8話
更新が遅れてしまい申し訳ありません。更新頻度を早くできるよう努力していきますので今後ともよろしくお願い致します。
浴槽から上がると、傍にあった籠の中からタオルを取り出し、全身に滴っている水滴を拭いていく。
一緒に用意されていたバスローブに袖を通すと、さらりとした感触がとても心地よく感じられた。体が綺麗になった事で淀んでいた気持ちは次第に晴れていき、気分は随分スッキリとしていた。靄がかかったように停止していた思考も徐々に戻りつつあった。
昨晩、初夜を迎えるまで私は、アランとの関係にまだわずかに希望を抱いていた。たとえ彼がまだマリアを想っていても、私達がこれまで築いてきた関係は揺るがないものだと信じていたのだ。しかし、アランが私に言い放ったあの言葉によって、彼との関係修復はとても困難な事のように思えていた。
マリアの言葉を完全に信じきっているアランは私が彼女を陰湿にいじめたと思い込んでいる。そしてその誤解を解く策もない状態だ。
これから先どうしたらいいのか、正直もうよく分からない。それでも、この場所で私に出来る事は可能な限りやってみよう。わずかに残った気力を振り絞ってそんな事を考え始めた。何もしなままふさぎ込んでいても仕方がないのだ。この屋敷の女主人として妻として務めくらいは果たさくてはいけない。
そのためにはまず、アランの予定を把握する必要があった。それを管理している従者のロディに聞けば快く教えてくれるはずだ。でもその前にこの顔では人前には出られない。泣いていた事が完全に分かってしまう。すぐに瞼の腫れを取らなければいけない。
入浴後、すぐに自室へ戻ると、瞼の腫れを取るため冷水でひたすら冷やし続ける。
その間ずっと、ベルカは私の近くにいて瞼の上のタオルを替えながら私が幼かった頃の話や、最近おかしかった事など、他愛もない話を沢山してくれた。
ベルカの優しくて穏やかな声は相変わらず心地よく、昔から変わる事はない。無条件にその声は私に安心を与えてくれるのだ。話題は尽きる事はなく、彼女との会話は私に余計な事を考える暇を与えなかった。そのおかげで、昨晩のひどい出来事はこの一時、思い出す事はなかった。
彼女が傍にいてくれる事に改めて感謝し、この場所で私は、一人ではない事を実感する事が出来た。
もしも彼女が駆け付けていなかったら、今頃私はまだあのベットの上で捨て置かれていただろう。
完全に陽が昇った頃には目の腫れは引いたものの、注意してみるとまだ少し違和感がある。しかし、そんな微妙が違いに気が付かれる事はきっとないだろうとすぐに思い直した。
身支度を終え、ロディを探すために部屋を出ていくと、目的地に向かってひたすら歩いた。この屋敷はとにかく広い。廊下はまるで迷路のようだ。
それでも、幼い頃から何度もこの屋敷に遊びに来ていたので、ある程度屋敷の内部は把握できていた。ロディのルーティーンが変わっていなければ、彼がどの時間に何処にいて、何をしているのか、今までのアランとの会話の内容からおおよそ検討がついていた。そのため数分後には問題なく彼を探しだす事に成功する。
私が彼を見つけた時、彼は自身の執務室から出てきたところだった。
「おはようございます、ロディさん」
私の声に気が付いたロディは、いつものように優しい笑顔で振り返る。しかし、私を見た瞬間、ひどく驚いた顔をして悲し気な表情を浮かべた。隠しきれていないわずかな目の腫れに気がついたのかもしれない。彼の何か言いたげな表情を私はいち早く察して、勤めて明るく振舞いながら言葉をつづけた。
「今日からアランの妻として、ふつつですがよろしくお願いします。忙しいところすいません。これから先のアランの予定を教えていただきたいのですが…」
「ソフィア様…」
そんな私の様子に戸惑いながらも彼は私に返事を返した。
「おはようございます。こちらこそ、今日からよろしくお願いします。昔から何度も言っておりますが私の事は呼び捨てにしてください。敬語も一切不要です。この屋敷に嫁いでこられたのなら尚更です」
「でも…。今更ですよね?こっちの方がしっくりくるんですよ」
