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1話 幻を見せる部屋 後編

 濃紺のブレザーに藍と黒のチェックのスカートはうちの中学の制服である。落ち着いた色合いが好ましいと評判が良かったのを覚えている。今目の前にいる彼女は蒸し暑さのためかブレザーを脱いで近くの椅子に掛けていた。


 彼女はかなりボーっとしているらしくまだ僕がいるのに気づいていない。この娘が僕の後悔の正体なんだろうか。相変わらず外を向いているので顔が見えない。ただただ少し茶色がかった髪が風に抱かれて柔らかくひるがえるばかりである。


 こんな子いたかしらと考えてみるけれど、一向に思い出せない。おかしい、ただでさえ人数が少ないクラスだ。他の奴らの名前や顔は次第に頭の中へと浮かび上がってくるのだけれど、この女の子のことだけが分からないままでいる。顔さえ見れば何か変わるのではなかろうかと思った僕は彼女に近づいてみた。


 彼女は近づく僕にようやく気づいた。あまり驚く様子はない。振り向いてようやく見えた彼女の顔は、どこにでもいるようなごく普通の女の子に見える。でもどこかしらの懐かしさがあった。僕の矮小な語彙では到底言い表せないけれど、とにかく胸を締めつける懐かしさだった。驚くことに彼女は当たり前のように僕に話しかけてきた。

「もう終わったの?晃介くん。」

聞いた声だった。昼間のことを思い出す。川で見たあの白昼夢のことだ。この娘の声だったのか。

 

 ただ彼女の言ってることが分からない。彼女はやはり僕のことを知ってるようだった。とりあえず

「知ってるって何を?」

と問い返してみると

「部活に決まってるじゃないの。いちいちふざけるのは嫌いよ。」

彼女がそう言いながらえくぼのはっきりとした笑顔をこちらに向けてきたのを見て、僕は突然ピンときた。

「君、里穂か?」

そうだ、上木里穂だ。僕の唯一の女友達だった子だ。思い出した彼女の記憶はさっきまで忘れていたことが嘘のような鮮明さである。水泳のせいで若干色の抜けたボブの髪、自分式に着崩した制服、思ってもないくせに嫌いと言う口癖。

「まだふざけてる!しつこいのね。」

ああ、怒った顔の黒目がちな瞳。この激烈な輝きをどうして忘れていたのだろうか。どうして、僕はこの子を......


 一緒に帰ろうと言われたので二人で教室を出た。里穂はずっと言葉少なに俯いていた。何かある。そしてそれこそが僕の後悔なのだろうと思う。里穂のことを思い出しても、そこが思い出せない。

「ねえ、暗い顔して、どうしたの?」

「ううん、何でも。」

あと何回か聞いたけど、その度に同じ答えが返ってきた。そんなに言いづらいことなのか。困っているうちに小川が見えてきた。昼間に実際通った川より随分小さい川だったが、底まで透かすほど澄んでいる。「寄ってこうよ。」と言われたから二人で土手を降りた。

 

 河原まで下りると里穂はさっそくスニーカーを脱ぎ捨てた。後ろからついて行く僕が彼女のそばまで来た頃にはもう白い靴下に指を掛けていた。靴下が下げられたところに白と緑のミサンガが見えた。随分と細く作られたものだ。


 それがスイッチだった。ミサンガは他でもない僕が作って彼女にあげたものだ。彼女のではなく、僕自身の願いをこめて。全て思い出した。僕の奥底の後悔のことも含めて全てだ。そうするとどうしてあのマシンがこの日を見せているのかも分かってくる。


 この日は、僕が里穂と会う最後の日なのである。思い出した今となっては、こみ上げてくるのは口惜しさと苦々しさ。彼女は翌日、何の前触れもなく姿を消してしまうのだ。当時クラスの担任からは、事情があって急遽引っ越さなくてはならなくなったとだけ説明があった。


 別にどこかへ行ってしまうのを引き止めるわけじゃない。そうしたかったのも事実だ。だって、ずっと友達でいたいっていうのが僕の願いだったのだから。でも、もうそこはどうにもならないと割り切れる。ただ言って欲しかった。何も言わずにいなくなるなんて酷いじゃないか。仲良しだったつもりなのに、所詮は大事なことを伝えてももらえない程度だったのかと思うと自分が情けなくてたまらなくなった。だから忘れようと努めたのだろう。そして実際さっきまで忘れていたわけだ。


 里穂はとっくに川の中ほどまで入っていた。彼女は僕の方へと振り返り

「おいでよ、冷たくて気持ちいいよ。」

と、遠響きに言った。僕は裸足になったところだったのでズボンを膝のあたりまでまくしあげてから水際のところまで歩いていった。つま先から水に入れるとひんやりとした境界が徐々に足首まで吊り上がってくる。流れが当たって泡沫がたつのを見ると、いよいよこれが幻であることを忘れそうだ。


 「何か話があるんじゃないのか?」

我ながら唐突に投げかけた。虚を突かれた彼女は驚いた様子だったが、こちらからは逆光でよく見えなかった。ただ夕日化粧の髪が艶々しく流れるばかりである。

「どうしてそう思うの?」

「なんとなくさ。今日の君、暗いじゃないか。」

彼女はなおも迷っていた。ああ、今なら分かるよ。君は僕を軽んじたわけじゃない。心配させないために静かに消えたんだろう。恨むぜ、その優しさ。

「何を迷うんだ。友達なんだ!話してくれ。」

下手くそだ。もっと言い方ってのがあるはずなのに。でもいざ君を目の前にすると、千の言葉も消えてしまう。どうか、どうか伝わってくれまいか。


 里穂は答えないまま再び川の中を歩き出した。僕もそれに続いた。行く先には僕らの腰の高さほどの大岩がある。彼女はその脇を通り過ぎると、岩の後ろに立って僕の方を向いた。

