1 幼女に一人暮らしを強いるとか鬼か
お腹が空いていた。
もう何日もまともに食事をしていない。母が生きていた頃は美味しい食事だけでなくおやつも用意されていたし、一日に何度も着替えていた。午前中は動きやすいワンピースで、午後は淑女教育のためのドレス、夕食前に可愛らしいドレスに着替えて、マナーを教わりながらの食事。眠る時だって…。
アンティーク家具や意匠をこらした小物、清潔な部屋、優しい乳母、メイド達、永遠に続くと思っていた幸せな時。
母の病死により状況が一変した。
父は一年で再婚し、再婚相手は愛人だった。すでに一歳年下の妹がいた。
当時五歳ではあったが、読み書きはできたし本も読んでいた。
だからなんとなく『父が母に隠れて良くないこと』をしていたことは理解できた。ほがらかだった使用人達はあまり笑わなくなり、まず乳母が退職し、続いて私についていたメイド達だけがクビになった。
父は後ろめたかったのか私の顔を見ることもなくなり、家の中の事を義母に任せるようになった。
義母はすぐに私を屋敷から追い出し、別邸のひとつで暮らすようにと命じた。
その頃には何かと理由をつけて体罰を受けていたので素直に従った。殴られ罵倒されることが怖くて仕方なかった。
義母は六歳の私を森の中の別邸に置き去りにし、そして私は家族からも使用人達からも忘れ去られた。一応、メイドが一人ついてはいたがやる気のない少女で、最低限のこともしなかった。
掃除や洗濯もしなければ、食事も堅い黒パンと野菜を少し。週に一度、袋一つ分の食糧を置きにくるだけ。
最初の頃はなんとかメイドと仲良くならなければと声をかけていたが、すぐに諦めた。
空腹のあまり体力はすぐに尽きて、それとともに気力も萎えた。
お母様に会いたい。
お腹が空いた。
お母様に会いた……い。死んだらお母様に会えるのかな…。
お腹………、空い………、た………。
朦朧とする意識の中で唐突に。
おにぎり食べたい。
あの真っ白でほんのりあまい…。
あまい?そんなもの、食べた事はない。しかし頭の中にははっはりと『おにぎり』がどんなものか浮かんでいた。それだけではない。
唐揚げ、卵焼き、トンカツ、すき焼き…、お寿司。
何、これ、まったくわからない未知の食べ物のはずなのに、やけに鮮明な映像と味が浮かんでくる。
余計、お腹、空くわっ。
もうっ、やだっ、食べられないもののことを考えても空腹が増すだけだ、寝よう。
そして眠りについた私は夢の中でさらに具体的に食事の夢をみることになった。
異世界転生だった。
これは空腹に耐えきれず前世の記憶を思い出した。ということでいいのかしら。他に理由がない。溺れたわけでも階段から落ちたわけでも頭を強く打ったわけでも、ましてや攻略対象に会ったわけでもない。
ここが乙女ゲームの世界なのか、またはアニメか漫画か…、そういった事とはまったく関係のない未知の世界かもわからない。
あまりにもお腹が空きすぎて、防衛本能で前世の記憶が呼び起こされた…とか?
とは言っても、前世は平均的庶民…の、雇われ事務員、低学歴、未婚、オタク、そして狭いアパートでのゆるゆる一人暮らし。
特別な知識は何もなく料理スキルも平均以下。自炊での味付けは市販品のフル活用。カレールー、麻婆豆腐の元、混ぜるだけで完成するとか、野菜を一種類足すだけでオッケーとか最高過ぎる。
底辺ではあったが空腹で死にそうになったことはない。
スーパーやコンビニで美味しいスイーツも買えた。月に一度のデパ地下グルメは自分へのご褒美という、まったく何の努力もせずにダラダラ生きていたわりに、何故かご褒美だと思っていた、よくあることだよね。
前世ではよほど特殊な事情でもない限り、餓死はない。貧乏でもそれなりに豊かな食生活で、今は公爵家のご令嬢なのに餓死寸前ってどうなの。
このまま衰弱していったら『病死』へと追い込まれるのだろうが、後妻の思惑通りに動くつもりはない。
まずはメイドの目をごまかしつつ食糧を確保しなくてはっ!