出会った当初から優しい年上のお兄さんという印象の彼に、どうしても敬称と敬語を使ってしまう癖は今更ながら直すことは難しいのだ。呼び捨てにするのも話し方を変えるのも何だかとても気恥ずかしいというのが正直な感想だった。私がそう言ってお道化るように笑うと、彼はやれやれとでもいいたげな表情で頭を抱えていた。そんな彼の様子に張り付いていた気持ちは少しずつ解れていく。
「まったく…あなたは…。でも、私に対する呼び方と話し方はいつか必ず変えてもらいますからね。このままでは他の方達に示しがつきませんので」
「あ…。はい…。そのうちに…」
私はそういって誤魔化すように笑うと彼は深いため息をついた。
私より3つ年上のロディはこの世界では珍しい黒髪で切れ長の目が特徴的だ。前世で人気だった俳優にどこか似ていて、とても整った顔をしている。ゲームの製作スタッフにあの俳優のファンがいたのかもしれない。
いつも体形にピッタリ沿った燕尾服のような真っ黒いスーツをしっかりと着こなしていて、長身で細身の体形によく合っている。
彼と初めて会った日の事を今でもよく覚えている。
あの日、私はいつものようにアランの屋敷を訪れていた。彼を待っている間、私は手入れの行き届いた屋敷の庭園を見ようと、ひとりそこへ足を運んだのだ。見事に咲き誇る花々に目を奪われ、庭園の中を歩いていると花壇の前に男の子が一人立っている姿が見えた。彼は目の前にある紫色の綺麗な花を一人寂しそうに見つめていた。
あの人は誰だろう。見慣れないその少年が気になってしまい、少し離れた位置から彼を見ていた。よく見ると顔色が悪い。その上、ひどく思いつめたその表情をしている。その様子がとても心配になった私は彼に声をかけようかどうか迷っていた。引っ込み思案の性格が仇となって右往左往していると、彼はおもむろにメロディーを口ずさみ始めたのだ。
聞こえてくる歌声はとても綺麗で、その美声にしばらく聞き入ってしまった。しかし突然、彼は歌う事をやめてしまったのだ。
もっと彼の歌声を聞きたくなった私は、気が付くと彼に近づき、続きを歌ってくれるようにお願いをしていた。彼にしてみれば突然知らない人間に声をかけられたあげく続きを歌うよう言われてかなり戸惑っただろう。あの時はごめんなさいロディさん、心の中でそっと謝っておいた。
その日以来アランの屋敷に来た時はロディにお願いしてこっそり歌声を聞かせもらう事が楽しみの一つになっていた。
アランにその事を伝えても興味を持つ事はなく、むしろ男の歌声を聞いていても面白くないと言って決して取り合ってくれなかった事を思い出す。
そうして大人になるにつれ、彼に歌ってもらう機会は徐々に少なくなっていったが、今でも彼の歌声は大好きだった。
ロディによると、今日から暫く婚姻休暇だったはずの予定を取り下げていて今から勤務に向かうというのだ。
私は慌てて見送りの為屋敷の玄関まで向かう。
ほどなくしてやってきたアランに挨拶をするも、彼は私に一瞥もしないまま無言で出かけてしまった。
予想していた態度だがやはりひどく心が痛んだ。
その後も私に対する態度が改善される事はなかった。冷たくされるたびに心がズタズタに引き裂かれるように苦しい。それでも私はどんなに朝が早くても帰りが遅くなろうと見送りと出迎えは毎日欠かさず続けた。
昼間は時間が許す限りドリュバード家の歴史や領地、関わりのある貴族の名前も全て覚える事にも時間を費やした。婚姻のお礼状は出席者全員に書いて送った。
連日時間を忘れて勉強や作業に励んでいた。毎日の見送りと出迎えは欠かす事はなかった。
今日も見送りをするため、いつものように玄関でアランを待っていると、やって来た彼は珍しく私に向かって歩いてきたのだ。
予想外の行動に内心私はひどく驚いていたが、アランは私の前に立つと開口一番言い放った。
「そろそろいい加減にしてくれ、朝からお前の顔なんて見たくもない。そんな事をして俺のご機嫌でもとっているつもりか?性根の悪いお前の魂胆など分かり切っている。今後もう見送りも出迎えもやめろ」
そう私に言い放つとすぐに踵を返して出て行ってしまった。
『どうして!』
私の意識の一部がそう叫んでいる。
気がつくと私は、遠くなる彼の後ろ姿をぼんやりと見ていた。自分の意思がどこか遠くにあるようなフワフワとした感覚に陥っていた。
次の瞬間、私の意識とは別に、体から急に力が抜け落ちるように、膝から崩れ落ちてしまった。
床に付いた膝からそのまま崩れるように倒れた瞬間、意識は暗転した。