「この岩を飛び越えてきてごらん!そしたら話してあげるよ。」

そう言った彼女は悪戯っぽく笑っていた。


 結局君はそうなんだ。やってやるさ、そのくらい。僕はバチャバチャと騒々しい水音をたてながら走り出した。大岩の向こうの里穂のところまで、迷いはない。夕焼けの空めがけて飛び上がった僕はゆうゆうと岩を飛び越えていた。しかし失策だったのは着地のことを考えていなかったことである。

飛び上がりすぎた僕の体はバランスを崩してしまった。


 受け止めてくれたのは里穂だった。物悲しそうに困った顔で笑っていた。

「はりきりすぎじゃない?」

「はりきりもするさ。さあ約束だよ、話してごらん。」

すると彼女は神妙な面持ちになった。やはりしばらくの間躊躇して、静かな時間が続いていたが、ようやく話し出してくれた。

「明日から私、学校行かないの。」

「どうして?」

そこが気になるところだった。

「私の家、知ってるでしょ?」

知ってる。知ってはいるが、特段変わったところはないように思う。確か小さい料理屋をやっていたはずだ。

「経営が厳しいらしくてね。いつの間にかどうにもならないくらいの借金を抱えていたらしいの。」

自営業ならあり得ない話でもないが何とも急な話だ。一般家庭が突然多額の借金背負うなんて何かありそう。今は関係ない話だが。

「それで怖い人たちが押しかけるようになっちゃったからこの町からひっそりと出ようって決まったのよ。」

「夜逃げってやつか。」

「そうね、まさか自分がすることになるなんてね。」

そう言って里穂は他人事のように笑った。

「もう会えないのかい?」

「ごめんね、でもそんな余裕なさそう。」

幻なのに僕は何を望んでいるんだろうか。


 君にしてあげられることなんてほとんどない。ここは幻なんだから。僕は里穂とここで別れて、そして二度と会えない。だからせめて......

「なあ、何というかその、ありがとう。」

「ウフフ、何が?」

里穂はからかうように笑っている。

「今までありがとう。元気でね、さようなら。」

今度はしっかりと言えた。彼女は面食らったようだったが僕はそれだけで満足だった。


 伝えたかったことを伝え終わると、しだいに彼女の顔がぼやけだした。そのまま視界のふちから暗くなっていき、ついにそこで意識が途絶えた。


 起きると目の前には紗良さんの顔があった。心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

「あ!起きた。具合はどう?涙こぼれてるよ。」

顔を触ると、確かに頬が濡れていた。紗良さんはそれを自前のハンカチで拭こうとしてくれているところだった。僕はソファに寝かせられている。上半身を起こすと多山さんはやはりあの黒椅子に座っていた。

「おや、起きたかい。おはよう。」

彼はなんでもない風にコーヒーをすすっている。こちらを流し目に見て優しく微笑んでいた。

「どうだったかい、初幻は。」

初幻なんて言葉、それこそ初耳だが確かに凄いものだった。夢にしては五感全てをはっきりと感じられた。なにより、里穂に会えたんだ、望んでも見られなかったはずの「もしも」を見ることができたんだ。


 

 

 多山さんは立ち上がってこちらに歩いてきた。右手に電卓を持っているので嫌な予感がする。

「さっそく現実に戻すようで悪いけどね。もちろん私たちも商売でやってるわけだからね。代金のお話をさせてもらうね。」

そうやって彼は電卓をカチカチ打った後にその額面を示してきた。


 金額を見て腰を抜かしそうになった。今まで僕が稼いだ総額の何倍もするくらいの高額である。結局美人局じゃないか!

「これは高すぎるでしょう!」

慌てる僕を見て多山さんと紗良さんは二人して笑っていた。

多山さんは説明してくれた。

「仕方がないんだよ。ここでしかできないことだし、何よりすごい量の燃料を使うんだよ。普通は富豪のお客さんばかりだしね。学生時代のワンシーンを切り取ってそこを変えようとしたのなんて、正直君が初めてだよ。まあ君にとっては凄く大きなことだったんだろうけど。」


 「でも僕、そんなお金持ってないですよ。」

それは困ったねと多山さんと紗良さんは顔を見合わせて笑っていた。しばらく二人してうーんと考え込んでいたが、やがて紗良さんが口を開いた。

「どうせ行くとこないんだしここで働いたらどう?」

なんとも唐突な話である。でもまあ有り難くはあるので出来ることなら雇ってもらいたいところだ。

「ね!多山さんもそれでいいでしょ?最近もっと人手が欲しいって言ってたじゃないですか。」

紗良さんが天使に見えてきた。多山さんも少し悩んではいたが、すぐに首を縦に振ってくれた。


 まだ色々と気になることはあるけれど、今はこれでいいんだ。宿なしよりのまま徘徊するよりはマシだしな。かくして僕はこの摩訶不思議な部屋で働くことになった。全く予想外の就職をすることになった二十三の夏である。

 


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