9話
微かに音が聞こえている。それが徐々に大きくなっていくと、人の声だという事に気が付いた。
声の主は懸命に私の名を呼んでいる。
重たい瞼をゆっくり開けると、ベルカの顔が目に入った。ひどく心配そうな表情の彼女は私が目を開けると涙ぐみながら驚いている。
「よかった!目を覚まされたのですね!本当に良かった…。ずっと生きた心地がしませんでした。このまま目が覚めないままだったら、あの鬼畜野郎を殺しにいっていたところです」
今とても物騒な言葉を聞いた気がするが、とりあえずここは綺麗に聞き流すことにした。
「もう大丈夫よ。私、どれくらい寝ていたのかしら…。そろそろ起きないといけないわね」
そういって体を起こそうとすると、なぜか体が鉛のように重たい。
「お嬢様、もうすこしお休みください。丸一日ベッドにいたのですから。急に動くと体に障りますので」
ベルカの言葉に絶句した。丸一日意識がなかった?
「私は治療師の先生を呼んできますね」
丸一日寝ていたという事実に驚いている私をよそに、ベルカは治療師を呼びに部屋を飛び出して行った。
ベルカが出ていくと、入れ代わるようにロディが慌てた様子で部屋に駆け込んできた。
「ソフィア様!良かった!本当に良かった」
珍しく取り乱した様子で息を切らせながらやって来た彼は少しやつれたように見える。
「申し訳ありませんでした……」
私の傍にやってきた彼は、消え入るような口調で私への謝罪を口にして、深々と頭を下げている。
「ロディさんは何も悪くありません。わたしが勝手にした事でこうなってしまいました」
「ソフィア様…」
そういうとロディはなんとも言えない複雑な表情をしていた。
「ソフィア様、治療師の方がおいでになられました」
ノックの音が聞こえてベルカが部屋に入って来た。彼女のすぐ後ろには初老の男性がいて、ベルカはすぐに彼を部屋へ招きいれた。
「さあ、ベッドに横になってくださいね」
治療士の男性がそう私に声をかけて両手を広げている。広げた手の平全体から、ぼわっとした鈍い光が出ているのが見えた。どうやってその光を出しているのかいつ見ても分からない。なんとも不思議な光景だ。
治療師から診療結果が告げられた。重度のストレスと睡眠不足、諸々の疲れが原因だと語られた。心と体のエネルギーがなかり弱っているのが見えるらしい。
アランと顔を合わせる度に傷つけられ抉られていく心が悲鳴を上げていたのだ。それがストレスになって少しずつ体内に蓄積されていき、アランのあの言葉が私の体と精神に止めを刺したようだ。
アランとの接触は私が思っている以上に自分自身を害していた事に気が付く。
倒れるまでそれに気が付かないふりをしていたのかもしれない。
このままではいけない。再び同じことを起こせば、ベルカやロディに心配をかけてしまう。今も心配して私の傍にいてくれる二人に、これ以上辛い表情はさせたくない。
「では、2日後また往診に来ます。それまで安静にしてください」
「はい。ありがとうございます」
そう言われた私は、これからどうすればいいのか考えを巡らせていたが結局、よく分からなくなっていた。治療師が部屋から出て行くのをベッドの上で見送ると次第に睡魔に襲われて行った。
治療師の施術には患者が体を休められるように睡眠効果もあるのだと聞いた事がある。次第に私は深い眠りに落ちて行った。
その後、目を覚ました私はベルカによってある事実を知らされた。
彼女の話によると、真っ青になって倒れた私に、真っ先に駆け寄り、ベッドまで運んでくれたのはロディだという事実を知った。
後でお礼をいわないと…。その後様子を見に私の部屋にやって来た彼にお礼を言うと彼をひどく恐縮させてしまって、結局、それはそれで申し訳ない事をしたと思ってしまった。
それから彼は、私の安静期間中ずっと、忙しい仕事の合間を見て様子を見に来てくれた。ベルカは彼の仕事を心配して彼が来る度に小言を言っていたが、いつも穏やかな物腰の彼は殺伐としている私の心に安心を与えてくれる存在だった。彼に小言を言っているベルカとそれを笑顔でかわすロディのやり取りはいつも見ていて面白しろい。素の自分で笑っていられたのだった。
結婚後一度も笑いかけられず会話らしい会話もない。アランの出迎えは彼自身によって禁止させられ、食事も別にされた。そのため彼に会う事は、ほぼなくなってしまった。それでも、婚前契約書にある通り、跡取りはもうけないといけない。
婚姻関係にある以上嫌でもアレンとの行為は拒めないのだ。
月に二回、義務的な行為を行い、それが終わると無言で出ていく。そんなアランの態度は変わる事はなかった。
記憶が戻る前の、アランに強く恋い焦がれている状態のままだったなら、これまでの散々な仕打ちに心が壊れていたかもしれない。
プラス25歳経験値がある分、打たれ強くなっているのだろう。何とか自我は保っていた。
でも時々、突然ボロボロと泣きだしてしまうのは私の意識ではない。純粋にアランを強く想い続けているソフィアの意識がそうさせているように思う。
後どれくらいこんな生活が続くのだろう。漠然とした不安が襲い掛かってくる。
しかし、それから三か月後の事だった。私はめでたく懐妊した。