メイドのゾーイは週に一度、昼過ぎにやってきた。
おそらく『死なせるな』との命令を受けているのだろう。私が生きているかどうかだけは確認している。
フォーサイス公爵家はエイブラムズ王国の中では最弱の公爵家だが、それでも五つあるうちの公爵家のひとつに違いない。遡れば王家の血筋だ。
娘イザベラ…私が生まれた事は届け出ているし、近い年齢の王子が二人もいる。公爵家の娘だから王子の婚約者候補に入っている。
家庭教師の先生がそんな事を言っていた気がする。
再婚してすぐに幼い娘が変死…はいくら父と義母がアホでも、さすがに執事や侍従が止めるはず。
止めた結果、別邸への追放で落ち着いたのかな?アホが考える事はわからんな。六歳児が幽霊でも住み着いていそうな古びた洋館で一人暮らし。
あり得ないでしょ、すぐに死ぬって、前世の記憶がなければ今頃、寝たきりになっていたよ。
昨日まではどんより自室で膝を抱えて過ごしていたが、これからは生存率をあげるための工夫をしなくてはいけない。
見た目は六歳でも頭の中身は三十路喪女になったのだ。そう、かの有名な見た目は子供、頭脳は大人…である。
大人メンタルなら一人暮らしもオッケー、寂しくない。幽霊とだって友達になれる、たぶん。そして頑張れば料理だってできるはず。
しぶとく生き残ってみせるぜ。
まずは屋敷の間取りを確認した。洋館なので広々とした玄関ホールとサンルーム、推定十人程度で使えるダイニングルームがある。サンルームと呼べばいいのかな。客間もある。
それから主寝室、客間、書斎と図書室。元の住人が本好きだったのかなかなかの品揃えだ。期待していた魔法書や植物図鑑もあった。
広いダイニングがあるのだから厨房も相応の広さだが埃が積もって使った形跡がない。何の知識もないと思われる幼女、貴族のご令嬢は厨房に立ち入らない。
私がここで料理をしたら、やる気のないゾーイでも気づく。
彼女が来る日は部屋でじっとしているほうが良いだろう。可哀相に思って食材を増やしてくれる…ことはなさそうなので、現状維持がベストかな。
厨房を探してみたが、すぐに食べられそうなものはなかった。あったとしても古すぎて口にするのは危険か。
お腹は空いたままだから、まだ活発に動くのは難しい。となれば、先に知識。
図書室に行き、参考になりそうな本がないか調べた。
結果、この別邸の住民は父の伯父のものだとわかった。おじい様のお兄さんね。伯祖父…読み方はおおおじだったかな、『お』が多いな、おぉっ、おがおおいな!
………うん、日記の続きを読もう。
日記によるとお掃除メイドが母親で肩身の狭い思いをしていたようだ。後継者争いやモロモロの人付き合いの果て、別邸に追いやられた。というか、十四歳の時、自ら引きこもった。
『この日記を読んでいるということは私と似た境遇なのだろう。困ったことがあれば図書室の棚の…』
と、隠し扉の位置が記されていた。
ちなみに日記はたくさんの本に紛れて置かれていた。背表紙には『近隣植物について』とありパラパラと中を見れば手書きで植物の絵が描かれている。パッと見た感じは植物の記録だが、読むと植物の説明だけでなく、過去の経緯や日々の暮らしについて差し障りのない書き方で触れている。
そして記録や日々の日記とは別にランダムに単語が書かれていた。落書きかと思ったが、それにしては何か所かに散らばっている。単語を拾い集め文章を組み立てると隠し部屋の情報へとつながった。
それなりに真剣に読まなければ気づかない。
食べられる植物についての情報だけでもありがたいが、隠し部屋にはさらに役立つ情報がありそうだ。
荒れ放題の庭に小さな赤い実がなる木が植わっていた。
現在、春から夏。運よく木苺やラズベリーの実を採取することができた。ちょっと酸味はあるがそのまま食べられる果物だ。よくよく見ればベリー系だけでなく、柑橘系やイチジクの木もある。
酸っぱいくらいなら我慢できる、空腹よりはまし。
そして野草。残念ながら野草はそのまま食べられない。庭にはイモ類も多く植わっていたが、こちらも生のまま食べるのは難しい。今は掘り起こす力もない。
この世界、水の魔石と浄化の魔石があるため、上下水道については問題なく使える。水と浄化の魔石は安価で、機能が低下した時は自身の魔力を補充すれば復活する。
魔力は平民でも持っているが使える魔法や魔力量には個人差がある。ありがちな話で、貴族のほうが魔力量は多く優位特性の者が生まれやすい。
私にも魔力はある。ゆえに放置されていても水だけは使える。できればお湯を使いたいがお風呂や厨房を難なく使う六歳児、しかも貴族令嬢はいない。普通はメイドに手伝ってもらう。
