界では脳死状態になるわ。」
下へ引っ張り下ろされるように血の気が引いていくのを感じた。
「嘘でしょ。」
「嘘よ、ただ現実世界に引き戻されるだけ。」
いや、今のは洒落にならない。金山以上に恐怖したのだから。
「人が悪いですよ。良くないです、流石に。」
「ウフフ、ごめんなさいね。ついね。」
そう言って紗良さんはまた軽くあしらうように微笑むばかりだった。