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ロレインの話2


 従者がやってきた。ついさっき空けたトレーに書類の束を積み上げていく。

 またか…。ここ数日、休む暇もなく仕事に忙殺されている。婚姻旅行で留守をしてるアルフォンスの代行もしているので、その分余計に忙しいのだ。さらに運が悪い事に急を要するものが何件も舞い込んでいる。

 忙しさでもう何日も寝ていない。それでも私の代わりは他にいないので泣き言はいえない。

 疲れ切った体に鞭を打つように次の書類に手を伸ばした。

 その瞬間、ガシャン!と足元から激しい音が聞こえた。肘が当たって手前に置いてあった紅茶のカップをソーサーごと床に落としてしまったようだ。

 

 ほどんど手を付けていないカップは、派手に中身をぶちまけて床に散乱している。

 あぁ…。やってしまった…。落ちているカップの残骸を見ながらぼんやりとそんな事を思う。

 

 ふと窓の外に目をやる。そこには清々しいほど快晴の空が広がっていた。すぐ目の前にある枝には小鳥が一羽止まっている。しかし、私と目が合った瞬間その小鳥は真っ青な空に飛び去っていった。

 翼があればいいのに。

 小鳥が飛び去っていった空をぼんやりと眺めていた。

 

 その先もずっとこうやって執務に追われながら一生を終えるんだろうか。無駄に煌びやかなこの部屋で大半を過ごして、時折、ここから見える外の世界を眺めては虚しい空想をするのだろう。私はどうしたってここから出る事が出来ないのだから。

 

 今頃、アルフォンスは何をしているだろう。彼の隣にはアリアがいる。幸せそうな二人の姿が想い浮かんだ。

 最愛の人だった。私達の境遇はよく似ていて、出会ったあの日から支え合って生きてきた。そんな彼の裏切りは私に相当なダメージを与えた。

 平然を装っているものの、心中はぼろぼろだった。本当は声を出して思い切り泣きたい。

 いつも毅然とした態度を崩してはいけない。そんな教えを幼い頃より叩きこまれてきた私は泣く事さえも許されない。


 愛した男とその妻の仲睦まじい姿を見ながら、そのすぐ傍らで、毎日大量の執務だけをこなす一生。なんて虚しくて惨めなのだろう。

 疲れ切った体をゆっくりと動かして立ち上がり、体をかがめて破片を拾い始めた。カチャカチャとした音だけが広い室内に響いている。


 ふと見ると、拾い上げたソーサーの大きな破片が鋭いナイフのように見えた。

 私はぼんやりとそれを眺めていた。


 この破片で首を貫けば、あの鳥のように私もここから飛び立てるだろうか。

 疲れすぎて思考がおかしくなっているのかもしれない。頭の片隅でわずかに自制が働いているようだが、危うい思考は頭から離れていかない。

 破片を両手で強く握りしめると手のひらから血が滴っているのが見えた。無心で喉元にそれを構える。

 あとはこの破片を突き刺すだけ。簡単な事だ。それだけですべて終わる。楽になれる。

 やがて考える事も面倒になった私は静かに目をつむった。


 『やめろ!』


 突然声が聞こえて破片を握っている手が止められた。同時に暖かな感触が手に伝わる。

 ゆっくりと目を開けると目のまえには白髪の美しい青年がいた。

 私の手を握りながらひどく悲しそうにこちらを見ている

 

「あなたは…」


 私の秘密の友達。幼い日にこの城で出会った心優しい少年。成長して大人になった姿の彼が目の前にいた。どうしてこんなところにいるのか。今までどうしていたのか。驚きとなつかしさで様々な疑問が沸きあがるが声にならない。

 

 自分に突きつけていた破片を私はゆっくりと降ろしていた。

 

 彼は破片を握りしめている私の手をゆっくりと開くと、血だらけの手のひらを悲しそうに見ながら自分の手を翳し始めた。

 

 

『ロレイン……辛かったね…』

 

 あの時より低くなった声で私にそう語りかける。

 手のひらにかざしていた彼の手がそっと離れていくと、生々しい傷口も血液もすっかり消えてなくなっていた。

 久しぶりに彼の声を聞いた私はひどく安心してしまった。感情のガタが外れたようにその場でわんわんと声を出して泣き出してしまった。

 感情の抑制が効かない。流れる涙は止める事ができなかった。

 感情が溢れてぐちゃぐちゃになった思考のまま、しばらくの間泣き続けていた。


『君はひとりじゃない。僕は君の近くにいるから』

 

 そう彼が言い終えた瞬間、ドアが開いて、入ってきた従者が慌ててこちらに駆け寄ってくる姿が見える。


 再び彼に視線を戻すとそこにはもう彼の姿は無くなっていた。

 慌てている従者をよそに、その場で辺りを見渡しながら彼の姿を必死に探し続けたが結局見つける事ができなかった。

 彼は私の目の前から忽然と消えてしまったように思えたが驚いた事にあの日を境に彼の存在を近くで感じるようになった。しかし、決して姿は見えない。気配だけで存在が分かるのだ。

 彼を近くに感じる時は、寂しい気持ちや悲しい気持ちが自然に和らいでいくのがわかった。

 やがて声が聞こえるようになって、会話を交わすようになる。

 

 傍から見たらひとりごとが多くなった私は怪しい人物にみえるのだろう。幸い私の執務室には私以外誰もいない。時々従者がきては書類を持ってくる。こちらから用がある時はベルを鳴らして誰かを呼ぶのだ。

 

 彼のおかげで精神状態もようやく安定した頃、アルフォンスが隣国から戻ってきた。ようやく私の仕事量が通常に戻る事が嬉しかった。

 形式上、彼らの出迎えに顔を出さなくてはならないので足を運んだ。アルフォンスが私に何か言いたそうにしている。付き合いが長いので態度や仕草からそういう些細な事でもよく分かってしまうのだが、特に私から何か言いたい事があるのかと問う気にもなれない。アルフォンスが私に発するどんな言葉も、きっと私をひどく不快にさせるのだろうから。

 表面的な会話を交わしただけで、すぐに自室へと戻った。

 


 戻って来た私はいつものように執務をこなし、時折彼と話をする。今日は珍しく彼の方から話しかけてきた。

 

『ねぇ、レイン…。君は何故産まれる前から王子の婚約者だったのか、本当の理由を知っている?』


「いえ、知らないわ。昔からそう決まっているとだけ言われ続けていたから」


『そう…。知らないのか…』


 不思議な存在の彼が本当は何者なのか昔から知らない。それでも彼が存在しているという事実だけで十分だった。生まれる前から見えない鎖に繋がれている私はその理由さえ知らない。だから自分自身の事でさえよく分からない私もきっと彼と同じなのだろう。 

 

 数日たったある日の事だった。この日彼は、いつもとは少し違う口調で話を始めた。

 

『ねぇレイン。今からいう事をよく聞いて。これから少しの間、君と話をする事ができないんだ。だからね、君が寂しくないように僕は1つ、君に贈り物をしたいんだ。きっとそれは君を笑顔にしてくれる。でもね、これからいう事をよく聞いて。納得してくれたらその贈り物を受け取ってほしい』


 それから私は彼の話を静かに聞いた。全てに納得をしてそれを受け取る事に決めた。


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