しかしお風呂に入りたい、お湯も使いたい。
そんな悩みを解決してくれたのも元家主である伯祖父様だった。
隠し部屋は三畳くらいの広さでパニックルーム…前世では馴染の少ない緊急避難用の部屋だった。屋敷ごと燃やされてもこの部屋は燃えないし、外からもわからないように隠蔽の魔法がかけられている。とのこと。
伯祖父様ってば命でも狙われていたのか?貴族社会は爵位や利権のためにシャレにならないことをするからな。
そして部屋の中にはこの世界やこの国に関する本、そして魔法書、植物図鑑、魔物図鑑等、各種図鑑類が一通り。さらに他国に関する本もあった。
伯祖父様は最終的に竜王国の言葉を勉強して、隣国、オルティス竜王国へと旅立っていった。
竜王国はその名の通り竜人の国で圧倒的武力を誇っている。
弱い人族なんて相手にしないようにも思えるが、この世界で生きている限り、多少の交流は必要となる。誇り高き竜人はこちらの国でいう貴族のような気質の人が多く、農作業などしないし、商人や職人もやりたがらない。
なんせ武力特化の種族である。強い竜人に仕えるのならばまだ我慢できるが、そうでもない相手に頭を下げることはしたくない。
どう考えても『普通の庶民』が不足してくる。
竜人国は脳筋ではあるが弱い者を虐げることはしない。
人間を殺すことなど簡単にできるが、あまりにも簡単にできてしまうため軽く小突いただけで首がちぎれたとか、内臓が破裂したとか、人間側からしてみたら虐殺事件が何度かあった。
小銭をくすねて腕がもげ、仕事をサボッて消し炭にされ、竜人からの求婚を断って胴体切断とか…、とんだホラーである。
脳筋なりに反省をして、人間に関しては明らかな正当防衛でない限り、処罰は司法の場に委ねることになった。
不当に弱者が虐げられることのない国。そして常に一般庶民が不足している国。
伯祖父様は出来る限りの知識を詰め込んで隣国に逃げた。無事に竜人国に辿り着けたのかはわからない。
だけど、伯祖父様ならばきっと無事に辿り着いて自由に楽しく暮らしていることだろう。
だってこの部屋は本当にすごい。
生活に必要なものがすべて揃っているし、旅立ちに役立ちそうも物もある。
小部屋には魔道ランプがあり、好きな時間に本が読めるようになった。そして魔法書のおかげでいろいろと便利な魔法も覚えられた。とはいえ、魔力量がまだ少ないためできることは限られている。
最初に覚えたものは魔法陣と小さな魔石を使った幻覚魔法だった。私が膝を抱えて座っている像を作り出し、寝室の隅に常に映しておくようにする。
見張りのゾーイ対策だ。ゾーイはただ私がおとなしくしている姿を確認するだけで話しかけてくることはない。ドアの隙間から覗くだけなので近づくこともない。
屋敷に来て姿を確認し、厨房に黒パンが入った袋を置いていくだけ。えぇ、四回目で野菜はなくなったよ、ほんと、クソだな。
天気が悪ければ晴れるまで来ない。いたよ、そーゆうバイト、雨の日だけ病気になるヤツな。本人、バレてないつもりだろうけど、バレてるから。いちいち注意するのも面倒…って扱いに格下げされているだけだから。
別邸にはゾーイ以外、来ない。今のところは完全放置。
屋敷は一番近い村でも徒歩一時間以上の距離で森の中に建てられている。地図で確認をすると山の中腹と言うのが正しいのかな。
どちらにしても地元民は来ないし、盗賊や浮浪者も近づかない。私は確認したことがないが夜になるとこの辺りに亡霊らしきものが現れるらしい。伯祖父様の仕掛けで、初見で見破ってここに住み着こう…と考える豪胆な人間はいない。
そんな太い神経の人間は、そもそもこんな山奥に逃げ込まない。
ゾーイも幽霊が怖くてあまり来ないのかもしれない。
推定十八歳前後と思われるゾーイだが、義母が雇っただけあって少女らしい快活さも可愛げもない。顔立ちは悪くないのに常に不満そうに口を曲げている。普通の女の子なら、幼女が困窮していたら少しくらいは同情しないか?と思うが、心底、嫌そうに私(今は幻影だけど)を見ている。
こっちもあんたなんか大嫌いだっつーの。
さて今はどうでもいい下っ端ゾーイよりも食糧確保だ。
食べられる木の実、野草がわかり、なんとか芋の収穫もできるようになった。土魔法を覚えたし、庭師が使っていた道具も見つかった。小さめのスコップがあって良かったよ。すこし錆びていたが素手で掘るよりは楽だ。
伯祖父様の小部屋には小さいながらもトイレと簡易キッチンがあり、これで料理もできる。
素晴らしい。
まずは人間らしい食生活を目標に、体力、魔力を増強して竜王国への脱出を目指す。
閲覧ありがとうございます。